2014年12月21日日曜日

2014年回顧

今年は、年始に映画の最初の撮影をやってそれを作品として仕上げるまでが必死だったので、正直、なにか別のものを楽しむ余裕がなかったっす。去年だと、宮崎アニメ「風立ちぬ」の余韻のなかで過ごしたよなーという記憶があったりするんですが。

とはいっても、刺戟されたという意味でいうと、ドイツの戯曲を翻訳した舞台「カスパーホイザーメア」がその筆頭かもしれない。長田紫乃さんに譲ってもらった上演台本をパラパラ読んでも、やっぱりめちゃめちゃおもしろくて、これはちょっと映画表現のロジックと本質的に違うよなという印象も強かった。というのは、演劇の演劇たる所以というのは、俺から見ると、俳優の身体と台詞の音声が不可分にあるところかなと思うことがあって、むろん、一方にコーポリアルマイムみたいな身体表現的アプローチがあるにしても、身体と言語の構造を排斥するものではないはずなんです。

「カスパーホイザーメア」の台詞は、ソーシャルワーカーとして登場する3人の女性の愚痴や不満や鬱憤や嘆きや不安や悲鳴や妄想やそういう「叫び」のような言葉の集合体として書かれていて、いわゆる詩的な美しいイマジネーティヴな台詞はほとんどない。しかし、だからこそ、その「叫び」はなんというか言語として分節化された台詞であると同時に、混沌とした感情の母体としての身体の台詞でもある。そしてその両者の繫がりの強さがリアリズムの原動力となっている。それに、この作品はソーシャルワーカーたちの苦悩を描くにもかかわらず、物語のテーマを社会派的文脈に回収しようとしないところもユニークで、そのことによってより純粋な演劇的強度を獲得しているのかもしれない…

こういう作品に接すると、じゃあ映画は映画で、映像でなきゃできないことをやんなきゃな、と、たとえば、俳優の身体から台詞を奪い取り、アフレコ的にズラして使ってみようというようなアイデアの転換を促されたり、まぁ社会派も程々にね〜みたいな主題を語るときのバランス感覚に指針を与えてくれたりもしたはず。あと、この戯曲がドイツでめちゃめちゃ多種多様な舞台美術や演出のもとに再演を重ねているのをYouTubeで見てビックリしたんですが、まぁ原作者のフェリツィア・ツェラー恐るべしといったところでしょうか。

あれれ、こんなんじゃ今年の回顧になんないな〜もちろん、敬愛する友人たちの素晴らしい舞台からもたくさん刺戟を受けました!書き切れません!最近だと、劇団昴「ラインの監視」のクルトというか石田博英さんが子どもたちとの別れ際に自分は悪い事をしたんだって言い聞かせるシーン、もうウルウル泣いちゃったしなー。事あるごとに熱く語った、劇団だるめしあん「ぼくの彼女がこんなに浮気なわけがない」のチャーミングな戦闘への共感も、落語素見の最高に楽しい演し物の数々も、すべてが力になりました!みなさん、ありがとう!

でも、映画や本や音楽については、ほんと書けないやー、愕然。来年はもうちょっと、ゆとりのある生活にしたいっす。

2014年12月11日木曜日

映画的欲望の曖昧な対象


写真は今日、ポストに入っていた選挙運動のチラシで、深い意味はありません…それよりも書こうと思うのは、「disposal」の試写後、断片的に考えたこと、というか、言葉で考え直したことをメモしておこうかな、と…

「disposal」をつくっていた1年半、もっとも考え続けていたのは映画と演劇との違いでした。

映画とはなんぞやというのを問いつめると、結局「よく見ること、よく聴くこと」だと思うんですね。写真や絵画なら「よく見ること」だし、音楽なら「よく聴くこと」なわけです。文学もそうかな、本質的には。でも、その両者の行為の相関によって成立しているのが映画だということです。

しかし一方、演劇鑑賞でも見るし、聴くわけです。じゃあどこが違うのか。そこで、後発の芸術である映画独自の技術、話法について考えることになる。まず、クローズアップ。「disposal」でもかなり使いました。次に、主観ショット。主観ショットというのは登場人物本人の見た映像のことです。つい先日、ひょんなことからロッセリーニの「イタリア旅行」を見直したんですが、そのヒロイン、イングリッド・バーグマンの内面を表現するため、彼女の主観ショットが多用されていました。その意味で「イタリア旅行」はとても映画的な作品だったわけです。

ところが、ぼくは「disposal」では主観ショットを使わなかった。その代わりにナレーションを使ったのです。ただし、ナレーションというのは登場人物が過去を回想するために使う場合もあるけれど、第三者が状況説明のために使う場合もある。だから、登場人物の視線と同一化されてしまう主観ショットに比べれば、ナレーションの主体はより曖昧である。登場人物本人かもしれないし別人物かもしれない…

そんな映画空間における主体の存在を曖昧にしていく、という狙いがどの程度達成できたかはわかりませんが、それでも、その音声と映像の乖離、その距離感の揺らぎが「よく見ること、よく聴くこと」への欲望を喚起してくれればなぁという作品ではありました。

2014年12月7日日曜日

「disposal」試写、ご来場、感謝!

ご来場いただいきありがとうございました!
このイベントをクリアしないと年越せねー!と思っていたので、ホッとしています。
そしていつも、ブログとかで、他の方のつくった作品の辛い感想、甘い感想、いろいろ書いていたので、自分もその俎上に載る小さな資格を得たということが最高に嬉しい!
まな板の鯉?
辛口、カモン!
甘口、もっとカモン!(笑
そのネタも短編一つじゃとても少なすぎるのでいろいろやりたいですね(前作もいまだに大変お気入りなんですけど、けっこう映画愛全開〜なところもなきにしもあらずなので批評の俎上に載る前にもう我が愛で十分です!みたいな感じ?)
で、人目に晒したから、いろいろヘンなことも言いますけど、今回のは、なんというか、映画芸術について考える定数とか変数とか方程式とか、そういうものを際立たせ、それらに可能性があるのか、もっと違う可能性を探るべきなのか、みたいなそういう問題提起がやりたいなという気持ちもありました。
普通、ある作品は、なんらかの美学とか思想とか価値観とかそういうものに対する作者の一つの解を示したりするのですが、今回のような短編ではなんらかの解を示すには短すぎるので、むしろ、解を導くためのプロセスを明確にすることに徹して、今後、そこから派生してさまざまな解を生みだしていけばいいんじゃないかなと思ったわけです。
卑近な具体例でいうと、年末選挙で自民か野党かみたいな話題がありますけど、投票が近づくと、もうその「解」がイコール敵か味方かみたいな話に繫がることも多くて、それはそれで喫緊な問題ではあるんだけど、それと同時に敵か味方かをカッコに括ることを並行してやっていかないといかんのではないかと思うのです。つまり、ある解へ至るプロセスを根底から再検討するということですね。そのための一助になればという気持ちがありました。
いやー、こんなん書いてもポカーンかもしれませんがまぁそういう気持ちなんですよ。^^;
なので、あまり作品評価とか好き嫌いとか感動したしないとかは気にしないというか、いや気にはしますけど、でも、本質はそこじゃない感じなんです。。。
まぁでもねー、端的に、作品つまんなくても、西村俊彦は良いっすよー。
なにはともあれ、足を運んでいただき、大切な時間を割いていただいて、ほんとうにありがとうございました!

2014年12月2日火曜日

「disposal」試写、近づいてきました!

さて、ささやかな短編作品なのでネタバレしないように慎重に書きますが、この映画でいちばん自信があるのは、まず、キャスティングです。だいたい出演人数も少ないし、そういう映画なり演劇なりの小品を成功させたいなら、キャスティングは絶対条件だと言ってもいいでしょう。

このスチール写真を添えたお知らせを掲載して、キアヌ・リーヴスみたいな…という言葉をいただいたりもしましたが、あえて、あえて、ですが、○○に似ている、という言い方をしてみるなら、まぁ「マトリックス」のヒーローというよりは、、、ジャン=ポール・ベルモンドのほうが近いかもです。

みんな、知ってるかなー?「勝手にしやがれ」や「気狂いピエロ」で有名な、1960〜70年代のフランス映画で活躍したちょっとキザなアウトローキャラですね。日本で言ったら、、、誰かなぁ?、、、ベルモンドをもう少し泥臭くすると松田優作みたいな感じかなぁ。ベルモンドは優作よりもフランス人らしい品があって、仄かに甘い雰囲気を漂わせていますよね。。。という意味でいうと、ベルモンドが微糖のコーヒーなら、西村俊彦はそこにミルクも加えたコーヒー、というか。あるいは甘過ぎない大人向けのココア、とでもいうか。。。

ちなみに撮ってるときは、ベルモンドの名前、頭の隅にもなかったです。話にも出なかったので、西村氏自身はベルモンドという俳優自体知らないかもしれない。。。

そして脇役の方々にもほんの短い時間出てもらっただけですが、わずかな出演だからこそ余計に大事な、魅力的なキャラクターを演じてくれています。ときどきブログにも撮影記念で顔を見せてくれた田中久惠ちゃんや、旧友の伊藤賢児氏、最高でした!代えの効かない印象を鋭く刻んでいるので、必見!

そんな感じで、素晴らしいキャラクターを楽しんでいただければ、と思いますので。。。

ではでは〜心よりお待ちしてまーす!

