2014年12月11日木曜日

映画的欲望の曖昧な対象


写真は今日、ポストに入っていた選挙運動のチラシで、深い意味はありません…それよりも書こうと思うのは、「disposal」の試写後、断片的に考えたこと、というか、言葉で考え直したことをメモしておこうかな、と…

「disposal」をつくっていた1年半、もっとも考え続けていたのは映画と演劇との違いでした。

映画とはなんぞやというのを問いつめると、結局「よく見ること、よく聴くこと」だと思うんですね。写真や絵画なら「よく見ること」だし、音楽なら「よく聴くこと」なわけです。文学もそうかな、本質的には。でも、その両者の行為の相関によって成立しているのが映画だということです。

しかし一方、演劇鑑賞でも見るし、聴くわけです。じゃあどこが違うのか。そこで、後発の芸術である映画独自の技術、話法について考えることになる。まず、クローズアップ。「disposal」でもかなり使いました。次に、主観ショット。主観ショットというのは登場人物本人の見た映像のことです。つい先日、ひょんなことからロッセリーニの「イタリア旅行」を見直したんですが、そのヒロイン、イングリッド・バーグマンの内面を表現するため、彼女の主観ショットが多用されていました。その意味で「イタリア旅行」はとても映画的な作品だったわけです。

ところが、ぼくは「disposal」では主観ショットを使わなかった。その代わりにナレーションを使ったのです。ただし、ナレーションというのは登場人物が過去を回想するために使う場合もあるけれど、第三者が状況説明のために使う場合もある。だから、登場人物の視線と同一化されてしまう主観ショットに比べれば、ナレーションの主体はより曖昧である。登場人物本人かもしれないし別人物かもしれない…

そんな映画空間における主体の存在を曖昧にしていく、という狙いがどの程度達成できたかはわかりませんが、それでも、その音声と映像の乖離、その距離感の揺らぎが「よく見ること、よく聴くこと」への欲望を喚起してくれればなぁという作品ではありました。