2015年12月27日日曜日

奪還者&クーデター

新文芸坐さん、今年もありがとう!
『奪還者』はバイオレンス・アクションにロードムーヴィーを混ぜ合わせたような作品で、ガイ・ピアースとロバート・パティンソンの道中記としても、とても魅力的だった。が、いかんせん、サウンドトラックが好きになれない。銃声が生硬で暴力的すぎるし、全体的に余計な音を付けすぎていて音空間が汚らしい。挿入される楽曲もパッとしない。俺は途中から耳に手を当て、自主的に音量を下げながら見ていた。むろん、すべては貧困と暴力に彩られた世界だからという理由があるのかもしれないが、その理屈はおかしいと思う。音にしろ映像にしろ人を惹きつけて、もっとよく聴きたいもっとよく見たいと思わせる工夫がなければ、映画芸術の「表現」にはならないからだ。一方『クーデター』はハラハラドキドキ指数でいえば今年ピカイチだった。が、どうなんだろう?クーデターの勃発した東南アジアの某国で、アメリカ人家族が暴徒の魔の手から逃走するという設定だから、映画の半分はその国の暴徒が描かれることにもなった。が、あのような「狂犬の群れ」にすぎないというだけの描写では結局、欧米的語り口の傲慢さが炙りだされることにはならないだろうか?劇中、ピアース・ブロスナンが「自分たちが汚い商売をやったのが悪いんだ」とかなんとか欧米側としての自己批判を口にするが、それもセリフによって描写不足を取り繕っているようにしか映らないのである。

2015年12月23日水曜日

2015年の映画回顧


『サンドラの週末』のマリオン・コティヤール
アレクセイ・ゲルマンの『神々のたそがれ』(2013)が2010年代を代表する映画になるのはまず間違いなく、俺もゲルマン映画の全作品『道中の点検』1971『戦争のない20日間』1976『わが友イワン・ラプシン』1984『フルスタリョフ、車を!』1988)を見直したし、まさにゲルマンの2015年だったが、俺的成果はそれだけでもなかったから、今年の映画体験は充実していたと思う。ゲルマンへの対抗馬は、なんといってもジャック・ドワイヨンの再発見だ。ドワイヨン映画が日本で次々に公開されたのは1980年代末から90年代にかけてのことで、ジョン・カサヴェテスが再評価された時期と重なっている。映像スタイルでも二人の作家は似ていて、当時はドワイヨンをフランス版カサヴェテスという眼で見ていたのだが、ポピュラーな作風ではないため次第に名前を聞かなくなり、映画祭で限定上映される程度の存在になってしまった。と同時に、俺も作品に触れる機会を逸していたところ、ひさしぶりの新作公開『ラブバトル』(2013)をきっかけに、『三人の結婚』(2009)『アナタの子供』(2012)を新文芸坐が上映してくれた。カサヴェテスは1989年に亡くなってしまったが、ドワイヨンはその後も「俳優の映画」を探求し、みずみずしい映像を撮り続けていた。俺の知らないあいだも…という、このことに勇気づけられたのである。また、今年はブレッソンの『ラルジャン』(1983)『やさしい女』(1969)を再見、未見だった『罪の天使たち』(1943)をスクリーンで見ることができたし、フィリップ・ガレルの新作『ジェラシー』(2013)もあまりに素晴らしかった。本来ならドワイヨンも、このフランスのヌーヴェルバーグの血統において見るべきなのだろう。そしてこの血統というならダルデンヌ兄弟の新作『サンドラの週末』(2014)が現代フランス社会の空気を呼吸したヌーヴェルバーグの現在を見せていたのだと思う。結局、俺が触発されたのは、ドワイヨンの再発見というよりもヌーヴェルバーグの再発見だったのかもしれない。他に記しておきたい作品としては、ジャン=リュック・ゴダールの3D映画『さらば、愛の言葉よ』(2014)やエドワード・ヤンの『恐怖分子』(1986)リマスター版、ポール・トマス・アンダーソンがピンチョンの小説を映像化した『インヒアレント・ヴァイス』、A・G・イニャリトゥの『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014)はカサヴェテスの『オープニング・ナイト』(1977)を現代にアップデートしたものとして楽しんだ。『マッドマックス 怒りのデスロード』(2015)や『セッション』(2014)は最高のエンターテイメントだったし、アート系のポーランド映画『イーダ』(2013)も見応えがあった。クラシックでは、ジャン・ルノワールの『ピクニック』(1946)やオーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1940)『上海から来た女』(1947)『Mr. Arkadin』(1955)などを復元版映像で見られたのはまさに僥倖というほかない。