試写の詳しい情報はこちらです

2014年11月20日木曜日

ライバルは「ラ・ジュテ」

『ラ・ジュテ』
映画ではないのだが、劇団だるめしあんの『ぼくの彼女がこんなに浮気なわけがない』という演劇作品を本当に素晴らしいと思ったのは、なにをおいても、そのベースとなったシェイクスピア作品(『オセロー』)にささやかな反抗を試みているところだった。伝統の真の意味での継承というのは、過去の歴史の賞賛のみでは絶対にダメで、その歴史を更新する意志とともにあらねばまったく無意味だと思う。芸術における新たな創造も批判精神抜きにはありえないからだ。

いま作っている映画『disposal』に関してもやはり歴史、映画史の存在は大きい。企画を進めるにあたり、主演の西村俊彦氏に参考に見てもらったのは1962年の『ラ・ジュテ』という作品だった。知る人ぞ知る映画史上の名作の一本である。が、その後、この映画について突っ込んで語ることはなかったし、俺も製作の過程で思い出すようなことはほとんどなかった。というのも、それは『ラ・ジュテ』の劣化コピーを作ることが自分たちの目的ではなく、むしろ、それを超えるようなものを作りたいと考えたからだ(恥ずかしいので、そういうこと自体も口にはしなかったけれど)。お手本というよりも、先達をライバル視していたというか。

もし良かったら、『disposal』の試写にいらっしゃる前に、『ラ・ジュテ』のDVDを探して見てみてほしい(こちらも短編なのでネットに全編上がってたりするが、日本語字幕が付いていないので)。そして、観客に委ねるしかないその勝敗は、、、俺は死んでも負けたとは言わないよ!(笑)ただ、2012年に亡くなった『ラ・ジュテ』の監督クリス・マルケルに心から作品を捧げたい気持ちもある。そんなもんだ。

2014年11月15日土曜日

「disposal」試写のお知らせ


映画「disposal」の内覧試写を行います。本作は30分ほどの短編作品なので、他にも、西村俊彦氏のライブパフォーマンスなどを織り交ぜて企画しております。ご多忙の折とは存じますが、ご来場いただき、冬の夕べの一時を楽しんでいただければ幸いです。

なお、友人・知人・関係者限定につき、事前にご来場の旨をお知らせください(伊藤or西村へ)。座席数も限られておりますので、お早めにご一報いただけると助かります。定員に達し次第締め切りますが、ぜひこの機会にご高覧いただき、ご意見ご感想をお聞かせください。

日時:12月6日(土)18~20時(開場は17時45分)
場所:東京・阿佐ヶ谷 アート・アニメーションのちいさな学校地下劇場
カンパ:一人1,000円
主催:Quad Films

会場へのアクセス
東京都杉並区阿佐谷北2-12-19 聖観ビル地下1階
JR中央線・総武線 阿佐ヶ谷駅 北口より徒歩3分
*注意!当日は土曜なので中野~三鷹間は各駅停車をご利用ください!


1)阿佐ヶ谷駅北口を出て左、線路沿いの「スターロード商店街」に入る
2)居酒屋「かまどか」を右に曲がりまっすぐ
3)コインパーキングのある十字路を左に曲がると左手に地下劇場へ下る階段があります。

問い合わせ:伊藤まで

2014年11月6日木曜日

ロケット・マン


簡単に感想を。おもしろかった、けど、不満も残って採点するとすれば70点くらいかなぁ。このホン、光速宇宙飛行で生じるタイムラグをメロドラマの仕掛けに使っていて、それはもうとってもとってもナイスアイデア!でも、世の中にあふれる、というより過去にも数多の名作が書かれてきたメロドラマの歴史の末席に置くには、やや消化不良ぎみ。その最大の要因は、主人公と息子の関係にあまり突っ込まず、その人物を劇中で語り部、狂言回しとして使うのだが、その彼の存在がどうにもこうにも収まりが悪いところかな。「宇宙飛行士」という男の子にとってはロマンあふれる題材を扱うのだから、そこが余計気になる。とはいうものの、現実には十中八九は妻や孫娘との関係でそこが本作のメインテーマなのだから、本来もっと彼女たちとの間でなにがしかの重要な役割を果たし、物語を掘り下げてくれないと存在理由がないはずで、その存在理由が書き切れてないのにそれでも出すための理由をつけるため語り部として置いたというふうにも感じる。皮肉っぽく言いますとね。でもまぁ、たいてい語り部というのは劇中ではほんの端役だったりするわけで、そこらへんのバランス感覚はどうだったのだろう?俺には中途半端に感じた。映画だと狂言回しは基本画面の外にいるから良いけど、舞台では、いつも舞台の目立つところに立ってんだよね。なんかもうすげぇあいつジャマやなぁと思った(彼の語りが悪いとか下手とかいうわけではまったくなくむしろとても良い感じでしたが)。で、見ながらメロドラマとしてなかなかパッとしないなぁ、と思っていると、B級C級冒険活劇みたいなところを見せてくれるのかなぁといくらか期待させる展開なのだが、サスペンス的な構造や仕掛けはほとんど見当たらず、宇宙軍の内部闘争なんかもわりとベタッとした顛末で、というのはそれはやっぱりメロドラマの背景にすぎないということで。。。ちなみに俺は「メカ・ハインツ・バースト」は大変大変気に入りまして、あぁこの路線で、もっと真剣に組み立ててほしいのに〜!と思ったりもした。泣ける話なんて他にいくらでもあるんだから、もっとガキんちょ心をくすぐってくれよ!という客の勝手な欲望として。。。とまぁ文句ばかり書きましたが、70点というのは普通にそこそこおもしろいし、これくらいがいちばん文句言いたくなるんだよねー。でも、一方で終盤、客席からすすり泣きとかも(鼻水かもしれんが)聞こえてきたから、観客っていうのは、自分が泣くのに必要な要素を勝手に汲み取って泣いてくれるから有り難いですよねーと思ったり。ほんとスレた観客ですいません。あと、俳優さんのお芝居はほぼほぼみなさんとっても個性的で退屈せずおもしろかったです。まだまだ上演は続き、席もあるようなので、ぜひ確かめに行ってみてください。

2014年10月24日金曜日

重力の虹


買った!

ピンチョンの代表作の新訳!

国書刊行会から出ている旧訳本も持っていたが、序盤だけ読んで、売り払ってしまった。翻訳が悪いからじゃない。俺にそんな判断ができるような語学力はなく、単に読みづらくて頓挫していた。そんな折、新訳が出るということを聞きつけ、少しでも読みやすくなってくれたら良いなぁと買い換えを決意したのだと思う。だから、手元に旧訳本がないので比較もできないけれど、新訳の書き出しはこんな感じだ。



 一筋の叫びが空を裂いて飛んでくる。前にもあった、だが今のは何とも比べようがない。
 いまさら手遅れだ。〈疎開〉は続くが、ただの見てくれでしかない。列車の中は真っ暗。わずかな光もない、どこにもだ。頭上に組み上がった鋼材は鉄の女王と同じくらい古び、そのはるか上にガラス屋根。昼間なら光を通すだろうが今は闇だ。ガラスが落ちてきたらどんなことになるだろうかと不安になる——もうすぐ——壮観だろう。水晶宮の崩落。漆黒の中にかすかなキラメキもないまま起こる、巨大な不可視のクラッシュ。



かっちょええ!

物語の舞台は第二次大戦下のロンドン。〈疎開〉というのだから、戦火を逃れての列車の中だろう。そしてそこに不意に「水晶宮(クリスタルパレス)」のイメージが重なる。水晶宮とは第1回ロンドン万博の会場として建てられた鉄骨とガラスの建築物で、1936年に火災によって失われてしまったという。

まるでゴダール映画のモンタージュだ。

2014年10月5日日曜日

普通を演じる

「ピーター・ブルックの世界一受けたいお稽古」を見てきた。演劇指導の映像教材としてはほんとに良くできているなぁと感心。ほとんど飽きさせず最後まで密度の濃いレッスンが展開するし、というか、ちょっと濃すぎて、見直さないと言葉を咀嚼するのが追いつかないくらいだった。逆にいうと、ドキュメンタリー映画としてのおもしろさはほぼ皆無かもしれない。映画の宣伝サイトを見ると「隠しカメラを5台使った」なんて書いてあるが、ワークショップの参加者はブルック作品に出演してきたような第一線の人たちなので、カメラごときで動揺する素人じゃないのは確か(むしろ稽古場の全体を見せる画面にカメラが映ると興冷めするという見栄え上の配慮ではないだろうか)。さらにそういうメンツだから、参加者に上手下手の差なんてないし、彼らの失敗や成功のプロセスが描かれるというわけでもない。となると、やはり、ピーター・ブルックの指導の中身そのものが見所である。なかでも「普通を演じる」というのはほんとに巧い言い方だと思った。あと「テンポが大事だ」みたいなことを言っていて、そこがすごく気になったし、もっと詳しく説明してほしかったが、サラッと進んでしまったかな。とまぁ、一つ一つの指導は演劇哲学の深さに裏打ちされているようで、フムフムという説得力。ただ一つ、見ながら漠然と物足らなかったのは、たとえば、激しい嵐や業火の中をくぐり抜けるところを演じてみよう、あるいは魔女や亡霊と対面するところ、でもいいけど、そういうシーンをリアリティとして想像するのは、このワークショップの基点である「綱渡りの綱」とは違い、既成の文学や演劇や映画のなかで描かれたような、いわば「空想的イメージ」の記憶が必要になるような気がする。でも、そんな頭脳的劣化コピーを良しとするはずもない。だから、ピーター・ブルックの即物的かつ身体的なリアリティを通して真理に到達するという演技演出の方法論としては、もう少しなにか発展的プロセスがあるのかも?とも期待するのだが、そこはあくまで舞台上の人間のリアリティだから、言葉上の想像でオッケーということなんだろうか?それとも、とりあえずは、基礎の基礎に絞って今回は省略したということなんだろうか?

2014年9月19日金曜日

人魚たちの反乱

真に優れた作品というのは破壊と創造の両方を成し遂げているはずだと思う。だから、ある者は破壊の一面を見て、酷い!と言うし、ある者は創造の一面を見て、素晴らしい!と言うし、同じ作品でも評価が分かれることになる。しかし、自分の知識やイメージのなかに理想の作品像があったとして、そして、それを実現したかのような作品に触れたとしても、それだけで革新的な創造であるとは断定できない。むろん、満足したし、感動もしただろう。にもかかわらず、第三者から見て、いかにも旧弊な既成の価値観を追いかけているだけということは少なくない。そうした感性の硬直化を怖れるなら、やはり、破壊と創造の両面において考えてみるのがいちばんだと思う。
『三人魚姉妹』(劇団だるめしあん、作・演出:坂本鈴)で痛快かつ感動的だったのは、とにかく三人姉妹全員が自分の信念や発言を見事に翻してしまうところだった。ただ、それはけっして他人を欺くためではなく自分自身も予期していないような直感に従ったもので、しかも、そのときこの舞台は観客が納得するような理由を十分説明したとはいえない。せいぜい物語上のキッカケを与えるだけで、たとえば、三女は「わからないということがわかった!」と叫ぶ。まるでソクラテスの哲学のように(という比喩が正しいかどうかわからないが)、とにかく真摯に破壊的なのだ。そして彼女たちはみずから世界の破壊者であることを選んで芝居の幕を下ろすのだが、この演劇作品が偉大な芸術的片鱗を見せるのは、その破壊者こそが、人魚の世界と人間の世界のあいだを往還し、新しい世界を、新しい世界の絆を結ばんとしていることにおいてである。だから、三人姉妹の誰もが小さな創造者でもあるのだろう。保守的な価値観へ回帰したかにみえる長女すらもが新しい絆を発見するのだから。

東京・千歳船橋のAPOCシアターで9月21日まで上演中!詳しくはリンク先にて!

