2014年12月21日日曜日

2014年回顧

今年は、年始に映画の最初の撮影をやってそれを作品として仕上げるまでが必死だったので、正直、なにか別のものを楽しむ余裕がなかったっす。去年だと、宮崎アニメ「風立ちぬ」の余韻のなかで過ごしたよなーという記憶があったりするんですが。

とはいっても、刺戟されたという意味でいうと、ドイツの戯曲を翻訳した舞台「カスパーホイザーメア」がその筆頭かもしれない。長田紫乃さんに譲ってもらった上演台本をパラパラ読んでも、やっぱりめちゃめちゃおもしろくて、これはちょっと映画表現のロジックと本質的に違うよなという印象も強かった。というのは、演劇の演劇たる所以というのは、俺から見ると、俳優の身体と台詞の音声が不可分にあるところかなと思うことがあって、むろん、一方にコーポリアルマイムみたいな身体表現的アプローチがあるにしても、身体と言語の構造を排斥するものではないはずなんです。

「カスパーホイザーメア」の台詞は、ソーシャルワーカーとして登場する3人の女性の愚痴や不満や鬱憤や嘆きや不安や悲鳴や妄想やそういう「叫び」のような言葉の集合体として書かれていて、いわゆる詩的な美しいイマジネーティヴな台詞はほとんどない。しかし、だからこそ、その「叫び」はなんというか言語として分節化された台詞であると同時に、混沌とした感情の母体としての身体の台詞でもある。そしてその両者の繫がりの強さがリアリズムの原動力となっている。それに、この作品はソーシャルワーカーたちの苦悩を描くにもかかわらず、物語のテーマを社会派的文脈に回収しようとしないところもユニークで、そのことによってより純粋な演劇的強度を獲得しているのかもしれない…

こういう作品に接すると、じゃあ映画は映画で、映像でなきゃできないことをやんなきゃな、と、たとえば、俳優の身体から台詞を奪い取り、アフレコ的にズラして使ってみようというようなアイデアの転換を促されたり、まぁ社会派も程々にね〜みたいな主題を語るときのバランス感覚に指針を与えてくれたりもしたはず。あと、この戯曲がドイツでめちゃめちゃ多種多様な舞台美術や演出のもとに再演を重ねているのをYouTubeで見てビックリしたんですが、まぁ原作者のフェリツィア・ツェラー恐るべしといったところでしょうか。

あれれ、こんなんじゃ今年の回顧になんないな〜もちろん、敬愛する友人たちの素晴らしい舞台からもたくさん刺戟を受けました!書き切れません!最近だと、劇団昴「ラインの監視」のクルトというか石田博英さんが子どもたちとの別れ際に自分は悪い事をしたんだって言い聞かせるシーン、もうウルウル泣いちゃったしなー。事あるごとに熱く語った、劇団だるめしあん「ぼくの彼女がこんなに浮気なわけがない」のチャーミングな戦闘への共感も、落語素見の最高に楽しい演し物の数々も、すべてが力になりました!みなさん、ありがとう!

でも、映画や本や音楽については、ほんと書けないやー、愕然。来年はもうちょっと、ゆとりのある生活にしたいっす。

2014年12月11日木曜日

映画的欲望の曖昧な対象


写真は今日、ポストに入っていた選挙運動のチラシで、深い意味はありません…それよりも書こうと思うのは、「disposal」の試写後、断片的に考えたこと、というか、言葉で考え直したことをメモしておこうかな、と…

「disposal」をつくっていた1年半、もっとも考え続けていたのは映画と演劇との違いでした。

映画とはなんぞやというのを問いつめると、結局「よく見ること、よく聴くこと」だと思うんですね。写真や絵画なら「よく見ること」だし、音楽なら「よく聴くこと」なわけです。文学もそうかな、本質的には。でも、その両者の行為の相関によって成立しているのが映画だということです。

しかし一方、演劇鑑賞でも見るし、聴くわけです。じゃあどこが違うのか。そこで、後発の芸術である映画独自の技術、話法について考えることになる。まず、クローズアップ。「disposal」でもかなり使いました。次に、主観ショット。主観ショットというのは登場人物本人の見た映像のことです。つい先日、ひょんなことからロッセリーニの「イタリア旅行」を見直したんですが、そのヒロイン、イングリッド・バーグマンの内面を表現するため、彼女の主観ショットが多用されていました。その意味で「イタリア旅行」はとても映画的な作品だったわけです。

ところが、ぼくは「disposal」では主観ショットを使わなかった。その代わりにナレーションを使ったのです。ただし、ナレーションというのは登場人物が過去を回想するために使う場合もあるけれど、第三者が状況説明のために使う場合もある。だから、登場人物の視線と同一化されてしまう主観ショットに比べれば、ナレーションの主体はより曖昧である。登場人物本人かもしれないし別人物かもしれない…

そんな映画空間における主体の存在を曖昧にしていく、という狙いがどの程度達成できたかはわかりませんが、それでも、その音声と映像の乖離、その距離感の揺らぎが「よく見ること、よく聴くこと」への欲望を喚起してくれればなぁという作品ではありました。

2014年12月7日日曜日

「disposal」試写、ご来場、感謝!