2015年の演劇回顧

今年見ることができた舞台作品はおもしろいものが多くてほんとに楽しかった。春に見た、劇団だるめしあん『あの子の飴玉』は性をめぐる多様な言説をサンプリングした社会派コメディとして秀逸だったし、神奈川県庁の大会議場で見たtheater 045 syndicate『音』は、とうに少年を卒業した男たちの甘酸っぱい記憶を呼び覚ます肉体的試練がなんとも感動的だった。あるいは、ままごと『わが星』は斬新なファンタジー話法を発明したかのようなソフィスティケートされた舞台に感心しきりだった。夏にかけては、やさしい味わい『汚い月』が人間存在のグロテスクなイメージを密かに懐胎させたような戯曲に挑戦、それがブニュエル好きの俺にはドンピシャな世界観だった一方、イエローモンスター『黄色い月』の大胆な身体表現は舞台空間そのものを覚醒させるかのようなモダンな試みで、清廉な戯曲(デイヴィッド・グレイグ作)のストーリーとも心地良く絡み合っていた。秋が深まると、劇団昴が舞台化した『谷間の女たち』はピノチェト軍事政権下のレジスタンス精神に幻想的な装いを纏わせ見る者を揺さぶってきたし、鮭スペアレ『ロミオとヂュリエット』によるシェイクスピア作品の翻訳語(坪内逍遥訳)と日本の伝統的な舞台表現とをキマイラにしてみようという知的遊戯もとても魅力的だった。さらに、アガリスクエンターテイメント『ナイゲン』は高校の文化祭実行委員会会議を舞台にした風刺劇として見事というほかない出来栄えだったし、年の瀬には、えうれか『岸田國士 短編四作品上演』が、まるで小劇場で活動する俳優たちの技術的底上げをアピールするかような演劇強化空間となっていて頼もしいかぎりだった。あと、忘れられないのは初夏の夕刻からのリラックスした時間だったろうか、プリモ芸術工房「ELECTRONIC AGITATION」でのチェリスト大島純、エレクトロニクスを駆使する本橋彼方、コーポリアルマイムを演じる巣山賢太郎らによるコラボレート作品『アルコール』はとてもとてもエキサイティングだったし、ソロ作品として演じられた『預言者』での巣山のパフォーマンスはその身体言語の可能性を予感させて印象深いものだった…と、まだまだ素晴らしい舞台はたくさんあって書き切れないが、とりあえずはこれくらいで… m(_ _)m

2015年12月14日月曜日

岸田國士 短編四作品上演

えうれかの第二回公演「岸田國士短編四作品上演」を見た。俳優の演技や演出はもちろん、簡素ながらも確かな眼で選ばれた衣装や小道具、大胆な照明や瑞々しい音楽の生演奏などすべてが魅力的で、そこに付け加える言葉もないのだが、主宰の花村雅子が選んだ四作品は彼女らしい世界観を浮かび上がらせているようで興味深かった。

たとえば『命を弄ぶ男ふたり』は、みずからが信じる「愛」の価値を二人の男がそれぞれの「命」を賭けることによって競い合う。『ヂアロオグ・プランタニエ』もやはり、二人の女が一人の男の不確かな「愛」をみずからの「想い」の深さをもって倒錯的に確かめるとでもいうかのように互いに競い合う。