2014年9月14日日曜日

闇の誘惑


昨日、東京・渋谷のギャラリー・ルデコで、えうれか旗揚げ公演「蝶のやうな私の郷愁」(花村雅子+西村俊彦)を見た。その後、友人たちの批評等も聞いてなるほどなぁと思ったのでそこに加える言葉はないのだが、個人的な印象をひとつふたつ。
まず、俺にとってエキサイティングだったのが、かなりのハイレベルで「美しい闇」を実現してくれたこと。いまや映画館ですら煌煌とした非常灯や階段の誘導灯がちらついたりするし、映像自体もテレビ視聴を前提し、夢現が交わるような薄明など存在しないかのような美学が支配的になりつつある。一方、この古風な舞台は四畳半一間の空間が台風の影響で停電になるという物語に描かれ、真っ暗闇、蠟燭1本、最小限のシンプルな照明など、数段階の暗さを見事に使いこなして楽しかった。微かな光に照らされる花村の身体は素晴らしく優美だったし、停電時の真っ暗闇のなか、花村が味噌汁かなにかをズズズッとすする音が闇夜に響いたときにはマジにゾクゾクした。あるいは、その空間にとりとめのない夫婦の会話が響いただけで、というか、むしろとりとめないゆえにエロティックな感触を帯びてしまうのは、俺が単にスケベだからだろうか?うたた寝する花村の横に、闇夜にヌッと現われる亡霊のような間男のような西村の身体…いやまぁやはりスケベェ万歳なんだろう。
次に、物語を紡ぐ言葉について。俺は、この舞台空間に二種類の言葉が響いているように感じた。一つは、四畳半を舞台にした夫婦間コメディとでもいうような日常的会話と、もう一つは、その四畳半の外部についての想像的会話。それはもう日本語と外国語というくらい異質な原理のもとに機能しているというか。「日常的会話」については説明不要だろうが「想像的会話」というのは、この四畳半のアパートの外の出来事すべて、それは夫婦の過去についての会話だったり現在や未来についての会話だったり。この大胆な使い分けがおもしろくも難しいところを突いていたと思う。なぜなら、両者の差異を物語の一貫性のなかでスムーズに機能させなければならないからだ。想像的会話はそれが想像的であるかぎりにおいて現実の出来事ですらないのかもしれない。そういう可能性を内包する言葉、曖昧な闇の言葉である。だから、たとえば「亡き姉」について交わされる会話。それはただ一つの貝殻によって召喚される記憶の断片であり、実はそれは姉ではなく夫の昔の恋人かもしれないし、元々姉など存在しなかったのかもしれない…観客にはそういうふうに想像したり誤解したりする自由もある、ということなのだが、だから、この想像的なるものの曖昧さはその一方で物語的一貫性の脆弱さととられるかもしれない、という意味で、やはり実験的な試みなのだろう。
すなわち、作劇の手法として「現実と虚構」というテーマは対照的にわかりやすく処理されることが多いけれど、それをより曖昧に、隠れるように、そして漸進的に、いわば、ある種の地殻変動的に企てた作品といえるのではないか。

2014年9月4日木曜日

「右側に気をつけろ」の音声


ジャン=リュック・ゴダール監督の「右側に気をつけろ」をBlu-rayで買った。日本では1989年に公開され、当時の俺は日比谷のシャンテシネにたぶん3回くらい見に行ったと思う。以後も、ビデオやDVDや再上映で何度も見ているので、まぁ青春の1本というところ。DVDも持っていたが、あることが気になって買い直してみた。

この映画は82分の作品なんだが、DVDでは78分だった。カットされたわけでもないのに、ヨーロッパ映画ではまぁよくある。これはフィルムの映像をデジタル化するときの問題で、ヨーロッパではPALという方式のビデオ映像を使っていて、日本やアメリカではNTSC方式。なにが違うかというと、PALは1秒25コマだが、NTSCは1秒30コマ。だから、PAL方式のビデオデータをNTSCのデータに単純変換すると25/30、つまり、約83%の時間に圧縮され、2割近く早送りの映像になってしまう。それでは見られたものじゃないのである程度補正することになるが、厳密な調整は難しいのか、たいていはNTSCの仕上がりのほうが数分短い尺に収まっている。

この「右側に気をつけろ」の場合も同じだろう。AmazonのDVDレビューを読むと、そのことが指摘してあり、さらに気になったのが、映画の中でナレーションをしているゴダール自身の声がオリジナルに比べて甲高いというのだ。言われてみれば、そんな気がしないでもない。でも、微妙な問題なので、ほんとうにそうだろうか?とずっと気になっていたのである。そこへ「HDニューマスター版」というふれこみのBlu-rayが発売された。上映時間も82分と書いてある。このディスクのマスターがNTSCなのかPALなのかは不明だが、仕上がりの尺に差がなければ、甲高い音になったりしないだろうと思って聴き比べてみたかったのである。

で、結果は、よーく聴くと、たしかに違う!へぇと思った。82分が78分になっても映像の視覚的印象はまったく変わらないのに、音なら聴き分け可能だということにちょっと驚いた。Blu-rayになって映像もきれいになったが、それでも記憶のフィルム映像とは誤差があるので、そこはあまり気にしない(フィルムだと多少の経年劣化も味だということになったりするし)。でも、音のニュアンスが正確なのはありがたいな。音の表現が重要なゴダール映画の場合は特にそう。

2014年8月31日日曜日

差別意識と能力主義

なんでヘイトスピーチなんて生まれるんだろうと時々考える。

もしかしたらそれって、職場で有休や産休がとりにくかったり、サービス残業は普通だというような空気や意識、つまり、自分が「権利」を主張すると周りから「陰口を言われるんじゃないか」という不安と深い関係があるような気がする。ちなみに、そんな潜在的な不安を雇用側あるいは管理側が嵩にかかって利用したのがいわゆるブラック企業というやつじゃないだろうか?

ヘイトスピーチを吐き散らす者はヘイトされることの恐怖を自覚しているからこそ、それを武器として使うわけで、それは組織のエリートが構成員の不安を利用して人々を支配するのとどこか似ている。どちらがより巧妙かという違いに格段の差があるにせよ。

たとえば「外国人」なんだから「日本人」よりも悪条件で働くのが当然、みたいな差別意識と、「無能な社員」は「有能な社員」より劣ってるんだから会社のためにサービス残業しろみたいな能力主義とは、論理構造が同じではないか?つまり、、、個の価値より集団の価値を優先するという点で???

ただ、それはまだ表面的な認識であって、おそらくは、個の価値と集団の価値が乖離していて、個を選ぶか?集団を選ぶか?という両者が排他的関係にあるというその問題設定に本質的錯誤がある、というべきじゃないだろうか。だから、人権意識の改善とは個と集団の調和について考え直すということであり、それは日本社会の暗い空気、ブラック性の改善にも繫がってくると思うんだよね。

にしても、国連から何度も人種差別に関する改善勧告を受けたりするだけじゃなく、そういう委員会の会議の場で日本の官僚が逆切れしたり、もうみっともなさすぎだろという感じだけど、それは近代化に対応し切れていない日本の歪んだ空気が育んだものであって、官僚個人が愚かという話ではないのかもなぁと思ったりもする。

国連の委員会がヘイトスピーチを法規制するよう勧告

2014年8月30日土曜日

ロバート・アルドリッチ大全


ロバート・アルドリッチの本ってないなぁとずっと思っていたところへ、2012年12月に翻訳出版されたのが本書(アラン・シルヴァー+ジェイムズ・ウルシーニ 著、宮本高晴 訳、国書刊行会)。1995年刊行の原著(What Ever Happened to Robert Aldrich?:His Life and His Films)をベースに日本語版独自の記事や情報を加え、若干の再編集を施したという。A5判のハードカバー550頁超。内容的には、クレジット&物語&解説からなるフィルモグラフィや作家主義的な作品分析を中軸に、簡素な伝記や1970年に行われたインタビュー、途中で手放したり潰れたりした企画という記事もある。本格的な評伝やインタビューを読みたいという人には物足りないかもしれないが、映画を見てレファレンスを得たいというときにはありがたい。『キッスで殺せ』に関して「カイエの批評家たちは深読みし過ぎだ!」なんてアルドリッチ自身語っているのがちょっと可笑しい。

