2017年12月12日火曜日

American 4 : The Man Comes Around

Johnny Cash  American 4 : The Man Comes Around
ヤバい。もう失神しそうなくらい、良い。人間、60歳超えないと、ほんとの歌ってのは歌えないんじゃないか。そう感じさせるくらい、良い。「技術を超える」なんて言い方、安易に使いたくないけれど、ジョニー・キャッシュのこの歌声には技術を超えてシビれる。

2017年12月6日水曜日

武器としての人権

2017年12月6日東京新聞・朝刊より
以下、斎藤美奈子氏のコラムの感想を断片的に。――ある意味で言えば「人権」は「守る」ものではない。「人権」は政治的・経済的に無力な者が個々人の立場で戦うための「武器」だと思うので、武器はいつも手入れをして戦闘準備に組み込んでこそ意味がある。なのに、その(憲法が保障した)武器の存在すら知らない、知らされないのは非常にマズい、ヤバい。ヘイトスピーチも、あれは「差別」であり「人権侵害」であることが問題であって、言葉が汚いこととはまったく関係がない。つまり、この記事のアンケート回答にあるような「外面が悪い」だとか「不愉快」だとかの印象論・感情論で議論すべきではなく、厳然とした法的問題なのである。また、人権の一部としての「表現の自由」を根拠にヘイトを許容するのは、むろん自己矛盾であり、完全な間違い。人権は「個人(限定)の権利」なんだから、他者の権利を侵害してはならない。日本の政治が急速に人権破壊を推し進めていることに抵抗するためにも「武器としての人権」を考えてみる必要があるように思う。

2017年12月2日土曜日

行こう!野ウサギ

『行こう!野ウサギ』のなにが良かったって、その徹底した手作り感が最高に楽しかった。飯能市市民会館っていう真面目な劇場にみんなで持ち寄ったおもちゃをぶちまけ、それ使って遊ぼう!みたいなアプローチが、演劇という遊びの原点を見せてくれるのと同時に、作品テーマにもフィットしていたと思う。遊びっていうのは、というか、遊ぶという行為こそが人間の無意識の扉をノックする、という意味で、優れて効果的だった。フィンランドという国は要するに巨大な森林地帯のあいだに村や町が点在する空間で、そこに生きる人たちも自分たちの無意識を森に投影し、その森の中を旅することを通して自分自身を再発見するというイメージは自然な物語なのだろう。『行こう!野ウサギ』ではフィンランド人の中年男性ヴァタネン(小谷真一)の旅の相棒である野ウサギ(木内コギト)が彼の覚醒を促すトリックスターとなっていた。むろん、無意識というのは心地良い夢世界ではけっしてなく、むしろ、現実世界の不満や不安や恐怖やもろもろのネガティブな感情を封印した場所であり、フィンランドの森=無意識は次々にヴァタネンに襲いかかって来る。こうした人間の精神の内なる戦いをコミカルなシーンとシリアスなシーンを交互にテンポ良く重ねて描きだす素晴らしい作品でした。

「行こう!野ウサギ」の公演情報

2017年11月12日日曜日

牯嶺街少年殺人事件 Blu-ray

映像をチェックしてみると、自宅のTVモニターでは赤が強く出てしまう。画質の調整できるかなぁ。にしても、油断するとすぐ映画に見入ってしまいますね。少年少女たちの存在感と映像感覚の鋭さとが高次で結びついているというか、ほんの数分数秒の映像のキレで見る者の意識をかっさらっちゃう。子どもたちの演技指導には1年以上費やしたとどこかで読んだ覚えがあるけれど、いわゆる「天才子役」的にコントロールさせるんじゃなくて、ナチュラルな個性を活かすよう腐心しているのがよくわかる。一方、カメラワークはほとんどクローズアップを使わない。俺もクローズアップって陳腐になりやすいから慎重に使うべきだと思うので、そこは勝手に共感。そして贅沢な長回しと贅沢な省略のリズムで物語を紡いでゆく3時間56分、たまんないッス。

2017年11月7日火曜日

人権とは何か?

『人権と国家』スラヴォイ・ジジェク著、集英社新書、720円+税
近年、ヘイトスピーチの問題が浮上してきたように、おいおい、みんなちょっと人権意識足りなくない?と感じることもあり、でも、じゃあ〈人権〉ってなんだ?と言われると簡単には説明できない。そんな折、自宅の棚に本書『人権と国家』があったので、あらためて手に取った。昔、インタビューだけつまみ読みした記憶はある。哲学者スラヴォイ・ジジェクへのインタビューと彼のコンパクトな論文2本から構成され、出版後10年以上経つ。でもまぁ中身は古びていないだろう。

