2014年4月21日月曜日

距離の言語

映画っていうのは距離の芸術じゃないかとよく思う。写真もそうなのだが、カメラを使うかぎり、フレーミングという空間を切りとる行為によって表現せざるを得ない。だから、ロングショットとクローズアップの距離感の違いが空間的なイメージを超え、心理的なイメージまで表現したりする。ただ、映画だと、時間もまた距離感を生成するので、写真よりもより複雑な距離を表現することになる。

そんなわけで、映画畑で育った俺が舞台演劇を見に行っていつも気になるのが、演劇作品が意外に距離感というものに無頓着なことが多いということだ。むろん、劇場の物理的制約は大きいし、観客ひとりひとりの見る位置によって目に映る様子が違うから、厳密な距離感を想定しにくいということは理解できる。

だが、それでもたとえば、

男A「財布を盗んだのはお前だろ?」
男B「いや、ぼくは拾っただけです。急ぎの用を済ましたら、交番に届けるつもりでした」

なんて二人の会話があったとすると、当然、男Aは男Bとの距離を詰めようとするはずだし、男Bは男Aとの距離を広げようとするはずである。

そこに距離のドラマが生まれる。

にもかかわらず、狭いアクティングエリアで多くの役者がまるで通勤電車かバスの中でのように台詞を交わすこともある。そんな場面に出喰わすと、そういうのはラジオドラマでやってくれよ!と思ったりする。

ただ、逆に言うと、距離感の問題をよく考えた舞台は総じて魅力的だ。

たとえば、Theater Planning Networkの「黄色い月」や「宮殿のモンスター」は床に貼ったテープで正方形の舞台を仮想的に作り上げ、そのエリアの内と外をどう動くかで距離のドラマを練り上げていた。昨年見た劇団昴の「汚れた手」は舞台のほとんどを巨大な階段で埋めてしまったが、その段差、つまり、高低の差を平面的に見せることでシュールな距離のドラマを構築していた。一昨日見た劇団だるめしあん「俺の彼女がこんなに浮気なわけがない」も良かった。序盤にダンサブルでスペクタクルなシーンを見せ、物語が進むにつれ舞台の中心で交わされるダイアローグに焦点を絞っていくという構成には、演劇的な距離感のダイナミズムを感じた(普通、逆の構成が多い気がするので新鮮だったし、演劇だからこそ言葉を大切に扱うという意味でも素晴らしかった)

舞台芸術は人や物の実存において映像芸術を圧倒しているわけだから、その本質に近いのは、映像プロジェクションで飾り立てたきらびやかな風景ではなく、人と人、人と物、物と物とが生みだす「距離の言語」ではないだろうか?

まぁ偏った見方かもしれないが、そういう関心で舞台を見る者もいるということだ。