2014年8月28日木曜日

シネマ1&2


ゴダールは偉大な色彩画家である。彼は個別化された大きなジャンルとして色彩を用い、そこにイメージが反映するようにするからである。…『フレディ・ビュアシュへの手紙』は純粋状態の色彩の過程を抽出していて、高と低があり、青い天上のローザンヌと、緑の地と水のローザンヌがある。二つの曲線、あるいは周縁、そして二つの間には灰色、円、直線がある。色彩はほとんど数学的なカテゴリーとなり、そこに街は自分のイメージを反映させ、そこから一つの問題を生みだす。三つの系列、三つの物質の状態、ローザンヌの問題。映画のあらゆるテクニック、俯瞰撮影、仰角撮影、ストップモーションなどは、この反映のためにあるのだ。ローザンヌに「ついての」映画の注文に応えていないというわけで、非難がわき起こる。彼はつまり、ローザンヌと色彩の関係を逆にし、ローザンヌを、あるカテゴリー表にのせるように、色彩の中に引き入れたのだ。これはまさにローザンヌだけにふさわしいことであったのに。これはまさに構成主義であって、色彩、ローザンヌの言説、その間接的ヴィジョンによって、この映画はローザンヌを再構築したのだ。[ジル・ドゥルーズ「シネマ2*時間イメージ」261頁、宇野邦一ほか訳、法政大学出版局、2006年]
フレディ・ビュアシュへの手紙(1981)
ゴダールは『フレディ・ビュアシュへの手紙』のなかで、スイスの街ローザンヌについての短編映画をつくれと言われたけど、なかなかうまくいかない、と語り始め、このローザンヌは木々や湖や空に囲まれている、緑と青の間にある街なんだ…と言葉を続ける。カメラもまたそのナレーションやラヴェルの楽曲「ボレロ」の響きとともにローザンヌをさまよい、時に、坂道を弾むように歩く人々のモーション/ストップモーションを貫入させながら独自のリズムを刻んでいく。つまり、ドゥルーズは、ゴダールが「色彩」の映像や言語や音響のイメージをもとに、いかに「画家のように」ローザンヌの街を描きだしたかを述べるのだが、上記の一節は「思考と映画」の章に収められている。すなわち、画家にとって絵具の色が絵画的思考の重要な道具であるように、映画作家にとっても光の諧調である色彩が思考の道具である、ということか。

2014年8月17日日曜日

怒りの日


ひょんなことから、カール・Th・ドライヤーの『怒りの日』(1943)を見直したんだけど、めちゃめちゃ凄かった!もしかしたら、映画って70年以上ぜんぜん進化してないのかも?と思うくらいの破壊力だ。

物語は、簡単にまとめるとこんな感じ。舞台は、まだ「魔女狩り」が行われていた17世紀のデンマーク。小さな村の牧師アブサロンは親子ほど歳の離れた若き美女アンヌを後妻に娶っていた。そこへ息子マーティンが帰郷し、いつしかアンヌとマーティンは恋仲となる。この危うい三角関係が崩れるとき、新たな「魔女狩り」がまた始まる…

つまり、一つの共同体がなんらかの不安定な要素を孕んだとき「魔女狩り」がその均衡を回復させる役目を果たす様子を描いているのだが、いうまでもなく、魔女が魔女である根拠も証拠もない。しかし、保守的な共同体を維持するには「魔女狩り」が必要だった。では、ドライヤーはなぜ、そんな「魔女狩り」の映画を撮ったのか?

この映画の歴史的背景には、ナチスドイツに支配されたデンマークという現実があった。ところが、ナチスを匂わせるものは何一つ描かれていない。ナチスを連想させるような悪の組織など描けるはずがないからだろう。しかし、むしろそれゆえに、人間社会の残酷きわまりない摂理を描きだすことになったのだと思う。

「魔女狩り」とは社会の「異物」を排除するシステムであり、その排除の儀式が恐怖の支配装置として機能し、社会全体をがんじがらめにしてしまう。20世紀の「ユダヤ人迫害」と17世紀の「魔女狩り」はこの恐怖に支配された空間において交差する。そして、この映画を見るわれわれは、排除のシステムの普遍性にいまだ戦慄させられることになるのだ。

2014年8月15日金曜日

戦争と日本映画

田坂具隆「土と兵隊」1939年
大部分の日本人にとって戦争とは、驚異的な他者との対決ではなく、苦行を媒体として共同体への帰属意識を確認するための行為であると、無意識的に受け止められていた。アメリカ人の人類学者ルース・ベネティクトは戦時下の日本映画を分析して、この時期の日本映画は戦闘の悲惨さと兵士たちの辛苦を強調するあまりに、もしアメリカ的な文脈で見るならば、ほとんどが反戦映画として受けとられるだろうという見解を述べている。興味深い意見ではあるが、日本の映画人たちは戦争の悲壮美を強調することで、国民に兵士たちへの感謝と共感を促し、国策に協力しようと考えていた。(中略)敵を醜悪な悪として描く必要は、あえてなかった。味方である皇軍の艱難の映像を通して、天皇の恩に報いるという道徳的メッセージの方が、はるかに重要とされていたのである。ここに当時の日本と西洋の戦争観の決定的な違いが横たわっている。[四方田犬彦「日本映画史110年」集英社新書104頁]



この四方田氏の分析によると、戦時下の日本人は「帰属意識を確認するため」の「道徳的メッセージ」を求めていたというということで、それがそのまま戦争の原動力の一つになったのだとすれば、要は「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という話ではないか?そして、その無謀な「集団的自衛」の結果、国民がバタバタ死のうが、その「苦行」に堪えることこそが日本人の「道徳」的姿勢であり、村八分にならないで済むなら人々はみずから死を選ぶ、ということだ。うーむ、妙に説得力あるなぁ。

2014年8月13日水曜日

日本映画史110年

本書は四方田犬彦「日本映画史100年」(集英社新書、2000年)の増補改訂版になるそうだが「100年」は読んでいなかった。でも「110年」を読み出して、ああ!とあらためて気づいたのは「映画史」ってめちゃくちゃおもしろいな、ということ。しかも、古くて見たことのない映画の話も抜群におもしろい。いや、むしろ、未見のものほど…。監督論ならその監督の作品を見ていなければおもしろくないし、俳優の自伝や評伝にしたって同じことだ。しかし、映画史とはたがだか100年、110年、つまり、人間が一生をまっとうするのと大差ない期間に、映画というメディア、音と映像のテクノロジーについて人々が何を考え、そのテクノロジーを通して何を見つめ、何を物語り、そのことが世界にどんな影響を与えたのかというストーリーであって、驚くほど濃密な、20世紀文化史最良のケーススタディに違いない。そして、そのテーマを「世界」ではなく「日本」に限定するということは、われわれの日本文化とは何なのかという問いでもあるのだろう。

2014年8月9日土曜日

春日昌昭のポストカード

部屋の掃除をしていて、山積みの本の間からポロリと落ちたポストカードセット10枚セット。1964〜66年の東京をスナップしたものである。昔の東京のスナップだと桑原甲子雄なんかが有名だけど、見比べると両者似ていても、被写体との距離のとり方、関心のありようが明確に違うのがわかっておもしろい。このカードセット、四谷3丁目にあった写真ギャラリー&専門書店mole(1989〜2001)が発行したもので、当時、金村修氏なんかも春日昌昭が良い良いと事あるごとに言っていた。写真集が出たら絶対買うのになぁ。

2014年8月8日金曜日

眼で意味を汲みとる

吉田秋生の海街diary6『四月になれば彼女は』を読んだ。あいかわらず一話一話の密度が濃く、素晴らしかった。その中の一つに「地図にない場所」というエピソードがあり、とあるイギリスの詩人の作品が引用されている。
「立ち上がってたたみなさい
 君の悲嘆の地図を」
という一節だが、この言葉を語るまでの物語の流れといいタイミングといいもう完璧で、「地図にない場所」という作品は、この一節を読ませるために組み立てられたと言っても良いくらいである。
俺なども「やられたぁ」と思いながらページをめくっているわけだが、でも後で、ふと思った。もし、これを実写のドラマ(アニメでもいい)にして劇中の台詞として語らせたとして、それを見たというか聴いた俺は同じようにノックアウトを喰らっただろうか?
そうはならなかったのではないか?という思いのほうが強い。漫画を黙読する俺の脳内と同じ状態にはならないだろう。きっと某かの違和感が残るに違いない、と。
それだけこの漫画作品の完成度が高いということは言えるんだろうけど、もう一つ、眼で意味を直接汲みとる漫画だからこそ、その台詞を黙読することのおもしろさもあるのかもしれない、とも思った。
少し例外的な話かもしれないが…

2014年8月3日日曜日

新しい世界

「ドラッグ・ウォー 毒戦」とともに見た「新しい世界」は映画としては少し冗長で、2時間15分の上映時間を2時間くらいでまとめたらもっと引き締まったんじゃないかと思った。主演の男3人(チェ・ミンシク、イ・ジョンジェ、ファン・ジョンミン)は存在感たっぷりに描かれ、いかにもなスター映画でもあった。俺がいちばん興味をもったのは、映画に出てくるゴールドムーンという犯罪組織が韓国人の派閥と華僑の派閥に引き裂かれているという設定で、華僑閥のキャラクターから、韓国における中国人像というのが透けて見えてくるような気がした。もし、これを日本映画でやるとしても、そもそも派閥争いがリアルになるほどまで関係が成熟していないし、そこはやはり大陸の隣国同士であって、日本よりも密接な関係にあるのかなぁというか。

2014年8月2日土曜日

ドラッグ・ウォー 毒戦

池袋の新文芸坐でジョニー・トーの「ドラッグ・ウォー 毒戦」を見た。いやぁ凄かった!トーの香港ノワールを広大な中国大陸に移植したような作品。だから田舎風でナイーブな人物も多々登場、コミカルな描写が増えると同時に、中国ならではの騒々しさもヒートアップ、かといって、映画のスタイリッシュなテイストが消えたわけでもない(むしろ輝きを増したのでは?と思う)。また、中国当局の検閲をクリアするための修正なども余儀なくされたらしく、それがかえって映画の細部に小さな驚きや意外性を与えている——結果的にいえば、俺は最高に好き!でも、一般的には快作というより怪作に近いのかも?——というわけで、安易に人には薦められないけれど、脚本や演出、編集の切れ味は紛れもないジョニー・トー映画だし、主演のルイス・クーもスン・ホンレイもクールに男臭く、脇役陣も手抜きなし。映像的には現代中国のさまざまな風景が見られるのも嬉しいし、満足度200%だった。

