2018年4月16日月曜日

〈道徳〉の脅威について

今朝、政治学者の中野晃一氏が、日本の保守勢力が道徳教育に熱心なのを「人権教育だけはやりたくないから。教育勅語が大好きで、日本国憲法が嫌いなのも同じ」と書いているのを読んで、膝を打った。むろん、具体的な内容を挙げれば、〈道徳〉も〈人権〉も共通する部分は多い。それがある局面では対立的な様相を見せるのはなぜか。
先の3月、東京のシアター風姿花伝で上演された『大阪、ミナミの高校生2』(オノマリコ+精華高等学校演劇部)は、学校でセックスしたのを見つかった女子学生が指導教員(木内コギト)に反省文を提出することになるが、何度も書き直しを求められ、二人の間で意見の衝突が繰り広げられる、という芝居だった。教員としては、反省文の中身が真摯でないと彼女を弁護するのにも差し障るし、もっと心から反省して書きなさい、という。しかし、学生はなかなか納得しない。校則にはセックスしちゃいけないって書いてないじゃないですか!と反発したり、ようやく反省文として使えそうなものを書き上げても、衝動的に破棄してしまう。彼女は学校という場所がセックスするのに不適切だということは理解するものの、その行為は自身の感情に基づく純粋なものであり、反省することがその感情自体を否定するように感じられるらしく、強い抵抗を露わにする。
ここには〈道徳〉と〈人権〉に関するちょっとした混乱が読みとれる。〈道徳〉は歴史的に形成された社会規範のひとつである一方、〈人権〉はアプリオリに与えられた権利であり、普遍的概念である。女子高生の抱いた恋愛感情は個人的なものだから〈人権〉によって尊重されるものだし、社会規範によって侵犯できるはずがない。ただ、彼女は〈道徳〉の問題としての同意を迫られているにもかかわらず、個人の尊厳、すなわち〈人権〉を侵害されたかのような体験として語っているのだ。この「学校でセックスしちゃいかん」という〈道徳〉の事例は、われわれの現在の社会では妥当だろうが、社会規範そのものは未来永劫絶対的なものというわけではない。時代の変化とともに適時改良すべきだろうし、その目指すところは人間の個人的な幸福を最大限実現することであり、〈道徳〉もそのために役立つべきである。ゆえに、時には〈人権〉を侵害しかねない〈道徳〉の脅威を物語っているという点でも、この混乱は興味深かったと思う。

2018年4月12日木曜日

〈笑い〉と動物的世界

何度も書くが、ベケットの戯曲、ほんとうに刺激された。この系統のものは東京の小劇場でなかなか見られないよなーと思ったので余計ビビッと来た(『ゴドー』のリーディングは最近、宮沢章夫さん演出のをやってたので観に行きたかったけど行けなかった)。不条理劇風というならピンターなんかもそれっぽいけど、あれもとってもヒューマンな物語だし、人間を動物的に思考するものではないと思う。じゃあ演劇以外でと探ると、まず思いつくのがカフカの文学で、あれは確かに人間を動物的に思考するものだったと思う。一方、われわれの生きる現代は、ものすごく動物的な世界になってるな、とも感じる。中東の内戦の泥沼なんか動物的なテロルの解放区だし、日本だとヘイトスピーチをまき散らす在特会や日本第一党みたいな連中も動物的だ。ある種の欲望のリミッターを外した世界というか、おそらく、現代世界の半分は新自由主義などの素因によって動物的な社会空間と化していて、その動物性をいかに統御するかというのが、切迫した政治的問題となっている。他方、ヒューマニズムを基盤にした物語は、人間社会における理解と共感の物語でもある。東京の小劇場にかかる作品もほとんどがそうじゃないだろうか。それはそれで成熟したものは実に素晴らしいし、感動するし、身近なマイノリティの問題を抉っていて啓発されることも多い。だが、世界には理解や共感の及ばない存在があるのも事実じゃないか。それらを単に「怖い」「悪い」「非人間的」と切り捨ててしまうのは思考停止ではないか?そんな短絡的な思考で人類のサステナビリティを担保できるのだろうか?そんなことを考えていて再評価したいのは、物語演劇よりもむしろコントのような作品かもしれない。コントにすると通常のリアリズムに囚われないものも作りやすく、たとえば、冨坂友の『お父さんをください』なんかだと、脚本固有のロジックで物語が機械的に動き、結果、日常的な物語の均衡を破壊してしまう。コントだからそれを〈笑い〉の誘因にするわけだが、考えてみれば、カフカの小説もベケットの演劇も、哄笑に満ちたコメディだった。観客の即時的反応としての〈笑い〉は作り手としては気になるのも当然だろうが、俺には物語的な破壊力のほうが気になる。リアリズムの裂け目に注目して演劇を見るのも愉しいかな、と思う今日この頃である。

