2014年9月19日金曜日

人魚たちの反乱

真に優れた作品というのは破壊と創造の両方を成し遂げているはずだと思う。だから、ある者は破壊の一面を見て、酷い!と言うし、ある者は創造の一面を見て、素晴らしい!と言うし、同じ作品でも評価が分かれることになる。しかし、自分の知識やイメージのなかに理想の作品像があったとして、そして、それを実現したかのような作品に触れたとしても、それだけで革新的な創造であるとは断定できない。むろん、満足したし、感動もしただろう。にもかかわらず、第三者から見て、いかにも旧弊な既成の価値観を追いかけているだけということは少なくない。そうした感性の硬直化を怖れるなら、やはり、破壊と創造の両面において考えてみるのがいちばんだと思う。
『三人魚姉妹』(劇団だるめしあん、作・演出:坂本鈴)で痛快かつ感動的だったのは、とにかく三人姉妹全員が自分の信念や発言を見事に翻してしまうところだった。ただ、それはけっして他人を欺くためではなく自分自身も予期していないような直感に従ったもので、しかも、そのときこの舞台は観客が納得するような理由を十分説明したとはいえない。せいぜい物語上のキッカケを与えるだけで、たとえば、三女は「わからないということがわかった!」と叫ぶ。まるでソクラテスの哲学のように(という比喩が正しいかどうかわからないが)、とにかく真摯に破壊的なのだ。そして彼女たちはみずから世界の破壊者であることを選んで芝居の幕を下ろすのだが、この演劇作品が偉大な芸術的片鱗を見せるのは、その破壊者こそが、人魚の世界と人間の世界のあいだを往還し、新しい世界を、新しい世界の絆を結ばんとしていることにおいてである。だから、三人姉妹の誰もが小さな創造者でもあるのだろう。保守的な価値観へ回帰したかにみえる長女すらもが新しい絆を発見するのだから。

東京・千歳船橋のAPOCシアターで9月21日まで上演中!詳しくはリンク先にて!

2014年9月14日日曜日

闇の誘惑


昨日、東京・渋谷のギャラリー・ルデコで、えうれか旗揚げ公演「蝶のやうな私の郷愁」(花村雅子+西村俊彦)を見た。その後、友人たちの批評等も聞いてなるほどなぁと思ったのでそこに加える言葉はないのだが、個人的な印象をひとつふたつ。
まず、俺にとってエキサイティングだったのが、かなりのハイレベルで「美しい闇」を実現してくれたこと。いまや映画館ですら煌煌とした非常灯や階段の誘導灯がちらついたりするし、映像自体もテレビ視聴を前提し、夢現が交わるような薄明など存在しないかのような美学が支配的になりつつある。一方、この古風な舞台は四畳半一間の空間が台風の影響で停電になるという物語に描かれ、真っ暗闇、蠟燭1本、最小限のシンプルな照明など、数段階の暗さを見事に使いこなして楽しかった。微かな光に照らされる花村の身体は素晴らしく優美だったし、停電時の真っ暗闇のなか、花村が味噌汁かなにかをズズズッとすする音が闇夜に響いたときにはマジにゾクゾクした。あるいは、その空間にとりとめのない夫婦の会話が響いただけで、というか、むしろとりとめないゆえにエロティックな感触を帯びてしまうのは、俺が単にスケベだからだろうか?うたた寝する花村の横に、闇夜にヌッと現われる亡霊のような間男のような西村の身体…いやまぁやはりスケベェ万歳なんだろう。
次に、物語を紡ぐ言葉について。俺は、この舞台空間に二種類の言葉が響いているように感じた。一つは、四畳半を舞台にした夫婦間コメディとでもいうような日常的会話と、もう一つは、その四畳半の外部についての想像的会話。それはもう日本語と外国語というくらい異質な原理のもとに機能しているというか。「日常的会話」については説明不要だろうが「想像的会話」というのは、この四畳半のアパートの外の出来事すべて、それは夫婦の過去についての会話だったり現在や未来についての会話だったり。この大胆な使い分けがおもしろくも難しいところを突いていたと思う。なぜなら、両者の差異を物語の一貫性のなかでスムーズに機能させなければならないからだ。想像的会話はそれが想像的であるかぎりにおいて現実の出来事ですらないのかもしれない。そういう可能性を内包する言葉、曖昧な闇の言葉である。だから、たとえば「亡き姉」について交わされる会話。それはただ一つの貝殻によって召喚される記憶の断片であり、実はそれは姉ではなく夫の昔の恋人かもしれないし、元々姉など存在しなかったのかもしれない…観客にはそういうふうに想像したり誤解したりする自由もある、ということなのだが、だから、この想像的なるものの曖昧さはその一方で物語的一貫性の脆弱さととられるかもしれない、という意味で、やはり実験的な試みなのだろう。
すなわち、作劇の手法として「現実と虚構」というテーマは対照的にわかりやすく処理されることが多いけれど、それをより曖昧に、隠れるように、そして漸進的に、いわば、ある種の地殻変動的に企てた作品といえるのではないか。

2014年9月4日木曜日

「右側に気をつけろ」の音声


ジャン=リュック・ゴダール監督の「右側に気をつけろ」をBlu-rayで買った。日本では1989年に公開され、当時の俺は日比谷のシャンテシネにたぶん3回くらい見に行ったと思う。以後も、ビデオやDVDや再上映で何度も見ているので、まぁ青春の1本というところ。DVDも持っていたが、あることが気になって買い直してみた。

この映画は82分の作品なんだが、DVDでは78分だった。カットされたわけでもないのに、ヨーロッパ映画ではまぁよくある。これはフィルムの映像をデジタル化するときの問題で、ヨーロッパではPALという方式のビデオ映像を使っていて、日本やアメリカではNTSC方式。なにが違うかというと、PALは1秒25コマだが、NTSCは1秒30コマ。だから、PAL方式のビデオデータをNTSCのデータに単純変換すると25/30、つまり、約83%の時間に圧縮され、2割近く早送りの映像になってしまう。それでは見られたものじゃないのである程度補正することになるが、厳密な調整は難しいのか、たいていはNTSCの仕上がりのほうが数分短い尺に収まっている。

この「右側に気をつけろ」の場合も同じだろう。AmazonのDVDレビューを読むと、そのことが指摘してあり、さらに気になったのが、映画の中でナレーションをしているゴダール自身の声がオリジナルに比べて甲高いというのだ。言われてみれば、そんな気がしないでもない。でも、微妙な問題なので、ほんとうにそうだろうか?とずっと気になっていたのである。そこへ「HDニューマスター版」というふれこみのBlu-rayが発売された。上映時間も82分と書いてある。このディスクのマスターがNTSCなのかPALなのかは不明だが、仕上がりの尺に差がなければ、甲高い音になったりしないだろうと思って聴き比べてみたかったのである。

で、結果は、よーく聴くと、たしかに違う!へぇと思った。82分が78分になっても映像の視覚的印象はまったく変わらないのに、音なら聴き分け可能だということにちょっと驚いた。Blu-rayになって映像もきれいになったが、それでも記憶のフィルム映像とは誤差があるので、そこはあまり気にしない(フィルムだと多少の経年劣化も味だということになったりするし)。でも、音のニュアンスが正確なのはありがたいな。音の表現が重要なゴダール映画の場合は特にそう。