2014年5月20日火曜日

パウル・ツェランの詩論

Paul Celan(1920〜70)
以下に掲載するのは、ドイツの詩人パウル・ツェランの講演録である。ツェランは、第二次大戦下のユダヤ人受難をモチーフに詩を書き続けた人で、自身にとって詩=言葉がなんなのかを真摯に語っている。

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ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶

思う(デンケン)と感謝する(ダンケン)は、ドイツ語では同じ語源を持つものです。その意味を追跡する者は、《想う(ゲデンケン)》《記憶している(アイン・ゲデンク・ザイン)》《記念(アンデンケン)》《祈念(アンダハト)》などの意味領域にはいっていくことになります。このような圏内からみなさまに感謝申し上げることをお許し下さい。
わたしがそこから――なんという回り道をとって!しかし、回り道などというものがそもそもあるのでしょうか?――出てきた土地、わたしがそこから出てみなさまのもとにやってきた土地は、ほとんどのみなさま方には未知の土地であるかもしれません。そこは、マルティン・ブーバーがわたしたちみなにドイツ語で再話したあのハシディズム〔18世紀に始まったユダヤ教の宗教改革運動〕の物語の少なからざる部分が生まれた土地です。そこは、もしわたしがこの地誌的スケッチをもう少し補ってもかまわなければ――人間と書物とが生きていた地域です。この、いまでは歴史性を失ってしまった、かつてはハプスブルグ王国の一地方であったこの土地で、ルードルフ・アレクサンダー・シュレーダーの名が、ルードルフ・ボルヒャルトの詩『柘榴を添えた頌歌』を読んでいたときにはじめて、わたしのもとに届きました。この土地で、ブレーメン市もまたわたしにとって輪郭あるものとなりました――ブレーメンからの出版物のかたちをとって。しかし、書物や、書物を書いたり出版したりする人びとの名によって身近になったそのブレーメンも、手の届かない所という印象を帯びていました。手の届く所、遠くにあるが手が届きそうな所は、ウィーンでした。しかし、この手の届きそうな所がその後何年間もどういう状態にあったかを、みなさまはご存知です。
もろもろの喪失のなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。それ、言葉だけが、失われていないものとして残りました。そうです、すべての出来事にもかかわらず。しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした。言葉はこれらをくぐり抜けて来て、しかも、起こったことに対しては一言も発することができないのでした、――しかし言葉はこれらの出来事の中を抜けて来たのです。抜けて来て、ふたたび明るい所に出ることができました――すべての出来事に「豊かにされて」
それらの年月、そしてそれからあとも、わたしはこの言葉によって詩を書くことを試みました――語るために、自分を方向づけるために、自分の居場所を知り、自分がどこへ向かうのかを知るために。自分に現実を設けるために。
これは、わかっていただけると思います、出来事、試み、どこかへ行く道の途上にあること、でした。これは、方向を得ようとする試みでした。そして、その意味を問われるなら、その問いの中には時計の針の動く方向についての問いも含まれると答えざるを得ない気がします。
というのも、詩は無時間のものではないからです。詩はたしかに永遠性を必要とします、しかし、詩はその永遠性に時間を通り抜けて達しようとします。時間を〈通り抜けて〉であって、時を〈とびこえて〉ではありません。
詩は言葉の一形態であり、その本質上対話的なものである以上、いつの日にかはどこかの岸辺に——おそらくは心の岸辺に——流れ着くという(かならずしもいつも期待に満ちてはいない)信念の下に投げこまれる投壜通信のようなものかもしれません。詩は、このような意味でも、途上にあるものです——何かをめざすものです。
何をめざすのでしょう?なにか開かれているもの、獲得可能なもの、おそらくは語りかけることのできる「あなた」、語りかけることのできる現実をめざしているのです。そのような現実こそが詩の関心事、とわたしは思います。
そしてまた、このような考え方は、わたし自身ばかりでなくもっと若い世代の詩人たちの努力にも付き添っている考え方ではないかと思います。この努力とは、人間のこしらえものでしかない天の星々を頭上に頂いて、したがってこれまでに予想だにされなかった意味での無天幕(テント)状態の下を、つまり身の毛のよだつばかりの大空の下を、現実に傷つきつつ現実を求めながら、みずからの存在とともに言葉へ赴く者の努力のことです。

出典:『パウル・ツェラン詩文集』飯吉光夫 編訳、白水社、2012年刊。