2018年4月8日日曜日

エンドゲーム

『ゴドーを待ちながら』も良いが『エンドゲーム』も、ほんと良くて。岡室美奈子氏の訳文はすぐ台本として使えるくらいに熟れているので、舞台で観てみたいなぁ。ベケットの戯曲が言葉遊び的にリズム良く会話を転がしていく感覚。その躍動感とともに生じるちょっとした意味の破綻を孕むような、そんなノイジーな語感がまるで美の欠片でもあるかのように美しい。あるいは、意味の破綻というんじゃないけど、ベケットの美学を端的に表現した一節があるので、参考までに引用しときます。誰か、舞台にして!というエアリクエスト(笑)



昔、世界の終わりが来てしまったと思い込んでいる狂人の知り合いがいた。そいつは絵描きでな——版画家でもあった。わたしはそいつのことが大好きだった。よく会いに行ったもんだ、精神病院にな。で、手を取って窓辺に連れて行っては、こう言ってやった。ほらごらん!麦が育ってる!ほら!あっちじゃ、にしん漁の船が帆を張ってる!美しい光景だ!(間)そいつはいつもわたしの手を振りほどいて隅っこに引っ込んでしまった。ぞっとした顔をして。そいつの目に映っていたのは、一面の灰だったんだ。(間)そいつだけが生き残った。(間)忘れられて。(間)どうやらこんな例も珍しくない……なかった……らしい。

狂人て? いつのこと?

いや昔のことだ、昔だよ。おまえがこの世に生を受ける前の話だ。

古き良き時代か!

2018年4月5日木曜日

ゴドーを待ちながら

岡村美奈子 訳、白水社、3,000円+税
新訳が出たというので読み直してみた。ほんと、すごいな、この戯曲。再読しながら強く感じたのは、この作品、ヒューマニズムの外部からヒューマンを見てるよな、ということだった。たとえば、ふだん東京の小劇場演劇を見ていると、そのほとんどすべてがヒューマニズムの内部に価値基準を置いていると思う。たとえ、どんなに残酷な物語を語っていたとしても、その衝撃そのものはヒューマニズムを前提にした心的効果の一つにすぎない。ヒューマニズムの外に出るというのはそう簡単じゃないのだ。にもかかわらず、ベケットをはじめとする20世紀芸術の才能は二つの世界戦争をまのあたりにし、近代のヒューマニズム、人間中心の思想や価値観の脆弱さに危機感を覚え、「不条理文学」「超現実主義」などと呼ばれる特異なアートフォームを発明した。まぁこうしたカテゴリーに依拠して語るのも危ういしつまらないが、それでも『ゴドーを待ちながら』の言語空間には戦後芸術史のエッセンスが凝縮されているし、この戯曲が、われわれの身近な演劇が忘れかけている何かを記憶していることも確かだろう。本書に収録された『エンドゲーム』も『ゴドー』が切り開いた地平をさらに進化させていて圧巻だった。

2018年3月29日木曜日

南京事件「虐殺」の構造

秦郁彦 著、中公新書、940円+税
1986年初版の本書を読みながら、これ、学生時代に読んでおきたかったなぁと思った。ここで語られるような南京事件の全体像を知ってるのと知らないのとでは、モノの見方がだいぶ違ったんじゃないかという気がするからだ。南京事件というのは日中戦争のさなか、1937年12月、南京市を占拠した日本軍兵士が捕虜や敗残兵、便衣兵や一般市民を大量虐殺し、町中で強姦や略奪のかぎりを尽くしたという大規模な戦争犯罪である。むろん、俺もこの事件のことは知っていたが、それだけじゃあ、ただの知識にすぎない。戦争が孕む人間理性の崩壊、感情や欲望の暗黒面、倫理観の脆弱さ、軍隊組織の欠陥や危険性、ひいては、国際社会に尊厳ある国家として存立するにいたらぬ未熟さを超克したとはとてもいえない現代日本、なんてところまで理解が深まらないだろう。たとえば、著者はこう論じる。