ご来場いただいきありがとうございました!
このイベントをクリアしないと年越せねー!と思っていたので、ホッとしています。
そしていつも、ブログとかで、他の方のつくった作品の辛い感想、甘い感想、いろいろ書いていたので、自分もその俎上に載る小さな資格を得たということが最高に嬉しい!
まな板の鯉?
辛口、カモン!
甘口、もっとカモン!(笑
そのネタも短編一つじゃとても少なすぎるのでいろいろやりたいですね(前作もいまだに大変お気入りなんですけど、けっこう映画愛全開〜なところもなきにしもあらずなので批評の俎上に載る前にもう我が愛で十分です!みたいな感じ?)
で、人目に晒したから、いろいろヘンなことも言いますけど、今回のは、なんというか、映画芸術について考える定数とか変数とか方程式とか、そういうものを際立たせ、それらに可能性があるのか、もっと違う可能性を探るべきなのか、みたいなそういう問題提起がやりたいなという気持ちもありました。
普通、ある作品は、なんらかの美学とか思想とか価値観とかそういうものに対する作者の一つの解を示したりするのですが、今回のような短編ではなんらかの解を示すには短すぎるので、むしろ、解を導くためのプロセスを明確にすることに徹して、今後、そこから派生してさまざまな解を生みだしていけばいいんじゃないかなと思ったわけです。
卑近な具体例でいうと、年末選挙で自民か野党かみたいな話題がありますけど、投票が近づくと、もうその「解」がイコール敵か味方かみたいな話に繫がることも多くて、それはそれで喫緊な問題ではあるんだけど、それと同時に敵か味方かをカッコに括ることを並行してやっていかないといかんのではないかと思うのです。つまり、ある解へ至るプロセスを根底から再検討するということですね。そのための一助になればという気持ちがありました。
いやー、こんなん書いてもポカーンかもしれませんがまぁそういう気持ちなんですよ。^^;
なので、あまり作品評価とか好き嫌いとか感動したしないとかは気にしないというか、いや気にはしますけど、でも、本質はそこじゃない感じなんです。。。
まぁでもねー、端的に、作品つまんなくても、西村俊彦は良いっすよー。
なにはともあれ、足を運んでいただき、大切な時間を割いていただいて、ほんとうにありがとうございました!

2014年12月2日火曜日

「disposal」試写、近づいてきました!

さて、ささやかな短編作品なのでネタバレしないように慎重に書きますが、この映画でいちばん自信があるのは、まず、キャスティングです。だいたい出演人数も少ないし、そういう映画なり演劇なりの小品を成功させたいなら、キャスティングは絶対条件だと言ってもいいでしょう。

このスチール写真を添えたお知らせを掲載して、キアヌ・リーヴスみたいな…という言葉をいただいたりもしましたが、あえて、あえて、ですが、○○に似ている、という言い方をしてみるなら、まぁ「マトリックス」のヒーローというよりは、、、ジャン=ポール・ベルモンドのほうが近いかもです。

みんな、知ってるかなー?「勝手にしやがれ」や「気狂いピエロ」で有名な、1960〜70年代のフランス映画で活躍したちょっとキザなアウトローキャラですね。日本で言ったら、、、誰かなぁ?、、、ベルモンドをもう少し泥臭くすると松田優作みたいな感じかなぁ。ベルモンドは優作よりもフランス人らしい品があって、仄かに甘い雰囲気を漂わせていますよね。。。という意味でいうと、ベルモンドが微糖のコーヒーなら、西村俊彦はそこにミルクも加えたコーヒー、というか。あるいは甘過ぎない大人向けのココア、とでもいうか。。。

ちなみに撮ってるときは、ベルモンドの名前、頭の隅にもなかったです。話にも出なかったので、西村氏自身はベルモンドという俳優自体知らないかもしれない。。。

そして脇役の方々にもほんの短い時間出てもらっただけですが、わずかな出演だからこそ余計に大事な、魅力的なキャラクターを演じてくれています。ときどきブログにも撮影記念で顔を見せてくれた田中久惠ちゃんや、旧友の伊藤賢児氏、最高でした!代えの効かない印象を鋭く刻んでいるので、必見!

そんな感じで、素晴らしいキャラクターを楽しんでいただければ、と思いますので。。。

ではでは〜心よりお待ちしてまーす!

試写の詳しい情報はこちらです