2017年11月12日日曜日

牯嶺街少年殺人事件 Blu-ray

映像をチェックしてみると、自宅のTVモニターでは赤が強く出てしまう。画質の調整できるかなぁ。にしても、油断するとすぐ映画に見入ってしまいますね。少年少女たちの存在感と映像感覚の鋭さとが高次で結びついているというか、ほんの数分数秒の映像のキレで見る者の意識をかっさらっちゃう。子どもたちの演技指導には1年以上費やしたとどこかで読んだ覚えがあるけれど、いわゆる「天才子役」的にコントロールさせるんじゃなくて、ナチュラルな個性を活かすよう腐心しているのがよくわかる。一方、カメラワークはほとんどクローズアップを使わない。俺もクローズアップって陳腐になりやすいから慎重に使うべきだと思うので、そこは勝手に共感。そして贅沢な長回しと贅沢な省略のリズムで物語を紡いでゆく3時間56分、たまんないッス。

2017年11月7日火曜日

人権とは何か?

『人権と国家』スラヴォイ・ジジェク著、集英社新書、720円+税
近年、ヘイトスピーチの問題が浮上してきたように、おいおい、みんなちょっと人権意識足りなくない?と感じることもあり、でも、じゃあ〈人権〉ってなんだ?と言われると簡単には説明できない。そんな折、自宅の棚に本書『人権と国家』があったので、あらためて手に取った。昔、インタビューだけつまみ読みした記憶はある。哲学者スラヴォイ・ジジェクへのインタビューと彼のコンパクトな論文2本から構成され、出版後10年以上経つ。でもまぁ中身は古びていないだろう。

本書に収録された論考「人権の概念とその変遷」によると、人権を訴えるとは「さまざまな原理主義的形態への対立軸」を立てることであり、基本的人権とは「選択の自由の権利」であると同時に「みずからの人生を快楽と幸福の追求に捧げる権利」だという。だが「しばしば原理主義の〈悪〉を捉えるその視線にこそ〈悪〉が潜んでいる」し、「選択の自由」は文化的な環境次第でむしろ選択の不自由として問題になるし、「快楽の追求」は、現在の政治そのものが〈享楽〉をめぐる闘争の場と化している。

――自由主義的で寛容な西洋と原理主義的イスラームという対立の図式も、つきつめれば、一方は女性にとってみずからを提示あるいは露出することで、男性を挑発するもしくは平静を乱す自由を含むセクシュアリティの権利、他方はこの脅威を撲滅するか、少なくともコントロールしようとする男性側の必死な試みという対立に尽きるのではないだろうか。(『人権と国家』p.140)

ゆえに政治のねじれとともに人権の扱いもひどく翻弄される。グァンタナモ米軍基地の捕虜を襲った〈人権の剥奪〉や植物状態に陥った女性の延命装置を外すか否かで国家機関が大騒ぎした〈人権の過剰〉など。ジジェクは「人権とは究極のところ権力の剰余に対する防御ではないだろうか?」と語るが、では、権力の剰余とはいったい何なのか?

——〈法〉のレベルでは、国家の〈権力〉は主体の利益その他を代表するに留まるが、超自我の次元では、責任などに触れる公の文言は〈権力〉の無条件な行使に関する不愉快なメッセージによって補足されているのだ。その内容は、法は実際に我を拘束しない、お前を好き勝手に扱うことができる、有罪だと決めつければしかるべき処遇を与えるし、独断で破壊してやる…というものである。この不愉快な剰余は主権という概念に欠かせない要素である。(『人権と国家』p.159)

つまり、こう言えないだろうか。国家権力が国を統治するにあたり国民を不当に攻撃したり支配することから守るため、その法に〈国民主権〉を書き込むならば、社会を統治する権力が市民を不当に攻撃したり支配することから守るために〈人権〉は存在するのである。

2017年10月29日日曜日

枝野の覚醒

今朝のサンデーモーニングを見ていて、田中秀征氏の立憲民主党についての分析が気になった。ざっくりいうと、リベラルには保守系リベラルと革新系リベラルがあって、現時点の立憲民主党は革新系議員ばかり。枝野は、今は他勢力との合流に慎重だが、政権を獲るくらい大きく成長させるためには、保守系リベラルも入れないとダメだと考えているはず。なので、しばらくは動向を見守りたいという。ちなみに、保守系リベラルと革新系リベラルの違いは、革新系が「人権や環境問題」にこだわり、保守系は「言論や表現の自由」にこだわる、らしい…

まぁどうなんでしょう?状況は刻一刻と変わるからなぁ。枝野が選挙後に繰り返し強調しているのは「草の根から」の政治が重要で、永田町の「数の論理」には与さない、ということだけど、田中氏の分析は、なんだかんだいって後者の視点だと思う。保守系と革新系の違いも、一市民から見れば、だからどうなの?って感じで。

選挙戦の枝野幸男が纏っていたのは、ある政治家が市民の前で言葉を発し、その言葉を受けた聴衆の反応を感じ取り、両者の相互作用によって一人の政治家の主体を構築していく過程のリアリティだったのではないか。枝野が立憲民主党を立ち上げて直ぐの演説と選挙戦終盤の演説を聴き比べると明らかに違っていて(結党直後の演説も良かったんだけど)終盤の演説はもう聴衆一人一人に「いっしょに闘いましょう!」と語りかけるようなものだった。新宿という巨大不特定多数の市民の渦の中、ある意味、あんなに無防備でいられる政治家の姿を見たのは初めてのような気がした。枝野が発見しつつある(かもしれない)新しい政治のかたちに期待したい。