2014年7月25日金曜日

アナと雪の女王

Blu-rayが出たので、やっと見た。そして、ここまで大人気だと文句の一つや二つ言ってやろうと思いながら見始めるわけだが、もうぜんぜん最高じゃん!「真実の愛だけが凍った心臓を溶かすことができる」いやいやいやいや、いいよね!それでも、あえて言葉を付け加えるなら「アナと雪の女王」が素晴らしいのと同じくらい昔のアメリカ映画は素晴らしかったということかな。この映画の細部にまで1940年代に隆盛を誇ったハリウッドミュージカルの記憶が刻まれているというのは、日本の若い観客にはちょっと知っておいて欲しい気がする。だから、人間の感情を残酷なまでに純化する歌声や、劇中のダイアローグが徐々に歌曲に変貌して行くその流れの見事さにゾクゾクさせられるし、ミュージカルという映画形式の洗練を重視するので、物語が重くなりすぎないのも良い。俺など100分ちょいの軽快な作品というだけで嬉しくなってしまう(昔の映画はこれくらいの上映時間のものが多かった)。しかも、その物語にしたって「真実の愛」をテーマにしながら男連中は最後の最後まで脇に押しやられ「姉妹の愛」がメインにドーンと来るっていうのがもうたまらない!この非対称なヒネリこそが2010年代ならではの何かを物語っているのかもしれないし…

2014年7月18日金曜日

PCM-D1 vs DS-750


ひさしぶりに映像用の録音。ピアノ演奏の収録!いざ、SONY PCM-D1のお出ましだ!とけっこう意気込んでいたものの、またしてもトラブル。フル充電したはずなのに、使い出すと、あれよあれよと電池がなくなり、音質も不安定で使い物にならない。考えてみればこのレコーダー、もう10年前のモデルになるし、不調の原因もおそらくは電池の劣化である。そこで、念のために持って行った本来はインタビュー録音などに使うOLYMPUS機ならPCM48Kzでも録れるし(規格的には同等なのだ)、と期待してみたが…聞き比べてみると、さすがに差は歴然。まぁ環境音の中に鳴らすくらいならそれほど問題にならないかもしれないけれど…次にレコーダーを出動させるときはどうしたものか。でかいムービーカメラを録音の代替機として持って行くのはさすがに辛い…

2014年7月11日金曜日

月にかわってお仕置きよ

昨日、吉祥寺の櫂スタジオで劇団→ヤコウバスの「嘘と月」(7月13日まで)を観劇。なかなか考えさせられた。お話は、こんな感じかな?

狼に育てられたという少年が人里に返され、その後「将来すっごい道化師になりたい!冗談で国を動かすような…」と立身出世を夢見る。その彼がひょんな成り行きから王族のために働き始め、そこで闇雲に飛ばした冗談のひと言が国の法律として取り入れられる。ただ、その法は、国を正しく治めるどころかむしろ悪政の種になってしまうことに…一方、主人公は有名な道化師として名を成したものの、その成功が自分の夢見たものの実現なのか合点がいかず、日々飲んだくれ、彼を賞賛して近づく者に狼藉を働く乱暴者に身をやつす…

小さな舞台で5人の役者が「1人10役」ともいわれる役柄を取っ替え引っ替え演じてゆくので、見る者にとって物語は常に混乱の間際にある(実際、俺も上に書いた程度しかわかっていない)。だが、役者たちにとっては、複数の役柄をアクロバティックに操る見せ場の連続であり、いわば、混乱そのものも俳優たちの演技と存在感によって魅力に変えてみせようぞ、という意欲作であり、チとカッコつけて「演劇的混乱のユートピア」とでも呼べるだろう詩的作品でもある。その出来栄えは、ご覧になる観客がその目で確かめられるといいと思う。

だから、お話は二の次だ!という楽しみ方はアリだと思う。たとえば、俳優の一瞬の表情が素敵!と思ったら、それだけで合格!の判子を押しても良いかもしれない。逆に、ストーリーを楽しみたい、という観客にはちょっと敷居が高いかもしれない。まぁあまりにわからないのもあまりなので、劇中、あらすじ解説のサービストークがあったりする。でも、とはいうものの、俺はそのストーリーにひっかかった。そこ、ちょっと待ったぁ!という…

この作品を見ながら「冗談が本当に」なってしまうことの意味ってなんだろ?と考え続けていたからだ。端的にいえば「責任」の問題。主人公の発した「冗談」には悪意のひとかけらもなく、むしろ、善意のひと言が結果的に思わぬ悲劇を招いてしまったというとき、その責任はどこにあるのか?こういうことは現実社会によくあることだし、このお芝居がどれだけスケールの大きな作品になるかという意味では、そこが試金石になる。だから、この物語の作者は主人公にどう決着をつけさせるのかな?というふうに見ていたわけだけど、そんな見方自体が間違っているのだろうか?

で、見終わった俺の感想としては、残念ながら、そこは「作者、逃げたな」というものだった。

むろん、この主人公に道義的責任はないだろう。でもそこで、主体的責任を表明するかしないかが俺には大問題だった(それは俺がナウシカやシータやガッシュやタロウザが引き受けた主体的責任の輝きに魅せられたからかもしれないが)。一方「嘘と月」の作者は、主体的な責任の表明を避け、没主体的な退廃と逆切れする暴力的人物を造形した。それは主人公の無垢で善良な魂を逆説的に浮かび上がらせるのかもしれないし、それが作者なりの「弱さのリアリズム」なのかもしれないし、あるいは、ヒロイズムに対する警戒心が表現を抑制したのかもしれない…だが、でも、だからなんだというのだ!というのが俺の意見である。世界がテロルの危機に瀕して窒息せんばかりの現代に、個の無垢性を暴力の免罪符にしてしまうのか?それでは暴力の連鎖は永遠に途切れることはないだろう。暴力の連鎖を断ち切るには、主体的な一歩や一言が必要だからだ。そこを踏み出さずに作者自身の自己像を投影しただろう主人公は、演劇芸術の虚構性のなかへ逃げ込んでしまったように見える。そして、その虚構性を象徴するのが「嘘と月」の月である。俺は思った。あの主人公、月にかわってお仕置きよ!と…ネタが古いな… (>_<)

2014年7月7日月曜日

貨物船はかっこいい

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昨日、撮影に行ったとき見た東京湾の貨物船がどれもカッコ良くて、思わず撮ってしまった。もっといろいろあったけど、別に船の撮影に行ったわけではないので、グッと堪えました… ^^;

2014年6月21日土曜日

カスパーホイザーメア


なにより、おもしろいなーと思ったのは、台詞の言葉に「深さ」がないところだ。「ソーシャルワーカーの苦悩」がテーマといえばテーマだけど、その社会問題の核心やら登場人物の内面の複雑さには、おそらく、意図的に踏み込んでいない(もしかしたら考えさせようとすらしていないかもしれない!)。そして、そういう「テーマ的価値」を与えないことで、このドラマを、それこそ、観客の誰もが自分の経験からテキトーに記憶を選び出して照合させられるようにしてあるんじゃないか?だいたい、現場の実情を無視するダメ上司(でんでん所長)やマジメすぎて潰れた同僚(ビョーン)が舞台に現われず、むしろ、現われないことによって彼らについての会話が盛り上がるなんていうのは、要は、彼女たちのやりとりが一般企業に勤めるOLの給湯室のお喋りと変わらないということである。だとするなら、この戯曲がドイツ本国で人気があるというのはほんとうによくわかる、と同時に、いやぁ難しい戯曲だなぁとも思う。なぜなら、この芝居が表面上どんなにシリアスであっても、それはポップでキッチュなものであることから逃れられないという前提で書かれているからだ。その意味で、映画でいうと、1960年代のゴダールが政治闘争を真剣に茶化した「中国女」などの作品と同じ血筋にあるようにもみえる。だから、この戯曲を舞台化する点で興味深いのは、芝居の演技や演出がどういうふうに「これはポップでキッチュなイメージの断片にすぎないんですよ」と「自己表明」するかというところだろう。たとえば、今回小道具に使っていた子供用おもちゃのマシンガンで登場人物の対立関係を強調するところ、あそこなんか、この舞台がキッチュをどう利用するかというわかりやすいシーンだが、あのカラフルなプラスチック製ガンは劇中の単純な心理的強度の比喩だけでなく、もっといろんな表現に使えるんじゃないかと思った。台詞を語るのにスタンドマイクを使うのも言葉のトーンを変えることでキッチュの度合いを高められておもしろいし、でも、ならば、台詞の音声の変化のさせかたにはもっと可能性があるに違いない!とも思った。そんなふうに「深さ」を欠いて、完成された世界観を提示するわけではないぶん、やたら想像力を刺戟するのだ!それに、この戯曲における「深さ」の不在というのは、現代文化的なキッチュの再定義に威力を発揮するはずだし、その意味で可能性に満ちた言葉の大海原を一望に見渡しているようにも感じられ、とても刺激的かつ気持ちの良い演劇作品だった。現在上演中の本作は明日、6月22日まで、東京・赤坂のエノキザカスタジオにて。今ならまだ見られるかもしれません。ご予約はi.n.s.n.project@gmail.comまで、お問い合わせを。

2014年6月17日火曜日

W杯観戦は西洋的

「イスラム過激派はスポーツ観戦を「西洋的だ」として禁止している」という。言われてみればたしかにそう。まぁスポーツそのものを敵視しているのではなく、スポーツ観戦という文化を生みだした、そして、その文化が補強しようとする「世界秩序」を問題にしているわけだが。過激派のテロ組織が政治体制のみならず、こうした庶民の文化まで標的にしていることの意味は大きいと思う。

2014年6月14日土曜日

音楽CDと音楽アルバム

THE SMITHS Complete
さすがに最新ヒットチャートをチェックする習慣はなくなって久しいので、今は自分の音楽体験の欠落を補おうというのが、CDを買う主な動機である。今日買ったのは、ザ・スミスの活動を網羅するコンプリートBOXというやつで、オリジナルアルバム4枚、ライヴアルバム1枚、コンピレーションアルバム3枚をまとめたもの。全8枚で5,030円だったから、まぁ悪くないでしょう。

今の若い人は、音楽CD、買わないよね。せいぜいレンタルしたCDをパソコンへ取り込むか、あるいは最初からダウンロードか、のどちらかじゃないかな。俺の場合、アナログレコードからデジタルCDへ切り替わる時期を体験した世代で、アナログ時代はまだあまりお金を使える年齢じゃなかったから、かろうじて「CD世代」というべきかな。でも、だからといって「やっぱりCDじゃなきゃ!」と強く主張する理由もないので、ちょっと肩身が狭い気分でもある。ただ、デジタル派には違いないし、データ保存の外部ドライブがHDDからSSDへ移行して、十分な性能と価格に落ち着いたら…どうなるかわからないな…

それでも、まだ考える余地があると思うのは「音楽CD」は「音楽アルバム」でもあるから重要だよねという視点。たとえば、1枚のCDに10曲収録して、10曲全体で一つの世界観を構築する。一つや二つの楽曲では表現しきれない、さらに高次の世界を作りだすという魅力は、デジタル化への移行のなかでも色褪せていないと思う。

とはいえ、再生環境のデジタル化はこのまま進むだろうから、だとすると、10曲でひとつの世界観を伝えたいという意図はどんどん曖昧になるし、その一方で、ジャズやクラシックのように1曲の時間を長くして複雑な構成にするといったものも増えて、創作スタイルの多様化のきっかけにもなるだろう。でも、ポピュラーミュージックの魅力は1曲数分というその短さにもあるから、音楽アルバムというスタイルはまだしばらく残るのではないか…

少なくとも、ポピュラーミュージックの歴史を回顧するという目的なら、音楽アルバムのもつ意味はとても重いので、俺の「音楽CDで買いたい」という気持ちはなかなか消えそうにはないけどね。

2014年6月7日土曜日

ベトナムの二人?