とすると、『恋愛恐怖病』はまさに「愛」の戦いに怯え、逃げ出してしまった男を裁くための法廷劇だった。むろん、その「愛」はちょっとした遊びの延長のようなものだから、そこに参加しないからといって逃亡兵の罪を着せるのは酷だろう。しかし、えうれかの描き出した舞台に触れると、ただの恋愛ゲームも別種の輝きを帯び、私たちの世界を豊かにするのはこの不在なるものとしての「愛」ではないかというふうにも感じられる。

だから、こんなふうに考えてみたい。偶然にしろ必然にしろ人間同士の関係が転がり広がり変容していくことが私たちの「世界」のおもしろさだとすれば、なんらかの意味ある「愛」がその固有の力で人と人とを繋ぐというよりは、むしろ、人と人とが繋がったり離れたりするために人類は「愛」を必要とした。そして、そんな私たちの「世界」は想像を超えている。なぜなら、空虚な「愛」のために生きる者の行動など誰にも予想できないのだから…

その意味で『ぶらんこ』という作品は今回のプログラムのなかでは異質かもしれないが、そのぶん岸田國士的な「愛」の本質を別の角度から照らしだしていると思う。

『ぶらんこ』の夫婦はすでに社会制度的に繋がっているので「愛」を必要としない。『ぶらんこ』の妻は「幸せよ」と口にするが「愛している」とは言わない。「幸せ」はすでに人々を戦いにまきこむような深遠なるゼロではなく、ただひたすら愛のために戦ったという記憶の一部であり、いわば「愛」の残滓のような一夜限りの「夢」なのである。

2015年12月13日日曜日

アメリカン・スナイパー


イラク戦争で活躍した実在の凄腕スナイパー、クリス・カイル。米軍海兵隊に所属する彼が故郷に残した家族との関係に焦点をあて、退役後のPTSDなどにも執拗に言及。「反戦映画」とまでいえなくとも、完全に「厭戦映画」というべき作品だった。むろん、昔からのイーストウッド映画ファンにしてみると、B級アクション由来の独特な味わいはほとんど消えているから物足りないという人も多いかもしれない。だが、ハリウッド映画という枠組みの中で、アメリカの対テロ戦争に一石を投じるような作品を自由に作れるのは、いまやイーストウッドのような巨匠など数をかぞえるくらいしかいないはずだし、その意味で、彼がやるべきだと考えたことを、やれるかぎりのやり方で実現しているのは素晴らしいと思った。老将かくあるべし。

2015年12月8日火曜日

飢えた奴らの言葉

東浩紀 編、ゲンロン 発行、2,300円+税
とりあえず、巻頭に置かれた鈴木忠志と東浩紀の対談(「演劇、暴力、国家」)だけ読んだが、これが滅法おもしろい。東氏は演劇プロパーの人ではないし、鈴木氏にしても最初からこんなふうに飛ばしている。

「わたしはべつに好きだから演劇をやってるわけじゃないんです。日本や世界について考えるうえで、演劇を知らないとまずいという認識が先にあった。演劇はわたしが若いころはすごい力があった。近代日本を代表する小説家や知識人はほとんど演劇を通過している。森鴎外も谷崎潤一郎も三島由紀夫も、みな演劇に関わっている。演劇というものは、歌舞伎や能も近代の戯曲も含めてだけど、一国の精神を形成するのに相当重要な役割を果たしてきた。だから、日本について考え、語るうえでまず演劇に近づいておかないとと考えた。いまの若いひとみたいに、演劇が好きだからやるというのとは、ぜんぜん違うんですね」

なるほどと思った。俺だと、それは「映画」だった。同じように、映画が好きだからというよりも、映画を通して「世界」に触れた。昔のフランスのヌーヴェルヴァーグの連中も同じことを言っていたはず。たとえば、小津映画を通して、俺らは「日本」や「家族」を再発見したのである。だから、単純に「好き」とか「感動する」からではなく、ただただ何かに飢えているかのように見続けた。この対談がおもしろかったのも、おそらくは「世界」のありようを疑い、真理や真実に飢えた奴らの言葉が響いていたからだと思う。

2015年12月3日木曜日

Hello, iMac.