本書に収録された論考「人権の概念とその変遷」によると、人権を訴えるとは「さまざまな原理主義的形態への対立軸」を立てることであり、基本的人権とは「選択の自由の権利」であると同時に「みずからの人生を快楽と幸福の追求に捧げる権利」だという。だが「しばしば原理主義の〈悪〉を捉えるその視線にこそ〈悪〉が潜んでいる」し、「選択の自由」は文化的な環境次第でむしろ選択の不自由として問題になるし、「快楽の追求」は、現在の政治そのものが〈享楽〉をめぐる闘争の場と化している。

――自由主義的で寛容な西洋と原理主義的イスラームという対立の図式も、つきつめれば、一方は女性にとってみずからを提示あるいは露出することで、男性を挑発するもしくは平静を乱す自由を含むセクシュアリティの権利、他方はこの脅威を撲滅するか、少なくともコントロールしようとする男性側の必死な試みという対立に尽きるのではないだろうか。(『人権と国家』p.140)

ゆえに政治のねじれとともに人権の扱いもひどく翻弄される。グァンタナモ米軍基地の捕虜を襲った〈人権の剥奪〉や植物状態に陥った女性の延命装置を外すか否かで国家機関が大騒ぎした〈人権の過剰〉など。ジジェクは「人権とは究極のところ権力の剰余に対する防御ではないだろうか?」と語るが、では、権力の剰余とはいったい何なのか?

——〈法〉のレベルでは、国家の〈権力〉は主体の利益その他を代表するに留まるが、超自我の次元では、責任などに触れる公の文言は〈権力〉の無条件な行使に関する不愉快なメッセージによって補足されているのだ。その内容は、法は実際に我を拘束しない、お前を好き勝手に扱うことができる、有罪だと決めつければしかるべき処遇を与えるし、独断で破壊してやる…というものである。この不愉快な剰余は主権という概念に欠かせない要素である。(『人権と国家』p.159)

つまり、こう言えないだろうか。国家権力が国を統治するにあたり国民を不当に攻撃したり支配することから守るため、その法に〈国民主権〉を書き込むならば、社会を統治する権力が市民を不当に攻撃したり支配することから守るために〈人権〉は存在するのである。

2017年10月29日日曜日

枝野の覚醒

今朝のサンデーモーニングを見ていて、田中秀征氏の立憲民主党についての分析が気になった。ざっくりいうと、リベラルには保守系リベラルと革新系リベラルがあって、現時点の立憲民主党は革新系議員ばかり。枝野は、今は他勢力との合流に慎重だが、政権を獲るくらい大きく成長させるためには、保守系リベラルも入れないとダメだと考えているはず。なので、しばらくは動向を見守りたいという。ちなみに、保守系リベラルと革新系リベラルの違いは、革新系が「人権や環境問題」にこだわり、保守系は「言論や表現の自由」にこだわる、らしい…

まぁどうなんでしょう?状況は刻一刻と変わるからなぁ。枝野が選挙後に繰り返し強調しているのは「草の根から」の政治が重要で、永田町の「数の論理」には与さない、ということだけど、田中氏の分析は、なんだかんだいって後者の視点だと思う。保守系と革新系の違いも、一市民から見れば、だからどうなの?って感じで。

選挙戦の枝野幸男が纏っていたのは、ある政治家が市民の前で言葉を発し、その言葉を受けた聴衆の反応を感じ取り、両者の相互作用によって一人の政治家の主体を構築していく過程のリアリティだったのではないか。枝野が立憲民主党を立ち上げて直ぐの演説と選挙戦終盤の演説を聴き比べると明らかに違っていて(結党直後の演説も良かったんだけど)終盤の演説はもう聴衆一人一人に「いっしょに闘いましょう!」と語りかけるようなものだった。新宿という巨大不特定多数の市民の渦の中、ある意味、あんなに無防備でいられる政治家の姿を見たのは初めてのような気がした。枝野が発見しつつある(かもしれない)新しい政治のかたちに期待したい。

2017年10月23日月曜日

「民意」の表れ

木下ちがや 著、大月書店、2,400円+税
俺が思うに、安倍政権の暴走が日本の政治や経済や文化をガンガン破壊し続けているにもかかわらず、いざ選挙を行なうと自民党が大勝してしまうというのは、まさに民主政治の摩訶不思議。いったい「民意」ってなんだ?という疑問も生じる。たとえば、今回の衆議院選挙の結果を見ると、いわば「地縁の戦い」ともいうべき小選挙区では、自民党が定数289の中の218議席を獲得、これは全体の75%にあたる。安倍政権の支持は揺るぎない。ところが「政党・政策の戦い」とでもいうべき比例区をみると定数176の中の66議席を獲得、これは全体のたった38%であり、小選挙区の約1/2にすぎない。つまり、選挙制度というか統計の方法ひとつ変わっても「民意」の表れはまったく違うということである。本書は、そういう複雑で流動的で捉え難い「民意」の現在を、歴史的なポピュリズム分析や市民運動の知見や体験を通して探ろうとする一冊。