先月の「羽田の二人」の続編ですが、看板に多少偽りあり…いや、今日一日撮影した後、夜、江古田のベトナム屋台風居酒屋maimaiに行ったわけです。俺、江古田はホームタウン的に使っているものの、ここはまだ行ったことがなくて、でも、店の前はよく通るし、とある友人が好きな店だと言ってたので、前から行きたいなぁと思ってたんですね。で、今日は近所のスタジオが撮影場所だったので、もう、昨日から打ち上げはここ!と内心決めてて、雨中強制連行しました。なんか酒も入ったせいか、くだらないネタで笑って、それもまださっきのことなので、すげぇ逐一事細かに説明したい気持ちもあるんですが、きっと酔いが冷めたらさほどおもしろくないので…自制します。まっとうなネタとしては、この写真の下部にかろうじて写ってるベトナム風さつま揚げ、これ、エビと香菜が入って表面がカラッと揚げてあって、めっちゃ旨かった。他の料理も旨かったですよ。基本、ヘルシーだし。タイ料理を上品な甘口にアレンジした、みたいな感じかな?この店、江古田に行ったらお薦めです!南口の商店街にあります。

2014年6月4日水曜日

TF PLATE SDV

カメラプレートをセットした状態
以前ここに書いた、Sachtlerの三脚を買ったけれどカメラの重心バランスがとりきれない!という問題が、ようやく解決。結局、カメラと雲台を繋ぐプレートをサードパーティ製のものに取り替えた(カメラに重りを付けるなんて現実的ではなかった ^^; )。上の小さなプレートが雲台付属の純正品で、下の大きなプレートが新規に購入したもの。
ネジは任意の場所に移動可能
金属突起の大きい方がネジになっている。この写真ではどちらも最前部にはめてあるが、見ての通り、可動域が大幅に広がった。しかし、それにしても、ごく標準的なムービーカメラを載せるだけなのに、こんな部品が必要になるというのは想定外。Sachtlerはドイツのメーカーだが、日本製では考えられないのでは?
バランスプレートの上に載せて使用する
とはいえ、バランスのとれたSachtlerヘッドの操作感は完璧とまでいかなくとも、それなりに気持ちが良い。パンやティルトのスピードが調整できるし、カメラのボディはより安定したと思う。プレートそのものも一体物として削り出しており、加工の精度は良さそう…だが、いかんせん1万9,000円は高いというより痛い!でもまぁ、そこは撮影のクオリティを上げることで元をとろう。

2014年6月2日月曜日

Velbon FHD-51QN

新しいムービー雲台
先日の福島撮影には小型の三脚を携行したのだが、いざ準備という段階になって、雲台が異様に使い難いことに気づいた。それもそのはず、その雲台はスチール用のもので、スチールカメラというのは横長のボディだから縦長のムービーカメラとは形状が違う。そのためスチールカメラ向けに設計した雲台のハンドルがムービーカメラのボディに干渉し、まともなハンドル操作ができなかったのである。われながらなぜこんな雲台を買っちゃったのかと思ったが、記憶をひも解くと、それなりにダサい理由があった。というのも以前は一眼カメラも使っていて、近い将来、一眼で素晴らしいムービーが撮れるようになる!時代は変わる!と言われた時期があって――まぁ実際そうなったし――じゃあ雲台もスチール用でいいやと思って買ったのだった。状況判断は間違っていなかった。ただ、その後、高価なCarl Zeissのレンズをカビさせるという事件が起きてしまった!そのショックで、無精な俺にはデリケートなレンズ交換式カメラは無理だ!と断念したのである。そんな経緯があって、この小さくて軽いカーボン製三脚に相応しいムービー雲台を買い直すことにした…心変わりの対価は1万1,700円なり…
操作性か携帯性か
にしても、写真を見てもわかると思うけど、この三脚、ほんとにコンパクトなのでありがたい。むろん、高い位置から撮ろうとすると安定性に欠け、屋外なら風が吹くのも怖いくらいだし、パンやティルトの繊細な動きは望むべくもない。素早く水平を決められるレベラーもない。それでも、写真左のSachtler製三脚が4.5kgなのに対して(これでも業務用としては軽量な部類に入る)、右のVelbon製雲台FHD-51QNを載せた三脚は1.6kg!ほぼ1/3のボリュームに軽量化できる。カメラと三脚をもって山道を歩きたい、というようなとき、選択の余地はないだろう。まぁ荷物運びのサポーターがいれば話は別だけどね。

2014年5月20日火曜日

パウル・ツェランの詩論

Paul Celan(1920〜70)
以下に掲載するのは、ドイツの詩人パウル・ツェランの講演録である。ツェランは、第二次大戦下のユダヤ人受難をモチーフに詩を書き続けた人で、自身にとって詩=言葉がなんなのかを真摯に語っている。

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ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶

思う(デンケン)と感謝する(ダンケン)は、ドイツ語では同じ語源を持つものです。その意味を追跡する者は、《想う(ゲデンケン)》《記憶している(アイン・ゲデンク・ザイン)》《記念(アンデンケン)》《祈念(アンダハト)》などの意味領域にはいっていくことになります。このような圏内からみなさまに感謝申し上げることをお許し下さい。
わたしがそこから――なんという回り道をとって!しかし、回り道などというものがそもそもあるのでしょうか?――出てきた土地、わたしがそこから出てみなさまのもとにやってきた土地は、ほとんどのみなさま方には未知の土地であるかもしれません。そこは、マルティン・ブーバーがわたしたちみなにドイツ語で再話したあのハシディズム〔18世紀に始まったユダヤ教の宗教改革運動〕の物語の少なからざる部分が生まれた土地です。そこは、もしわたしがこの地誌的スケッチをもう少し補ってもかまわなければ――人間と書物とが生きていた地域です。この、いまでは歴史性を失ってしまった、かつてはハプスブルグ王国の一地方であったこの土地で、ルードルフ・アレクサンダー・シュレーダーの名が、ルードルフ・ボルヒャルトの詩『柘榴を添えた頌歌』を読んでいたときにはじめて、わたしのもとに届きました。この土地で、ブレーメン市もまたわたしにとって輪郭あるものとなりました――ブレーメンからの出版物のかたちをとって。しかし、書物や、書物を書いたり出版したりする人びとの名によって身近になったそのブレーメンも、手の届かない所という印象を帯びていました。手の届く所、遠くにあるが手が届きそうな所は、ウィーンでした。しかし、この手の届きそうな所がその後何年間もどういう状態にあったかを、みなさまはご存知です。
もろもろの喪失のなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。それ、言葉だけが、失われていないものとして残りました。そうです、すべての出来事にもかかわらず。しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした。言葉はこれらをくぐり抜けて来て、しかも、起こったことに対しては一言も発することができないのでした、――しかし言葉はこれらの出来事の中を抜けて来たのです。抜けて来て、ふたたび明るい所に出ることができました――すべての出来事に「豊かにされて」
それらの年月、そしてそれからあとも、わたしはこの言葉によって詩を書くことを試みました――語るために、自分を方向づけるために、自分の居場所を知り、自分がどこへ向かうのかを知るために。自分に現実を設けるために。
これは、わかっていただけると思います、出来事、試み、どこかへ行く道の途上にあること、でした。これは、方向を得ようとする試みでした。そして、その意味を問われるなら、その問いの中には時計の針の動く方向についての問いも含まれると答えざるを得ない気がします。
というのも、詩は無時間のものではないからです。詩はたしかに永遠性を必要とします、しかし、詩はその永遠性に時間を通り抜けて達しようとします。時間を〈通り抜けて〉であって、時を〈とびこえて〉ではありません。
詩は言葉の一形態であり、その本質上対話的なものである以上、いつの日にかはどこかの岸辺に——おそらくは心の岸辺に——流れ着くという(かならずしもいつも期待に満ちてはいない)信念の下に投げこまれる投壜通信のようなものかもしれません。詩は、このような意味でも、途上にあるものです——何かをめざすものです。
何をめざすのでしょう?なにか開かれているもの、獲得可能なもの、おそらくは語りかけることのできる「あなた」、語りかけることのできる現実をめざしているのです。そのような現実こそが詩の関心事、とわたしは思います。
そしてまた、このような考え方は、わたし自身ばかりでなくもっと若い世代の詩人たちの努力にも付き添っている考え方ではないかと思います。この努力とは、人間のこしらえものでしかない天の星々を頭上に頂いて、したがってこれまでに予想だにされなかった意味での無天幕(テント)状態の下を、つまり身の毛のよだつばかりの大空の下を、現実に傷つきつつ現実を求めながら、みずからの存在とともに言葉へ赴く者の努力のことです。

出典:『パウル・ツェラン詩文集』飯吉光夫 編訳、白水社、2012年刊。

2014年5月16日金曜日

羽田の二人


今日は羽田空港にて撮影。出演者のおふたり、田中久惠ちゃん、西村俊彦くん、ありがとう!呼吸もピッタリでした。にもかかわらず、リテイク多くてすまんです。トルコアイス、旨かった。お疲れっした!