Apple 21.5 inch iMac with 4K retina display (2015 late)

というわけで、7年ぶりのMacの更新。Old Mac Proではアプリケーションの都合でOS X Snow Leopard 10.6を使っていたのが、iMacでは最新のOS X El Capitan 10.11に。ディスプレイの映像や音響といった基本性能も驚くほど進化。まぁごちゃごちゃ言っても旧式どっぷりだった俺だからこそ驚いているわけなので、これ以上やめておきます。が、でもねー、俺、最悪、テレビやオーディオコンポがなくてもやっていける気がするというか、やっとマルチメディア時代を迎えられるような気がします!

2015年11月29日日曜日

Good-bye, Mac Pro.

Mac Pro (2008 early)とIO DETAのディスプレイ
昔のパソコンはバカでかい本体とテレビのようなディスプレイをセットで買うのが普通で、家によっては、床の間の掛け軸の前に鎮座させたりしたもんです。「ウチもパーソナルコンピューターってのを買ったんだがね。もう、なんでもできちまうらしいんだよ」「へぇ、たとえばどんなことが?」「まぁ…難しいことはよくわからないんだが…とにかく最新型、新しい時代なんだな…」そんなことを言いながら、大金払って「床の間の箱」を買ったのです。

そんな与太話はともかく、わが家も2008年に買ったMac Proを手放すことに。ただ、パソコンにはリサイクル法というのがあって、自治体は回収してくれない。買った店に問い合わせろというけれど、そんなん覚えてねーよ、超面倒くさそう、と思っていたが、最近は多少事情も変わったようで「壊れててもいいから無料で引取ります」という一般事業者も現われた。しかし、このMac Pro、手を加えればまだまだ悪くないスペックは維持できるはず。個人でメンテナンスしようとすると、型が古いだけに、対応するパーツなどの選択肢も限られるし、割高になってきたけれど。と、そんなこんなの悶々で今日、買取りセンターに持ち込むことになったのだった。もう、ドキドキである。デカい上に20kgを超えるのでタクシーを使って運ばなきゃならないし、それで「引取れません」と言われたら、まさに泣きっ面に蜂…

結果は、腐っても鯛というか、約1万4,000円で買ってもらえました。増設した内蔵HDDは必死に「0消去」したのに、査定にあまり関係なかったらしいのが残念。まぁ贅沢はいえませぬ。ディスプレイのほうはさすがに買取りが難しかったので無料回収に出そうと思っていたら、偶然近所に、粗大ゴミの巡回引取り業者がいたので持って行ってもらった。最初1,000円要求されたけど、500円に負けてくれたところで妥協。

この巨大なMac Pro、造りもこんなに立派なので、10年とか15年とか使い続けられると良いんですけどね。いかんせん日進月歩の世界というか業界自体が買い換えを促すよう舵取りしてるんだろうし、5年くらいで厳しいなぁという感触。それでも、デジタル映像製作ツールとしてのパソコンは、虚飾なく、わが頭脳であり心臓でもある。どんなシステムを組むかという判断は難しいところです。

2015年11月14日土曜日

ナイゲン

誘ってくれた出演者の金原さんは奥のほうにいるので見えない… ^^;
アガリスクエンターテイメントの『ナイゲン』を歌舞伎町の新宿FACEで見た。とある高校の文化祭の詳細を決めるという生徒会議の様子を描いたコメディで、とてもおもしろかった。なかでも、いちばん素晴らしいと思ったのは、約2時間の上演を、物語上のほぼリアルタイムで進行させるというコンセプトがよく活かされているところだった。たとえば、生徒の一人がトイレに行きたくなったけど会議の拘束で行かせてもらえないといったバカバカしいシーンをしつこく描くのだが、その様子を、観客が時空を共有する舞台上で直接目にするのと、映像化された映画のなかで目にするのとでは、観客の体験は決定的に違うはずだろう。
生徒会議で使われる資料が観客にも配られた。
逆にいえば、現代の演劇作品でいわゆる「時間を超越する」物語を語ったとして、それはコミカルな、あるいは異化効果的な演出としては意味があるにしても、時空を再構築する映画芸術が発展した20世紀以後の世界では、その素朴な時間論的話術が同時代の映画と同等のリアリズムにおいて受け入れられるのは難しいと思う。だから「ナイゲン」を見た帰り道にいちばん考えたのは、舞台芸術には「映画以前の演劇」と「映画以後の演劇」があるんだろうな、ということだった(まるで絵画芸術に「写真以前の絵画」と「写真以後の絵画」があるように)。ただ、この『ナイゲン』は現代の議会制民主主義のありようを戯画的に描いているという側面もあり、物語的にも、とても興味深く見ることができた。
久しぶりの夜の歌舞伎町だったので激写。

