2014年7月11日金曜日

月にかわってお仕置きよ

昨日、吉祥寺の櫂スタジオで劇団→ヤコウバスの「嘘と月」(7月13日まで)を観劇。なかなか考えさせられた。お話は、こんな感じかな?

狼に育てられたという少年が人里に返され、その後「将来すっごい道化師になりたい!冗談で国を動かすような…」と立身出世を夢見る。その彼がひょんな成り行きから王族のために働き始め、そこで闇雲に飛ばした冗談のひと言が国の法律として取り入れられる。ただ、その法は、国を正しく治めるどころかむしろ悪政の種になってしまうことに…一方、主人公は有名な道化師として名を成したものの、その成功が自分の夢見たものの実現なのか合点がいかず、日々飲んだくれ、彼を賞賛して近づく者に狼藉を働く乱暴者に身をやつす…

小さな舞台で5人の役者が「1人10役」ともいわれる役柄を取っ替え引っ替え演じてゆくので、見る者にとって物語は常に混乱の間際にある(実際、俺も上に書いた程度しかわかっていない)。だが、役者たちにとっては、複数の役柄をアクロバティックに操る見せ場の連続であり、いわば、混乱そのものも俳優たちの演技と存在感によって魅力に変えてみせようぞ、という意欲作であり、チとカッコつけて「演劇的混乱のユートピア」とでも呼べるだろう詩的作品でもある。その出来栄えは、ご覧になる観客がその目で確かめられるといいと思う。

だから、お話は二の次だ!という楽しみ方はアリだと思う。たとえば、俳優の一瞬の表情が素敵!と思ったら、それだけで合格!の判子を押しても良いかもしれない。逆に、ストーリーを楽しみたい、という観客にはちょっと敷居が高いかもしれない。まぁあまりにわからないのもあまりなので、劇中、あらすじ解説のサービストークがあったりする。でも、とはいうものの、俺はそのストーリーにひっかかった。そこ、ちょっと待ったぁ!という…

この作品を見ながら「冗談が本当に」なってしまうことの意味ってなんだろ?と考え続けていたからだ。端的にいえば「責任」の問題。主人公の発した「冗談」には悪意のひとかけらもなく、むしろ、善意のひと言が結果的に思わぬ悲劇を招いてしまったというとき、その責任はどこにあるのか?こういうことは現実社会によくあることだし、このお芝居がどれだけスケールの大きな作品になるかという意味では、そこが試金石になる。だから、この物語の作者は主人公にどう決着をつけさせるのかな?というふうに見ていたわけだけど、そんな見方自体が間違っているのだろうか?

で、見終わった俺の感想としては、残念ながら、そこは「作者、逃げたな」というものだった。

むろん、この主人公に道義的責任はないだろう。でもそこで、主体的責任を表明するかしないかが俺には大問題だった(それは俺がナウシカやシータやガッシュやタロウザが引き受けた主体的責任の輝きに魅せられたからかもしれないが)。一方「嘘と月」の作者は、主体的な責任の表明を避け、没主体的な退廃と逆切れする暴力的人物を造形した。それは主人公の無垢で善良な魂を逆説的に浮かび上がらせるのかもしれないし、それが作者なりの「弱さのリアリズム」なのかもしれないし、あるいは、ヒロイズムに対する警戒心が表現を抑制したのかもしれない…だが、でも、だからなんだというのだ!というのが俺の意見である。世界がテロルの危機に瀕して窒息せんばかりの現代に、個の無垢性を暴力の免罪符にしてしまうのか?それでは暴力の連鎖は永遠に途切れることはないだろう。暴力の連鎖を断ち切るには、主体的な一歩や一言が必要だからだ。そこを踏み出さずに作者自身の自己像を投影しただろう主人公は、演劇芸術の虚構性のなかへ逃げ込んでしまったように見える。そして、その虚構性を象徴するのが「嘘と月」の月である。俺は思った。あの主人公、月にかわってお仕置きよ!と…ネタが古いな… (>_<)