2014年5月14日水曜日

流れ行く者

上橋菜穂子「流れ行く者」(新潮文庫、550円)
俺は上橋菜穂子の良い読者ではない。主要作品はすべて読んだが、文章が雑すぎだろ、とか、構成のバランス悪すぎだろ、などと、いつも勝手な文句ばかりつけていた。実際、今でも「獣の奏者」の闘蛇編・王獣編と「精霊の守り人」だけ読めば、まぁ活劇ファンには十分じゃないかという気がしないでもないが、守り人シリーズ番外編のこの中編表題作はマジに最高だった(本書には中編3本と掌編1本が収録されている)

上橋菜穂子の小説は児童文学賞を授与されたりすることもあるけれど、「流れ行く者」はそんな世界とは無縁である。ここには老いた者を蝕む病や若者の未熟さ、血腥い暴力や裏切りが蔓延し、そんな荒んだ無慈悲な世界に生きる人間への哀惜にみちた眼差しがある。そしてそれらのすべてが一つの物語に編み上げられている。素晴らしい!

ただ、この作品を味わうのは守り人シリーズを読んでからのほうが良いと思う。ストーリーや登場人物の記憶が必要なわけではない。本書は守り人シリーズの女主人公バルサの若き日のエピソード集なので、事前の知識は必要ない。でも、それでも、本編の物語を旅した時間の積み重ねがあるのとないのとでは読み応えが違ってくるのではないだろうか。

2014年5月10日土曜日

熱風 日本のいま!

「熱風」2014年5月号(スタジオジブリ)
ジブリの発行する「熱風」が全80ページ強の約半分をジャーナリスト青木理のインタビューに割いていて、読み応えのあるものだった。現代日本の政治状況を論じていて、その個々の知見に関しては目新しい意見を打ちだすようなものではないのだが、青木氏が俺とほぼ同世代の1966年生まれというところにひかれた。

現在の政治的危機の一端は、戦争を体験した世代が現役を退き、戦時戦後の記憶も薄れだし、その世代交代の隙間に、ちょっと頭の足りない復古主義者が強引にでしゃばりだしたことにあるという気がしていて、ならば、その「歴史的記憶の捻れ」がいまの思想状況を作りだしているともいえるので、そうすると、いま20〜30歳代の上の世代に属する自分の責任も感じざるを得ない、というところである。

おもしろいのは、その同世代ジャーナリストへの聞き役の一人になっているのが、俺らよりもさらに先輩世代1948年生まれの鈴木敏夫だったりして、あぁこのジジイ喰えねぇなというか、なかなかたいしたもんだなぁと思った。

たとえば、このインタビューのなかで、日本の戦争責任や戦後補償について語るとき、鈴木氏はこんな体験をもちだしてくる。「亡くなったうちの親父がね、戦時中、中国に行っていた。その親父の最後の言葉に僕はびっくりしました。突然こう言い出したんです「あれだけひどいことをすりゃあね、その恨みは晴れない」って」

こういう体験談は数多の書物に書かれてきたはずだが、時が経ち、人が死に、書物しか残らない時代になると、その歴史的記憶は多くの記述なかの一つでしかなく、後世の者がいかようにも弄べる素材になってしまう——しかも自己本位に——そこに「歴史的記憶の捻れ」が生じ「歴史修正主義」が生まれる契機があるのだろう。だから、隣接世代間の生の対話ってほんと大事だよな、と思う。

むろん、活字や写真で緻密に正確に記録することは重要だが、生の人間の生の言葉で生の感情を交えて、人と人との間で血の通った記憶を受け渡すことの価値を考えさせてくれる鈴木先輩なのだった。

2014年5月6日火曜日

いわき〜広野町、探訪。

いわきの美しい田園
ちょっとした撮影のため、福島まで行ってきました。震災以後というより、大学時代にサークルの合宿で喜多方へ行って以来だから、二十数年ぶり。せっかくなんで、人に線量計を借りたりして。0.05μSv/hの東京を出発し、いわきまでほとんど数値は変わらないものの、いわき以北に足を踏み入れた途端、じりじり上昇。
双葉郡広野町の海側方面
JR広野駅というのは東京方面から福島第一原発へ向かって北上するとき、鉄道に乗って行ける最北端です。海側は、さすがにまだぽつりぽつり家が建っている程度でした。
広野町のモニタリングポスト
ここはJビレッジまで北へあと2〜3kmという地点になります。広野駅前のポストは0.161μSv/hを示していました。これくらいの数値なら年間被曝量1mSvもクリアできますかね。Jビレッジまで歩いてみようかなとも思ったのですが、時間に余裕がなく断念。
積算線量計なので数値は参考程度
これはちょっと意地悪をして、久ノ浜の海沿いの高台というか足滑らせたらやべぇみたいな崖っぷちの地面に置いてみたとき。狭い場所だったので除染なんかしてないだろうし、ビビビッて数値が上がりましたが、それでもこの程度、というべきかな?
広野駅の車窓から
今回は旅行を兼ねてというわけにはいかなかったので、あらためて他の場所、相双地区なんかも見て回りたいと思いました。やっぱ足で歩くのは良いですね。旅行してお金を落とすのも悪くないだろうし。

2014年4月29日火曜日

さよなら、KONA dew


今から2〜3年前に歯飛びの症状が発覚し、当時、パンク修理にもちこんだ自転車屋のオヤジに「時々ギアが外れるんですよね」と相談したら、チラッと見て、リアのディレーラーがまっすぐじゃない、フレームが歪んでいるんだから買った先に相談しろ、と言われた。えーっ!そんな大事なのか!どうしよう?と思っているうちに症状が治まったので、そのままダマシダマシ乗り続けていた。


しかし、この春、本格的に歯飛びが酷くなったので、再度別の自転車屋「サイクルベースあさひ」へもちこんだ。ここの店員はちゃんと試乗して点検し、チェーンリングの問題を指摘してくれた。そして今日、廃車だ!練馬区資源循環センターへ直接もちこむことにして、手数料400円。再利用に役立ってくれれば嬉しいけど…

2014年4月26日土曜日

Paddy Wagon 2014


7年ぶりに新車を導入した。KONAというメーカーのロードバイク、シングルスピード。Paddy Wagonの2014年モデル!

スポーツバイクといえば大胆なボディにカラフルな原色をまとったものが多いなか、トラディショナルなシェイプにマット系の渋いカラーリング…むろん、俺も派手なサイクルウェアを着るつもりはなく、あくまでカジュアルユースな一台。

ただ、日々の生活のほとんどがチャリ移動だから、いわば、外出着の一種というか、取り外しの利く強化身体の一部といってもいい…だから、長く使いたい、5年、10年、いや死ぬまで使っても…と、気持ち的にはそう思う。

シングルスピードにしたのは、まず予算。変速ギア付きのモデルより3万円安く、メンテナンスも簡単、ランニングコストも抑えられるだろうという目論み。実際に乗ってみて、停止状態からの加速にパワーが必要だったが、ダッシュなんかレース以外には要らない。

ドロップハンドルにしたのも、人生初めて。握るポジションが選べるので、これはめっちゃありがたい!ただ、手前のフラットな部分を握ることの多い遅速走行時、ブレーキレバーの位置が遠くなってしまうのが面倒。まぁ慣れていくしかないだろう。

にしても、最大の悩みは、またしてもキックスタンドを付けるか否か。

最後は便利さに屈してしまうのか…

2014年4月21日月曜日

距離の言語

映画っていうのは距離の芸術じゃないかとよく思う。写真もそうなのだが、カメラを使うかぎり、フレーミングという空間を切りとる行為によって表現せざるを得ない。だから、ロングショットとクローズアップの距離感の違いが空間的なイメージを超え、心理的なイメージまで表現したりする。ただ、映画だと、時間もまた距離感を生成するので、写真よりもより複雑な距離を表現することになる。

そんなわけで、映画畑で育った俺が舞台演劇を見に行っていつも気になるのが、演劇作品が意外に距離感というものに無頓着なことが多いということだ。むろん、劇場の物理的制約は大きいし、観客ひとりひとりの見る位置によって目に映る様子が違うから、厳密な距離感を想定しにくいということは理解できる。

だが、それでもたとえば、

男A「財布を盗んだのはお前だろ?」
男B「いや、ぼくは拾っただけです。急ぎの用を済ましたら、交番に届けるつもりでした」

なんて二人の会話があったとすると、当然、男Aは男Bとの距離を詰めようとするはずだし、男Bは男Aとの距離を広げようとするはずである。

そこに距離のドラマが生まれる。

にもかかわらず、狭いアクティングエリアで多くの役者がまるで通勤電車かバスの中でのように台詞を交わすこともある。そんな場面に出喰わすと、そういうのはラジオドラマでやってくれよ!と思ったりする。

ただ、逆に言うと、距離感の問題をよく考えた舞台は総じて魅力的だ。

たとえば、Theater Planning Networkの「黄色い月」や「宮殿のモンスター」は床に貼ったテープで正方形の舞台を仮想的に作り上げ、そのエリアの内と外をどう動くかで距離のドラマを練り上げていた。昨年見た劇団昴の「汚れた手」は舞台のほとんどを巨大な階段で埋めてしまったが、その段差、つまり、高低の差を平面的に見せることでシュールな距離のドラマを構築していた。一昨日見た劇団だるめしあん「俺の彼女がこんなに浮気なわけがない」も良かった。序盤にダンサブルでスペクタクルなシーンを見せ、物語が進むにつれ舞台の中心で交わされるダイアローグに焦点を絞っていくという構成には、演劇的な距離感のダイナミズムを感じた(普通、逆の構成が多い気がするので新鮮だったし、演劇だからこそ言葉を大切に扱うという意味でも素晴らしかった)

舞台芸術は人や物の実存において映像芸術を圧倒しているわけだから、その本質に近いのは、映像プロジェクションで飾り立てたきらびやかな風景ではなく、人と人、人と物、物と物とが生みだす「距離の言語」ではないだろうか?