2015年11月6日金曜日

速度の魔術

ロベール・ブレッソン監督の遺作『ラルジャン』
これは1983年のフランス映画で、日本公開は1986年。まず間違いなく当時の東京で見たはずだが、見直したのはその時以来。個々のシーンもほとんど覚えてなかったし、新鮮に見ることができた。作品論はもう山ほど語られているだろうから書く気はない。でもまぁそれでもやっぱすげぇなと思うのは、限界ギリギリまで攻める映像の省略の話法と、登場人物たちの魅力。主人公イヴォン(クリスチャン・パテー)も良い感じだが、それ以上に、彼の妻エリーズ(キャロリーヌ・ラング)や刑務所を出所したイヴォンが世話になる老婦人(シルヴィ・ヴァン・デン・エルセン)も実に素晴らしい。息を呑むようなアウラを放っていた。リアルな演技というより俳優の存在そのものの鮮やかさを刻むような手捌きはブレッソン映画の真骨頂である。いちばん好きだったのは、老婦人が洗濯物を干すのをイヴォンが手伝うシーン。その後、すぐ惨殺しちゃうんだけどね。この青天の霹靂な描写というか人類の運命的な失墜の感覚というか、そういう物語論的な速度の魔術こそが『ラルジャン』の映像芸術というべきなんだろう。俺はここに20世紀映画の到達点の一つがあると思う。

2015年11月3日火曜日

偽の神の子

『神々のたそがれ』(2013年)
この春に公開されたアレクセイ・ゲルマンの遺作『神々のたそがれ』も見直した。濃密な物語を断片的な生々しい描写に投影するゲルマン話法の集大成であり、簡単に読み解くこともできないので、俺の気に入った話をひとつ。まず、掲載した写真左の男がこの映画の主人公ルマータ。彼は地球人なのだが、本作の舞台であるこの未知の惑星においては「異教神ゴランの非嫡出子」とみなされ、人々は畏敬の念をもって接している。ただ、一部の者からはなかば疑いの目を向けられていて、両者のギスギスしたやりとりもおもしろい。こうした舞台設定のもと、写真右の少女アリは偽の神ルマータに対し「ゴラン神の子を身籠りたい」と露骨な性的挑発を試みるものの願い適わず、その後、処刑を逃れるのに必死なアリは、せめて自分の腹には神の子がいると証言してくれと懇願することになるのだが、あっけなく悲惨な事故死を遂げる。まるで人間の性と生存本能とが渾然一体であるかのような強烈なエピソードである。

