2018年5月19日土曜日

東京マトリョーシカ

中野RAFTで「東京マトリョーシカ」を見て来ました。もう全部、おもしろかった!『さきちゃんは電波が届かない』はけっこう凝った複雑なことやっててわかりにくいんだけど、そのわかりにくさもおもしろかった。坂本さんの書く芝居はだいたいフォローしてるはずで、今回は新鮮なアプローチだなーという気が。人物の不在が機能するところがゴドーぽいなーとか、論点をズラす言葉が感情の発火点になるみたいなところが國士っぽいなーとか(的外れな感想かもしれんですけど)。舞台的には、今回も報われない愛の狩人コギトさんが妙に愛おしかったり、由良さんのパジャマ姿が可愛かったり(笑)いや、二人ともこれを短期間でよく仕上げて来てくるなーと驚きでした。屋代さんの書いた『スイートホーム』は鈴さんが台本読んで褒めまくってましたけど、出来上がった舞台も絶品でした。ほんと無駄がないというか、素材=俳優の旨味は全部出し尽くしたというか。クスクス笑わせ続けて最後にホロリとさせるオチもさりげなくて、たまらんかったです。『迎春』『お花見協奏曲』も見事なテッパンコメディで、コメディって笑いそのものよりも、笑いに付随する幸福感みたいなものこそ重要なんじゃないのかなーとか改めて思いました。叙情的な作品の『灯火』も好きでした。カンパンをもらうところとか、味わい深かったなー。このオムニバス公演、20日までやってるそうです!

2018年5月16日水曜日

血の轍

押見修造 著、小学館、552円+税
押見修造の漫画は初めて読む。第3巻まで読んだ。驚いた。本作に登場する、若く美しい母・静子と中学2年の息子・静一との間には、一種のオイディプス的関係が結ばれている。簡単に言うと、静一はマザコンであり、静子はそのマザコンを解消するどころかむしろ強化しているようにみえる。なので、この母子の日常には不穏な性的雰囲気すら紛れこむ。その結果、静子はとある事件を引き起こし、その後の彼女は情緒不安定な言葉や表情や凶暴さの片鱗をちらつかせるようになる。一方、母の事件を自分と切り離して考えられない静一は出口なき苦悩の牢獄に囚われてしまう。…と、既刊分の概略はそんなところだろうか。日常生活の中にエロティックな心理を刻む画力に加え、その物語の残酷さに戦慄した。静一だけでなく読者の俺にも、この物語が救いのあるものになるとはとても思えないので、素晴らしい作品だが、読むのもしんどい。自分はこの続きを読むだろうか?わからない。ただ、ここに描かれる若き母の孤独は現代女性の肖像画のひとつであり、避けて通れぬわれわれの物語だとも思う。

2018年5月14日月曜日

憎悪に踊れ!

先日、自衛隊幹部が国会議員へ暴言を吐くという事件があったが、ああいうネトウヨ軍人の言動が示唆するように、今の政治が彼らのもつような憎悪感情をエネルギーにしているのは確かだ思う。その憎悪の対象は、政権批判の言葉だったり、民主主義の思想だったり、リベラルな政党や政治家や知識人だったり、中国や韓国や北朝鮮などの近隣国家だったりする。百田尚樹がテレビ番組で沖縄に関するデタラメを言っているのも見たけど、あれも自分の発言に根拠がないことはわかっていて、わかっているからこそより過激に、憎悪感情を焚きつける「燃料」として投下しているようにみえる。あとは発火さえすれば、人々の眼差しは憎悪の煙に曇ってしまうからだ。日本だけじゃない。欧米のイスラム嫌悪は中東を地獄の業火で覆い尽くし、アメリカ国内の移民労働者への反感はおよそ80万人ともいわれる若きラティーノを国外追放しようとする。ここに現代の権力者たちが民主制を逆手にとるためのセオリーが垣間見えるのではないか。それは恐怖で人を萎縮させ、憎悪で人を増長させる、というものだ。中国脅威論をすりこみJアラートを乱発し、無防備な国民は従順なる羊と化してしまう。だが、いったん憎悪に駆られると我を忘れて踊りだすのだ。そこに過去の日本人の陰惨な歴史を重ね合わせて検証するまでもないだろう。

2018年5月4日金曜日

自由にやれ!

