2018年6月11日月曜日

万引き家族

監督:是枝裕和、出演:リリー・フランキー、安藤サクラ ほか
ざっくり言って「分担する」というのがこの映画のテーマだと思うが、それは家族だから日常の家事や仕事を分担するというだけでなく、時と場合によっては、社会的に個人が背負うべきものまで分担することでわれわれのリアルな人生は成り立っている、という描写を徹底していた。それはそれほど今の社会が硬直しているということの裏返しかもしれない。この映画の家族は擬似的な家族であるが、擬似的であるからこそ「分担する」という行為が意識化され、そこに生まれる精神的絆の繊細な感触まで浮かび上がらせたのだろう。出演者はみな素晴らしかった。なかでも安藤サクラのアドリブ風の芝居には舌を巻いた。彼女はおそらく監督の共犯者とでもいうべき存在で、映画の核心に触れる何かを分担していたのだと思う。

2018年6月9日土曜日

「ツヤマジケン」と狂気の世界

日本のラジオ『カーテン』(2017年)の画期は、舞台と客席を反転したことよりもむしろ、観客席という同一平面空間に〈出来事〉を離散的にフラットに配置したことだと思うのだが、『ツヤマジケン』(2018年再演)では〈出来事〉を混ぜ合わせ、掻き回し、その混沌に人間の狂気の奔出を探っていたようにみえる。もし、人間の狂気がツヤマジケン的な生成原理をもつとするなら、それはもうこの現代世界から取り除くことができないのではないだろうか。なぜなら、それこそ『カーテン』のようなテロリストが暴力的に制圧でもしないかぎり、人間社会はさまざまな〈出来事〉を関連付けることによって形成されるからである。逆にいえば、人間が正気でいるためには〈出来事〉を個々に切り離して考えなければならない。外界から隔離された『カーテン』の登場人物たちの多くが正気を保っているのは理由なきことではないのだろう。だから、この『ツヤマジケン』は『カーテン』とはきわめて対照的な世界である。『ツヤマジケン』の大月ユキは父との〈出来事〉に囚われていたし、榊原マコトは嘘によって〈出来事〉を支配するという欲望に囚われていた。闖入者のムツオは人生の〈出来事〉すべてを清算しようと発狂寸前。行方知れずの都井ミナコは「一を十に考える」性格らしいが、それは一の〈出来事〉に他の九の〈出来事〉を結びつけて考えてしまうとはいえまいか?ともかく、誰も彼もが外界の〈出来事〉に押し潰され、悲鳴を上げんばかりなのである。有史以来、人間は自身の高度な記憶力や計算力によって進化を遂げてきたが、その知的能力は世界の〈出来事〉相互を不可避に結びつけ、その結果、狂気を生産せざるを得ないのだ。そうした狂気に対する考察を『ツヤマジケン』という劇作品は与えてくれたように思う。

2018年6月5日火曜日

国会紛糾恐れ改ざん

安保法制の時は、9割以上の学者が違憲だという戦争志向の法律をごり押し制定。この森友問題では、安倍晋三の右翼贔屓を隠すため財務省総出で文書を改ざん、組織的な不正が発覚しても、大臣の麻生太郎はしらばっくれて白々しい。民主主義を蹂躙する安倍翼賛体制の完成も間近なのか。

2018年5月31日木曜日

MENS MARKの眼鏡

今まで使っていた眼鏡をぶっ壊したので新調した(ほぼ一年しか保たなかった…)。あいかわらず似たり寄ったりのデザインだが、フレームが細くなり、テンプルはチタン製なので、とても軽くなった。あと、眼鏡屋の兄ちゃんと喋っていて、ふと今年の夏は運転免許の更新があることに気づき、レンズの度も上げることにした。いや、良く見える!まぁ想定外出費の3万円だから、多少の改良点もないとね。