2015年11月1日日曜日

ゲルマン映画、再見。


『フルスタリョフ、車を!』(1998年)
新文芸坐でアレクセイ・ゲルマンの映画作品4本を見直した。そのうちの3本『道中の点検』(1971年)『戦争のない20日間』(1976年)『わが友イワン・ラプシン』(1984年)は1992年のレンフィルム映画祭のとき見ていて、当時はこの映画祭でゲルマンとともに紹介されたヴィターリ・カネフスキーに心を奪われていた(『動くな、死ね、甦れ!』にゾッコンだった)というのもあり、ゲルマンのほうは骨太な映画を撮る監督だなぁという程度の感触だった。でも、後年『フルスタリョフ、車よ!』や『神々のたそがれ』(2013年)で炸裂するアナーキーな映像文体に、これはヤバい作家だと認識を改めることになった。詳細は『フルスタリョフ、車よ』に関する堀潤之氏のレビューを参照されたい。とても良く書けているので付け加えることはないのだが、とにかく、ゲルマン映画はかっこいい。まるで広大な厳寒ロシアの大地全体にギターノイズをガシガシかき鳴らさんとパンクロックのごとき音や映像が唸りを上げる。そこで叩き壊すのは、ルーティン化した既成の映画言語だけでなく、ソ連というかロシアの社会体制の糞のような不条理な現実である。そう、現代日本もまた糞のような政治の不条理に埋まって窒息しかねないことを考えるなら、ゲルマン映画は芸術的レジスタンスの最高の教科書なのだ。

2015年10月28日水曜日

ハンドル周りの再調整

Bontragerのハンドルバー
幅380mmのハンドルバーを400mmへ交換。銀色のバーテープを濃い藍色のものに。ハンドルバーは20mm長くすると乗り心地がどう変わるかを確かめたかった。で、これが意外に大きく変わった!グリップの位置が違うので当然感触も違うのだが、ハンドルの力を車輪に伝達するのはなんというか「テコの原理」に似ている感じで、テコの長くなったぶん制動力が向上したと思う。以前乗っていたクロスバイクのフラットバーハンドルの時は、このことをほとんど意識しなかったのはなぜだろう?たぶん、ドロップハンドルによって前傾姿勢が強くなったのに加え、変速ギアのないシングルスピードにしたことで、いわゆる立ち漕ぎの回数が増えたというのも大きい。そんなふうに「加速装置としてのハンドル」というのを日々実感しつつ走っております。

2015年10月18日日曜日

10月18日渋谷街宣

今日のプラカ大賞 w
国会前デモ以来だから1カ月ぶりに参戦。今日、印象的だったのは「野党共闘!」のコールが自然に沸き上がってきたこと。そういや、いつもの英語コール、行く前に練習しとけば良かった〜!^^; 日本語の「民主主義ってなんだ?」「これだ!」も楽しいんだけど、英語のコールはDJが流してる音楽にも乗りやすくて、ほんと気持ち良さそうなんだよね〜!下のリンクはコール練習用の覚書きとして。
http://illcomm.exblog.jp/21877424
ハチ公前広場は広くないので、すぐ埋まります。
司会進行をやってくれた二人

共産党の小池晃氏
I am not ABEでおなじみの古賀茂明氏 
生活の党と山本太郎となかまたちの玉城デニー氏

右端の男子は高校生といってたような…T-nsSOWL?
誰さんだっけ?名前忘れたー!あっ、わかこさんだ!
スチャダラパーが登壇すると、まるでゲリラライブのように…
…「今夜はブギーバック」やデモクラシーコールが炸裂!

2015年10月17日土曜日

ドワイヨンの光

ジャック・ドワイヨン「アナタの子供」(2012)
昨夜、新文芸坐で見た映画の感想を書こうとしていたのだが、言葉がイメージに追いつかない。ほんとうに、、、光の映画だった。映画は光なんだということを思い出した。まずはじめ、映画の音は闇のなかに軽やかに響いた子どもの声だった。アン、ドゥ、トゥワ、つたないチェロの弦も弾いていた。だからそこは、その空間は闇であっても、どこか懐かしい居心地の良い闇だった。俺たちは闇のなかで蠢いた。もがいてもいた。その闇から脱出したいとすら願っていた。なぜ逃げ出さねばならない?もうひとりの自分がそう囁いているかのようだった。なぜって?だって、闇だけじゃあ映画が始まらないじゃないか?!光はどこから訪れるのか?早くフィルムを回してくれ!!でも、もし、映画が光の贈り物であるというそんなことすら忘れていたのだとしたら、、、最低だな、俺は。反省せねば、、、そして感謝。その感謝は古い友のような、でも偉大な映画監督ジャック・ドワイヨンへ。その撮影監督レナート・ベルタにも。心から感謝。

