2014年9月14日日曜日

闇の誘惑


昨日、東京・渋谷のギャラリー・ルデコで、えうれか旗揚げ公演「蝶のやうな私の郷愁」(花村雅子+西村俊彦)を見た。その後、友人たちの批評等も聞いてなるほどなぁと思ったのでそこに加える言葉はないのだが、個人的な印象をひとつふたつ。
まず、俺にとってエキサイティングだったのが、かなりのハイレベルで「美しい闇」を実現してくれたこと。いまや映画館ですら煌煌とした非常灯や階段の誘導灯がちらついたりするし、映像自体もテレビ視聴を前提し、夢現が交わるような薄明など存在しないかのような美学が支配的になりつつある。一方、この古風な舞台は四畳半一間の空間が台風の影響で停電になるという物語に描かれ、真っ暗闇、蠟燭1本、最小限のシンプルな照明など、数段階の暗さを見事に使いこなして楽しかった。微かな光に照らされる花村の身体は素晴らしく優美だったし、停電時の真っ暗闇のなか、花村が味噌汁かなにかをズズズッとすする音が闇夜に響いたときにはマジにゾクゾクした。あるいは、その空間にとりとめのない夫婦の会話が響いただけで、というか、むしろとりとめないゆえにエロティックな感触を帯びてしまうのは、俺が単にスケベだからだろうか?うたた寝する花村の横に、闇夜にヌッと現われる亡霊のような間男のような西村の身体…いやまぁやはりスケベェ万歳なんだろう。
次に、物語を紡ぐ言葉について。俺は、この舞台空間に二種類の言葉が響いているように感じた。一つは、四畳半を舞台にした夫婦間コメディとでもいうような日常的会話と、もう一つは、その四畳半の外部についての想像的会話。それはもう日本語と外国語というくらい異質な原理のもとに機能しているというか。「日常的会話」については説明不要だろうが「想像的会話」というのは、この四畳半のアパートの外の出来事すべて、それは夫婦の過去についての会話だったり現在や未来についての会話だったり。この大胆な使い分けがおもしろくも難しいところを突いていたと思う。なぜなら、両者の差異を物語の一貫性のなかでスムーズに機能させなければならないからだ。想像的会話はそれが想像的であるかぎりにおいて現実の出来事ですらないのかもしれない。そういう可能性を内包する言葉、曖昧な闇の言葉である。だから、たとえば「亡き姉」について交わされる会話。それはただ一つの貝殻によって召喚される記憶の断片であり、実はそれは姉ではなく夫の昔の恋人かもしれないし、元々姉など存在しなかったのかもしれない…観客にはそういうふうに想像したり誤解したりする自由もある、ということなのだが、だから、この想像的なるものの曖昧さはその一方で物語的一貫性の脆弱さととられるかもしれない、という意味で、やはり実験的な試みなのだろう。
すなわち、作劇の手法として「現実と虚構」というテーマは対照的にわかりやすく処理されることが多いけれど、それをより曖昧に、隠れるように、そして漸進的に、いわば、ある種の地殻変動的に企てた作品といえるのではないか。