2014年6月21日土曜日

カスパーホイザーメア


なにより、おもしろいなーと思ったのは、台詞の言葉に「深さ」がないところだ。「ソーシャルワーカーの苦悩」がテーマといえばテーマだけど、その社会問題の核心やら登場人物の内面の複雑さには、おそらく、意図的に踏み込んでいない(もしかしたら考えさせようとすらしていないかもしれない!)。そして、そういう「テーマ的価値」を与えないことで、このドラマを、それこそ、観客の誰もが自分の経験からテキトーに記憶を選び出して照合させられるようにしてあるんじゃないか?だいたい、現場の実情を無視するダメ上司(でんでん所長)やマジメすぎて潰れた同僚(ビョーン)が舞台に現われず、むしろ、現われないことによって彼らについての会話が盛り上がるなんていうのは、要は、彼女たちのやりとりが一般企業に勤めるOLの給湯室のお喋りと変わらないということである。だとするなら、この戯曲がドイツ本国で人気があるというのはほんとうによくわかる、と同時に、いやぁ難しい戯曲だなぁとも思う。なぜなら、この芝居が表面上どんなにシリアスであっても、それはポップでキッチュなものであることから逃れられないという前提で書かれているからだ。その意味で、映画でいうと、1960年代のゴダールが政治闘争を真剣に茶化した「中国女」などの作品と同じ血筋にあるようにもみえる。だから、この戯曲を舞台化する点で興味深いのは、芝居の演技や演出がどういうふうに「これはポップでキッチュなイメージの断片にすぎないんですよ」と「自己表明」するかというところだろう。たとえば、今回小道具に使っていた子供用おもちゃのマシンガンで登場人物の対立関係を強調するところ、あそこなんか、この舞台がキッチュをどう利用するかというわかりやすいシーンだが、あのカラフルなプラスチック製ガンは劇中の単純な心理的強度の比喩だけでなく、もっといろんな表現に使えるんじゃないかと思った。台詞を語るのにスタンドマイクを使うのも言葉のトーンを変えることでキッチュの度合いを高められておもしろいし、でも、ならば、台詞の音声の変化のさせかたにはもっと可能性があるに違いない!とも思った。そんなふうに「深さ」を欠いて、完成された世界観を提示するわけではないぶん、やたら想像力を刺戟するのだ!それに、この戯曲における「深さ」の不在というのは、現代文化的なキッチュの再定義に威力を発揮するはずだし、その意味で可能性に満ちた言葉の大海原を一望に見渡しているようにも感じられ、とても刺激的かつ気持ちの良い演劇作品だった。現在上演中の本作は明日、6月22日まで、東京・赤坂のエノキザカスタジオにて。今ならまだ見られるかもしれません。ご予約はi.n.s.n.project@gmail.comまで、お問い合わせを。