《昭和の日本軍は近代国家における近代的軍隊としての資格を欠いていた、と言わざるをえない。…日清・日露戦争時代の日本軍は、神経質と思われるほど国際関係に注意を払い、とくに国際法規を守ることに熱心だった。…しかし国際連盟脱退(1933年)を転機として「世界の孤児」となった日本は、国際関係に配慮する精神的余裕を失ってしまったかに見える。しかも孤立への反動として狭量な日本主義、国粋主義の風潮が台頭し、青年将校たちの心をとらえた。それに満州事変と派閥抗争の所産でもある「下克上」が結びつけば、不軌暴走は避けられない。》(本書 第8章「蛮行の構造」227-228p.)

翻って2018年現在、バブル期以後の経済低迷が日本人のプライドをふたたびすり減らし、国際社会での孤立化や狭量な国粋主義の胚胎を促してはいないだろうか?ほんとうに心許ない。日本軍の有名な愚行愚策には、他にもインパール作戦やら731部隊やらいろいろあるが、南京事件は現在の国際政治にも影響を与える象徴的存在であり、本書の2007年増補版では「南京事件論争史」という章が書き加えられた(増補版刊行以後も、南京事件の扱いをめぐって日本政府がユネスコへの分担金拠出を停止するといったトラブルが起きている)。その論点は、未来に禍根を残すような戦争犯罪に対して人々が何を感じ、考え、具体的な行動に移したか?という政治空間の生態学とでもいうべきか。本書は「新しい歴史教科書をつくる会」のような日本の政治意識の保守回帰を目指した市民運動にまで言及。南京事件という歴史的事象を概説するとともに歴史論の政治的なアクチュアリティを喚起しているのだと思う。

2018年3月26日月曜日

政治意識のねじれ

Carlos_Latuff
たとえば、社会に蔓延する「政治批判や政権批判なんかしてもしかたない」という感覚は、それ自体、家庭や学校教育などですりこまれた反民主主義的なあるいは管理主義的な価値観であり、そのすりこみ成果としての心的防衛機制だろう。だが、戦後の日本はまがりなりにも民主主義社会を目指したので、われわれの教育空間は理想と現実がねじれたまま今日までの時を費やすことになった。この蓄積された「ねじれ」が心的抑圧となって日本人を呪縛しているのだが、現代日本の保守勢力はそれを復古的に退行的に修正しようというわけだ(ゆえに安倍政治は復古主義革命である)。むろん、芸術表現は社会思想を喧伝するプロパガンダではない。ただ、芸術には、精神の鉄鎖を溶かしたり引きちぎったりする力があるはずで、だから、その解放の力、自由の力は政治的にきわめて有効だと思う。

2018年3月18日日曜日

再生ミセスフィクションズ 2

Mrs.fictionsの芝居がおもしろいのは、昨日見た短編4本、みんなそうだったけど、男社会に女が闖入し、その閉ざされた男社会が崩壊するというところだ。男女の二人芝居ですらそう。男はある種の社会的類型性を表象する存在(高校の野球部員、応援団員、ホームレス、舞台俳優)で、一方の女は実に、自由。女は組織の一員であることもあればそうでないこともある。だが、彼女らは自分の権利を主張し、意志を表明し、みずからのココロに忠実に、恋をする。彼女らは自由に振舞うことによって男社会を破壊すると同時に、(男らに)愛を与える。つまり、破壊の女神であるという一点においてヒロインとして輝くのだから、おそらく、Mrs.fictionsの芝居は男社会の封建的性格をコミカルに描いているかにみえ、実はシンプルなフェミニズム思想を内包しているのである。そして、彼女らの自由な行動こそが疲弊した社会を再生する希望なのだ、と語りかけているようにも思う。

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