2017年10月23日月曜日

「民意」の表れ

木下ちがや 著、大月書店、2,400円+税
俺が思うに、安倍政権の暴走が日本の政治や経済や文化をガンガン破壊し続けているにもかかわらず、いざ選挙を行なうと自民党が大勝してしまうというのは、まさに民主政治の摩訶不思議。いったい「民意」ってなんだ?という疑問も生じる。たとえば、今回の衆議院選挙の結果を見ると、いわば「地縁の戦い」ともいうべき小選挙区では、自民党が定数289の中の218議席を獲得、これは全体の75%にあたる。安倍政権の支持は揺るぎない。ところが「政党・政策の戦い」とでもいうべき比例区をみると定数176の中の66議席を獲得、これは全体のたった38%であり、小選挙区の約1/2にすぎない。つまり、選挙制度というか統計の方法ひとつ変わっても「民意」の表れはまったく違うということである。本書は、そういう複雑で流動的で捉え難い「民意」の現在を、歴史的なポピュリズム分析や市民運動の知見や体験を通して探ろうとする一冊。

2017年10月21日土曜日

投票日前日。

Carlos_Latuff
今回の選挙戦の動向を見ていて、少しずつ《政治》が庶民の文化として根付きつつあるのかな、とは感じる。今まで、学校でまともな政治教育なんて行われてこなかったはずだし、家庭や職場や、社交の場でも政治について語るのは憚れるみたいな空気が蔓延していたし、《政治》がそうした日常生活から遊離し、虚ろな場所にあったからこそ暴走し始めたのだと思う。けだし必然というほかない。ひと昔前、小泉純一郎が「劇場型」と呼ばれる政治戦略を仕掛けて成功し、さらに過激に進化させたのが、安倍晋三や小池百合子の「独裁型」戦略。それらは権力を集中させるのに特化した技術にすぎないから、それで庶民の生活が良くなるはずがない。さすがにこれはヤバいと危機感を抱いた市民や、彼らに呼応する対抗勢力が現われたことで、ようやく《政治》がリアリティあるものになった。崖っぷちではあるけれど、希望がないわけでもない、ちょっとだけポジティブな気分の投票日前日。まぁあいにくの雨だけどね。

2017年10月7日土曜日

カーテン

日本のラジオ『カーテン』の他の観客の感想で「気持ち悪い(のが良かった)」という文言をよく見かけるんだけど、俺にはそれがさっぱりわからん。いや、わからんわけではないのだが、俺にはむしろ、たまらなく気持ち良い。屋代秀樹氏の他の作品と比べても、物語の断片化が強いからかなぁ。登場人物が心情吐露するような流れがあっても普通10で語らせるところを7とか8で断ち切るかのようにして別の話につなげてみたり。今回の三鷹市芸術文化センターは空間がそこそこデカいから、最初から多数のダイアローグシーンをモザイク状に配し、それらをどう連携するかというパズルで遊んでいるように感じた。たとえば、アイスキャンディの使い方とかね。あれもほとんど言葉遊び的で、あのアイスがメロン味だろうがマンゴー味だろうがチョコミント味だろうがその正解はおそらく措定してなくて言葉のやりとりだけが空疎に空虚にしかし真摯さを失わない程良い熱量をもって交わされる。そんな、冷たいのに熱い、熱いのに冷たい、という感覚が「気持ち悪い」の正体なんだろうとも思うが、なかでも特にユーモラスなのは、武装勢力によって占拠された空間に閉じこめられた人質たち。事件の渦中にあって、誰一人として脱走を試みたり、生き延びるための方策を練ったり、不安に慄いて取り乱したりもしない。むろん、別のことでも考えなきゃこんな状況に耐えられない、冷静を装っているだけなのだと弁明はするけど、その現実逃避によって生まれた生煮えのような劇的空間に、囚われ人たちが背負っている記憶の破片が流れこむというのが、たぶん、この作品の仕掛けの構造。そのひび割れた言葉は故郷の〈島〉の土地に埋めてきたはずの愛や憎悪や幾ばくかの悔恨の情にも彩られて鈍く輝き、次第に辺りに大地の匂いがたちこめ始める。物語が進むにつれ、おそらくはあのテロリストたちも、というか、あのテロリストたちこそが真の囚われ人であるという事実が浮かび上がるわけだ。〈島〉vs〈陸〉という政治的磁場から無縁の外国人だけが自由奔放にふるまうことが許される、出口なしの空間。その牢獄を破壊することのみが囚われ人たちに残された最後の抵抗なのだろう。そんな、熱さと冷たさが混じりあう、過去と現在の交錯する歴史の末端にわれわれは生きている、と『カーテン』は語りかけているのだと思う。

2017年9月30日土曜日

市民の自発的服従について

日本の右翼政治の目指すところは、国家権威主義とでもいうべき市民の政府への自発的服従を理想とする反民主主義社会である。国内的には、市民が相互監視の目や密告の口として働き、不穏な空気を察知するやいなや逮捕拘束を散らつかせて支配を誇示する警察国家。国外的には、隣国との対話を軽視し、不都合な歴史を突きつけられると逆切れして失笑を買い、国際的孤立を深めることにはひどく鈍感。そのため外交はアメリカ依存から抜け出せず、沖縄の基地をいまだ手放せないし、欠陥の明らかなオスプレイ購入も容認、軍事予算は青天井。それでも国家主義を推し進めるため、経済的支配力をもつ大企業に対しては懐柔策としての減税。政治的にも経済的にも被支配階級の市民には容赦のない増税。バランスを崩した国内経済が成長するはずもなく、庶民の生活は次第に苦しくなり、教育・福祉予算も削り取られ、その結果、日本は世界有数の自殺大国に…