上映作品のリーフレット(新文芸坐のロビーにて)
昨日、ひさしぶりに、新文芸坐の好環境でゴダールの旧作映画を見た。もう最高だ。『アルファヴィル』のやりたい放題の音や映像。ロマンチックな音色でも端正なモノクロ美学でもない。ひび割れた男の濁声が都市の下水道から湧き上がるように響き、高級ホテルの空気を踏み荒らすかのような痛快なカメラワークを見せる。そんな傍に忍び寄るのは、第3級誘惑婦!一転して『軽蔑』は俳優陣の佇まいも南欧の風景も優雅で憂いを帯びていて素晴らしい。名優ミシェル・ピコリに、美の化身のようなブリジット・バルドー、実に憎々しいジャック・パランス、そして大監督が自身を演じるフリッツ・ラングも、すっげー良い感じ!なんにせよ、ゴダール映画がわれわれに語りかけるのは、自由にやれ!というそのひと言に尽きる。映画の才能とは自由を行使する才能なのだ。

2018年5月1日火曜日

「風の谷のナウシカ」漫画版

宮崎駿 著、徳間書店、愛蔵版各巻 5,631円+税
1982年に連載を開始し、1994年に完結した『風の谷のナウシカ』の漫画版をご存知だろうか?有名な映画版の公開は1984年の3月11日(!)なので、連載初期に一度映像化され、その後も長く描き続けられたという代物だ。
俺は出版されたアニメージュコミックス全7巻(今でもamazonで、3,072円で買えるので、超おすすめ!)をざっくり読んではいたが、改めて読み直して、その独特な芸術的ポジションに興味を引かれた。いや、読み物としてはどうなの?と聞かれたら、それはもう文句なしにおもしろい!と言いたい。映画のストーリーにあたる序盤を過ぎた頃から、ありったけの時間を注ぎ込んで読み耽った。ただ、その直中で感じたのが「音がない」という自分でもよくわからない奇妙な印象だった。もっと丁寧に考えてみるべきかな。たとえば、本を読みながらふと息をついたとき部屋の静寂ぶりに驚くということは珍しくないと思う。そしてまた読み続けるため再び物語世界へ没入するわけでこの作品も同様だったが、そのとき微細な違和を感じたのだ。なにかがいつもと違う。音がない、というか、音の層が薄い、というか、でも音自体は、あるにはある。台詞も多いし、戦争ものとしての物語はきわめて騒々しい世界だし、表現上の擬音も多用され、その手の話法は普通の漫画と変わらない。それでも、音の層が薄いと感じたのはなぜか。
漫画は絵と文字によって世界を物語る。そのため映画がもっているような音や動きの要素は、漫画家が苦心して比喩的に再現することになる。ところが、アニメーション製作者でもある宮崎駿は、日々、音や動きを駆使した仕事をやっていて、その上で漫画を描いた。だから、彼にとって音と動きは別の場所に実在していたのだ。たとえば『風の谷のナウシカ』映画版の冒頭、王蟲の抜け殻を見つけたナウシカがその硬い表皮に剣を叩き付けて放つキーンという高く美しい響き。あるいは、腐海の菌類の胞子を手持ちの試験管に採取するときのフワッと沈むように落ちる繊細な動き。そういう映像芸術の効果を知る作家が漫画固有の不自由さへ戦いを挑むなどという動機を持つはずがない。俺が「音の層が薄い」と感じたのは、音の表現が簡略化されていたということへの反応だったのだろう。「漫画として描くならアニメーションで絶対できないような作品を」と言って描き始めた宮崎ゆえに、専門の漫画家たちとはその文体を異にしているのだと思う。
そして『風の谷のナウシカ』の漫画版は、12年間にわたって複雑なストーリーを編みながら世界観を構築し、唯一無二の作品を打ち立てた。この複雑さを活かしたまま2時間のアニメ作品にするなんて到底不可能だろうし、そもそも執筆の動機は映像化に逆行することだった。読み終えて思うのは、結局、宮崎はそこで自身の思想的探求を行っていたのだ、ということである。映画版のナウシカが「自然と文明」の和解のために奔走したのに対し、漫画版のナウシカは腐海の謎を解くためならどんなリスクも受け入れるだろう。腐海の謎とは、われわれの生きる世界の謎であり、それは「自然と文明」の絶対的非和解であるかもしれず、だとすれば、映画版を否定する可能性すらある。漫画版『風の谷のナウシカ』はそんなスリリングな思想的ミステリーとして漫画史に燦然と輝いているのではないだろうか。