まぁ偏った見方かもしれないが、そういう関心で舞台を見る者もいるということだ。

2014年4月20日日曜日

小さな赤いビー玉


といっても、ジャック・ドワイヨンの映画のことではない。今夜、見てきた『ガチゲキ!! vol.2』——東京の王子小劇場でやっている演劇祭の話である。主催者の紹介文をそのままコピペすると、

シェイクスピアをテーマに、6劇団が競演するコンペ形式のフェスティバル!1公演2劇団による「2作品ワンセットのガチバトル」公演。終演後には観客投票を実施し、即日開票にて勝敗を決定します。

というものだ。

そして俺が見たのが、劇団鋼鉄村松「家族がやたら恋愛に理解のあるロミオとジュリエット」vs 劇団だるめしあん「ぼくの彼女がこんなに浮気なわけがない」の対決の回。観客は小さな赤いビー玉と青いビー玉を1個ずつ渡され、2作品を見た後、自分の支持する作品に投票する。ちなみに、劇団鋼鉄村松が良いと思った人は赤い玉を投票し、劇団だるめしあんが良いと思った人は青い玉を投票。

「鋼鉄村松」の作品はそのタイトルからもなんとなく想像がつくと思うが、テレビでやりそうなひと捻りしたアイデアで押し切るコント風の芝居。一方「だるめしあん」の作品は原作の「オセロー」を換骨奪胎した学園ものコメディだった。演劇作品としてのオリジナリティで判断するなら、勝負はほぼ決しているようにも見えたが…

双方の芝居の中身をめっちゃ強引に要約すると「みんな純愛ストーリーが大好きだよね」と朗らかに語る鋼鉄村松に対し「ヤリマン女子高生にだって言い分がある」と熱く主張するだるめしあん…

観客はどちらに共感するか?

やはり、勝負は決まっていたのか?

そう、俺の当初の感触とは真逆で、鋼鉄村松の完勝だったのだ!

俺がどちらに一票を投じたかは、手元に残ったこのビー玉の写真通りである…にしても…だから…民主主義なんて嫌いなんだ!!!

(でも、このイベントはとっても楽しく、お薦めです!)

2014年4月18日金曜日

Number PLUSのオシム語録


ひさしぶりに雑誌を買い、オシムの言葉を齧ってみた。

いやぁ、あいかわらずおもしろいね。シンプルな言葉の切れ味は全盛期の蓮實重彦以上かも。ブラジルW杯を控えたこの時期なので、本誌(Sports Graphic Number PLUS、文藝春秋、1,000円)は、ザッケローニ率いる日本代表チームについての論評を中心に採録している。そして俺のような過去の試合を忘れかけている青二才ファンでも興味深く読める。ただ、オシムが聞き手を退屈させないようおもしろおかしく語っているのではなく——つまり小手先の話術ではなく——自分の考えを相手に理解させるために言葉を選んでいるということは大事だなと思った。

たとえば、オシムは「本田の右足は階段を上ることにしか役立たない」と語るが、こんな毒っ気の強い比喩、思いつくだけですごいなぁと半分呆れつつ、ただそれは、ワールドクラスのプレイヤーたちが左右両足を使いこなすという現代サッカーについてのマクロな視点と、個々のプレーを吟味するミクロな視点を常に結びつけて考えているということでもあると思う。あるいは「(日本のプレイヤーは)守備はともかく、攻撃となると途端に献身的なプレーが減り消極的になる。実は日本人は、チームメイトを助ける気がないのではないか」なんて発言になると、日本人の島国根性というか保守性というか未知のものに対するビビリな性格を鋭く突いていてさらに驚く。

「サッカーを考える」とはこういうことなのか…

2014年4月15日火曜日

チェーンの歯飛び

フロントのスプロケット(部分)

自転車のチェーンとチェーンリングがうまく噛み合わず「歯飛び」する症状が酷いので自転車屋に行って見てもらった。

前方のチェーンリングの歯が摩耗しているし、いくつか部品交換をしないと直らないだろうと言われた。具体的には、伸びているかもしれないチェーンや、3段変速式のチェーンリングの集合体「スプロケット」とそのスプロケットとペダルをつなぐ「クランクアーム」などを取り替えることになり、予算は、工賃あわせて2万円近くになるだろうとのこと。ちなみにこのクロスバイク、たしか、5万円くらいで買ったものだ。

どうする?

このままじゃペダルを十分踏み込めないだけでなく非常に危険なので放ってはおけないのだが、購入してもう丸6年、毎日1〜2時間は乗っているはず。ならば、チェーンやスプロケットだけでなく、他のもろもろのパーツも疲弊消耗していることは間違いない…しかるべくして…

新車に替えたほうがいいのかも?という考えが浮かんだ。

どうする???

2014年4月13日日曜日

もののけ姫


Blu-ray Discになったのをきっかけに「もののけ姫」を見直した(さすがに素晴らしい画質!)。前回見たのは1997年の公開時なのでもう15年以上ぶりになるが、作品の印象は当時と少しも変わらなかった。

あらためて凄いなと思ったのは、これが今年公開されたとしてもまったく古びていないし、おそらくは、さらに15年経っても色褪せないだろうと感じられたことだ。たとえば、1984年の「風の谷のナウシカ」をいま見ると「救済の物語」としてややロマンチックに見えてしまうのは確かだし、「もののけ姫」の次の2001年に公開された「千と千尋の神隠し」以降になると、こんどは物語のリアリティというより映像表現のイマジネーティヴな豊かさを追求した作品が多くなっている。だから「もののけ姫」は「風の谷のナウシカ」の物語を「変奏」しただけではなく、ここで「完成」させたのだと思う。

初めて「もののけ姫」を見たときもっとも疑問に感じたのは「呪いの解けたアシタカはなぜ故郷に帰らなかったのか?」ということだった。でも、遅まきながら納得したのは、アシタカは大好きなサンの近くで暮らしたかった、こともあるだろうが、それ以上に、自滅した愚かな人間社会を建て直す必要があった、ということ。ナウシカのような救世主もいない、人間の業と悲劇にのみこまれた場所だからといって、そこから逃げるわけにはいかない ——「もののけ姫」の物語が語りかけるのはそんな厳しいメッセージである。

2014年4月5日土曜日

魔女の宅急便


クローズアップが足りない。清水崇監督の「魔女の宅急便」を見た印象をひとことで言うとそんな感じだった。でも、必要なのは「正しい」クローズアップだから、単純にクローズアップを一つ入れれば良いときもあればそれだけではすまないこともあるだろう。いずれにせよ、登場人物の相互関係、すなわちキキをとりまく人物が彼女をどう見てどう感じてどう振舞うかという点において、描写が全体的に甘いというか、そんなフルショットばっか使ってちゃわかんねぇよ!とイライラしながら見ていた。

たとえば、トンボが飛行実験に失敗してケガをしたとき、一見、気を失っていたようにみえる彼の傷口に、キキが魔法の薬を塗るシーン。墜落したトンボを捜す人々が近づいて来たので、治療を終えたキキは早々に立ち去るが、後々、トンボは「キキが薬を塗ってくれたとたん酷い痛みがスーッと引いた」と語る。それはそれで良いというか、キキの献身にトンボが必ずしもその場で反応を示す必要はないのだが、それでも、キキが治療する途中に、トンボのクローズアップが絶対必要だろうと思う(たとえ目を閉じていたとしても)。なぜなら、そのクローズアップは登場人物の相互関係を編み上げるフックのようなものであり、かつ、二人の人間のあいだに一つのサスペンスを仕掛ける(二人に友情は芽生えるのか?というような)視点だからである。

その後、飛べなくなって凹んでいるキキの弱音を聞いたトンボは、彼女に、苦手な自転車に乗る練習をさせそれを手伝うが、そこでも彼のクローズアップは見られない。俺はトンボがキキに自転車の練習をさせてやろうと気づく瞬間が見たかった(たとえ無表情であったとしても)。それは、その一瞬こそが、トンボの思いやりが実体化し映像化する奇跡の一瞬であるからだ!俺には、清水崇のこのような淡白な描写は、まるでトンボという少年の真心などどうでもいいと思ってるとしか受けとれないのである。まぁ俺が腕時計でもチラ見しているあいだに鋭いクローズアップが挿入されていて見逃したという可能性はなきにしもあらずだが、そういう描写不足の不満はトンボだけではなく他の登場人物にもしばしば感じたので、この映画のこの街の人々の思いを伝えるカットが少なすぎるのではないか?という疑念は膨らむばかりである。

あと、宮崎アニメに必ず出てくるからあえて外したようにも見えるが、街の人々の思いを見せるという意味でも、魅力的な年寄りが出てこないのは残念だった。黒猫のジジももうちょっと愛らしく造形してほしかった。ここらへんもアニメ版との距離をとりたかったのかもしれない。それでも、キキ役の小芝風花は素晴らしかったし、トンボ役の広田亮平も物語が進むにつれどんどん魅力的に見えたけれど…

もう一つ、観客の誰もが気になるところがある。人命のかかった飛行船の事故をクライマックスにもってきたアニメ版「魔女の宅急便」に対し、実写版では、病気のカバの子どもの救助活動をもってきたことの是非について。

これも、むろん、カバの命より人間の命のほうが重いからカバにしたのは失敗だとは絶対言わないが、このカバの子どもが人々の絆の象徴となるような仕掛けはやはり必要ではなかっただろうか?ラジオのニュース程度では人々の関心の一つであることしかわからないし、せめて、あの動物園の飼育員のヤンキー兄ちゃんがカバのまるこをいかに可愛がっているかというエピソードくらい欲しい(その意味で、あの兄ちゃんはきわめて重要な役回りなのに演出も演技もすべてが雑すぎて目もあてられなかった〜それが俺にとってはこの映画最大の謎である〜)。でなければ「カバのまるこ」は単に「キキの分身」であることしか表現しないし、それではキキの自己成長あるいは自己救済の物語としては合格でも、街の人々の役に立つことで異端者の魔女として受け入れられるという、もっと大きな物語はどこかへすっとんでしまう。

自分自身を救うためだけに空を飛ぶキキを、あの街の人々はほんとうに心から褒め讃え、迎え入れたのだろうか?スクリーンの前の観客たちは愛することができたのだろうか?