政治的中立という虚構

原理原則として明らかなのは、社会生活を営むかぎり「政治的中立」などないということだ。すべての政治的中立は虚構である。それでもあえて「中立」が必要に感じる時もないわけではない。たとえば、政治的議論を交わすための議事進行に関して。あるいは、報道を検証するための客観性に関して。だが、それらの立脚点もメタレベルにおいては政治的である。それは民主主義の一部なのだ。民主主義という思想が優れていると同時に困難をともなうのもまさにそこで、民主主義はアンチ民主主義を信奉することを「個人の自由」として認める。だが、民主主義の根幹を壊すような全体化は許さないだろう。この二段構えの社会思想システムにこそ、古代ギリシャ時代からその命脈を繋いできた民主主義のポテンシャルが宿っているのだと思う。すなわち「政治的中立」というのは民主主義を徹底するため対立を一時的に棚上げすることを意味するのであって、その立場は本質的に虚構なのである。

2018年5月23日水曜日

エリート利権という桎梏

現政権の長い断末魔みたいな政局を見ていると、安倍周辺の連中が崖っぷちに立っていて嘘だろうが辻褄合わんだろうがそんなの関係ねー!というふうになっているのは、よくわかる。ただ、わかりにくいのは、自民党内の他勢力がいまだにダンマリなのはなぜか?あと、世論調査の支持率が3割台で底を打ってしまうのはなぜか?そのあたりのことは気になる。自民党内のことは情報をもっているわけでもないので、世論のことを考える。アベノミクスはもちろん、最近の「働き方改革」にしても「高度プロフェッショナル制度」という名の「残業代ゼロ法案」「過労死法案」であり、それは明確な経団連向けの政策だというから、安倍が一方でこうした資本家層の利益を保護し、もう一方で極右勢力の悲願である改憲に執着するというのが、クルマの両輪になっているように思える。われわれ庶民にとっては、よくこうも最凶最悪の政策ばかり出すよなという安倍政権だが、それがいかにヤバいものであろうとも、別の立場から容認する理由をもつエリート層が存在するということだ。それはエリート層だから少数派に違いないが、世論を誘導し、社会を牛耳る力をもっている少数派だ。表層に浮かび上がる「世論」と沈潜する個々人の「民意」との乖離が激しいとでもいうべきか。経済界のトップやマスコミの責任者や、御用学者や御用タレント、政府の広報みたいな評論家や、むろん、霞が関の官僚にしたってそのエリート利権の中枢にいることには変わりない。こうした構造を踏まえた上で考えないといかんなぁと思う。

2018年5月19日土曜日

東京マトリョーシカ

中野RAFTで「東京マトリョーシカ」を見て来ました。もう全部、おもしろかった!『さきちゃんは電波が届かない』はけっこう凝った複雑なことやっててわかりにくいんだけど、そのわかりにくさもおもしろかった。坂本さんの書く芝居はだいたいフォローしてるはずで、今回は新鮮なアプローチだなーという気が。人物の不在が機能するところがゴドーぽいなーとか、論点をズラす言葉が感情の発火点になるみたいなところが國士っぽいなーとか(的外れな感想かもしれんですけど)。舞台的には、今回も報われない愛の狩人コギトさんが妙に愛おしかったり、由良さんのパジャマ姿が可愛かったり(笑)いや、二人ともこれを短期間でよく仕上げて来てくるなーと驚きでした。屋代さんの書いた『スイートホーム』は鈴さんが台本読んで褒めまくってましたけど、出来上がった舞台も絶品でした。ほんと無駄がないというか、素材=俳優の旨味は全部出し尽くしたというか。クスクス笑わせ続けて最後にホロリとさせるオチもさりげなくて、たまらんかったです。『迎春』『お花見協奏曲』も見事なテッパンコメディで、コメディって笑いそのものよりも、笑いに付随する幸福感みたいなものこそ重要なんじゃないのかなーとか改めて思いました。叙情的な作品の『灯火』も好きでした。カンパンをもらうところとか、味わい深かったなー。このオムニバス公演、20日までやってるそうです!