2018年4月16日月曜日

〈道徳〉の脅威について

今朝、政治学者の中野晃一氏が、日本の保守勢力が道徳教育に熱心なのを「人権教育だけはやりたくないから。教育勅語が大好きで、日本国憲法が嫌いなのも同じ」と書いているのを読んで、膝を打った。むろん、具体的な内容を挙げれば、〈道徳〉も〈人権〉も共通する部分は多い。それがある局面では対立的な様相を見せるのはなぜか。
先の3月、東京のシアター風姿花伝で上演された『大阪、ミナミの高校生2』(オノマリコ+精華高等学校演劇部)は、学校でセックスしたのを見つかった女子学生が指導教員(木内コギト)に反省文を提出することになるが、何度も書き直しを求められ、二人の間で意見の衝突が繰り広げられる、という芝居だった。教員としては、反省文の中身が真摯でないと彼女を弁護するのにも差し障るし、もっと心から反省して書きなさい、という。しかし、学生はなかなか納得しない。校則にはセックスしちゃいけないって書いてないじゃないですか!と反発したり、ようやく反省文として使えそうなものを書き上げても、衝動的に破棄してしまう。彼女は学校という場所がセックスするのに不適切だということは理解するものの、その行為は自身の感情に基づく純粋なものであり、反省することがその感情自体を否定するように感じられるらしく、強い抵抗を露わにする。
ここには〈道徳〉と〈人権〉に関するちょっとした混乱が読みとれる。〈道徳〉は歴史的に形成された社会規範のひとつである一方、〈人権〉はアプリオリに与えられた権利であり、普遍的概念である。女子高生の抱いた恋愛感情は個人的なものだから〈人権〉によって尊重されるものだし、社会規範によって侵犯できるはずがない。ただ、彼女は〈道徳〉の問題としての同意を迫られているにもかかわらず、個人の尊厳、すなわち〈人権〉を侵害されたかのような体験として語っているのだ。この「学校でセックスしちゃいかん」という〈道徳〉の事例は、われわれの現在の社会では妥当だろうが、社会規範そのものは未来永劫絶対的なものというわけではない。時代の変化とともに適時改良すべきだろうし、その目指すところは人間の個人的な幸福を最大限実現することであり、〈道徳〉もそのために役立つべきである。ゆえに、時には〈人権〉を侵害しかねない〈道徳〉の脅威を物語っているという点でも、この混乱は興味深かったと思う。

2018年4月12日木曜日

〈笑い〉と動物的世界

何度も書くが、ベケットの戯曲、ほんとうに刺激された。この系統のものは東京の小劇場でなかなか見られないよなーと思ったので余計ビビッと来た(『ゴドー』のリーディングは最近、宮沢章夫さん演出のをやってたので観に行きたかったけど行けなかった)。不条理劇風というならピンターなんかもそれっぽいけど、あれもとってもヒューマンな物語だし、人間を動物的に思考するものではないと思う。じゃあ演劇以外でと探ると、まず思いつくのがカフカの文学で、あれは確かに人間を動物的に思考するものだったと思う。一方、われわれの生きる現代は、ものすごく動物的な世界になってるな、とも感じる。中東の内戦の泥沼なんか動物的なテロルの解放区だし、日本だとヘイトスピーチをまき散らす在特会や日本第一党みたいな連中も動物的だ。ある種の欲望のリミッターを外した世界というか、おそらく、現代世界の半分は新自由主義などの素因によって動物的な社会空間と化していて、その動物性をいかに統御するかというのが、切迫した政治的問題となっている。他方、ヒューマニズムを基盤にした物語は、人間社会における理解と共感の物語でもある。東京の小劇場にかかる作品もほとんどがそうじゃないだろうか。それはそれで成熟したものは実に素晴らしいし、感動するし、身近なマイノリティの問題を抉っていて啓発されることも多い。だが、世界には理解や共感の及ばない存在があるのも事実じゃないか。それらを単に「怖い」「悪い」「非人間的」と切り捨ててしまうのは思考停止ではないか?そんな短絡的な思考で人類のサステナビリティを担保できるのだろうか?そんなことを考えていて再評価したいのは、物語演劇よりもむしろコントのような作品かもしれない。コントにすると通常のリアリズムに囚われないものも作りやすく、たとえば、冨坂友の『お父さんをください』なんかだと、脚本固有のロジックで物語が機械的に動き、結果、日常的な物語の均衡を破壊してしまう。コントだからそれを〈笑い〉の誘因にするわけだが、考えてみれば、カフカの小説もベケットの演劇も、哄笑に満ちたコメディだった。観客の即時的反応としての〈笑い〉は作り手としては気になるのも当然だろうが、俺には物語的な破壊力のほうが気になる。リアリズムの裂け目に注目して演劇を見るのも愉しいかな、と思う今日この頃である。