2015年10月13日火曜日

沖縄のことを教えてください

初沢亜利 著、赤赤舎、3,800円+税
本日10月13日、沖縄県の翁長雄志知事は、アメリカ軍普天間飛行場の移転先、名護市辺野古沖の埋め立て承認を取り消した。——この古くて新しい「沖縄問題」をきっかけに、1年3カ月間現地に滞在して撮り下ろしたという写真集。作家性の強い作品ではないが、沖縄の時事的な現場と日常生活の断片とを交互に追いながら、沖縄の美しい風景や人々の生き様や佇まい、自然な表情を刻み付けている。以下のリンクもぜひ参照してみてください。収録作品と著者のコラム

The Walking Dead / Season 6

FOXチャンネルにて放映中
待望のThe Walking Dead / Season 6が始まった。初回放送も見た。久しぶりにあの世界に触れて、結局ゾンビって自分の分身なんだと思った。腐った自分の自我が襲いかかってくる。ゾンビに喰われることで自分もゾンビになる。つまり、ゾンビと同一化してしまう。ただ、そのゾンビは元から自分自身の一部なので、殺しても殺してもけっしていなくはならない。だから、永遠にゾンビを殺し続け、ゾンビたちと闘い続けることで、かろうじて自分はまだ完全には腐り切っていない「自己」を保持することができる、ということだ。おそらく「自己」とはそういう無間地獄の別名なのである。

2015年10月11日日曜日

新・自衛隊論

自衛隊を活かす会 編著、講談社現代新書、900円+税
安保法制をめぐる議論でもっとも苛立ったのは、憲法論と安全保障論とがごっちゃにして語られていることだった。憲法論は「戦争反対」という標語に単純化され、安全保障論は「外国の脅威」というイメージに単純化された。しかし、その内実は、憲法論は国民主権をベースにした政治哲学や社会思想の問題であるし、安全保障論は国際政治や軍事技術といったきわめて専門性の高い問題である。そういう互いに異質で複雑なテーマを整理しないまま議論しても生産的なものになるはずがない。結果、憲法論の「理想主義」vs. 安全保障論の「現実主義」といった図式において批評されたりしていたが、それはその図式自体が間違っている。憲法論という土台の上に安全保障論を築くべきなのであって、対立概念として天秤にかけるものではない。最近の出版でいうと、高橋源一郎×SEALDs『民主主義ってなんだ?』(河出書房新社)が憲法論の思想を問い直すものだったが、では、安全保障論に関しては何を読んだら良いだろう?と探していて見つけたのが、この『新・自衛隊論』である。本書は、現行の「日本国憲法」も「自衛隊」もポジティブに活かそうという主旨のもと、中国やアメリカの軍事政策を検証し、対テロ戦争下の治安活動の問題点を論じ、専門家による集団的自衛権の事例分析やPKOの現場レポートなどを記している。独特な用語もきちんと定義付けした上で使われているので読みやすいし、政治イデオロギー的な誘導もほとんど感じなかった。むろん、本書では語られない脱自衛隊から非武装中立へという平和主義の道も考えてみたいと思うが、それはまた別の議論を参照すべきだろう。

2015年10月6日火曜日

南京事件 兵士たちの遺言

南京事件の体験を証言する
この番組の詳細はNNNドキュメントの公式HPでも初回放送が終わるまで明かされることがなく、放送予定の更新は凍結されていた。公開されたテレビ番組表では「しゃべってから死ぬ 封印された陣中日記」というタイトルになっていたらしい。「南京事件」という語を避けていたのである。いかに放送局が警戒していたか…

にしても、こうした異常な自主規制を強いるような「空気」はナチスの犯罪に対するドイツの姿勢とは対照的である。時々思うのだが、この差が、ヨーロッパのリーダーとして確固たる地位を築いたドイツと、東アジアでいまだ隣国との摩擦に四苦八苦し、世界的にも没落の一途をたどる日本との違いではないのか?国際社会における「歴史」の問題は政治経済活動の土台とならざるをえないからだ。

以下にリンクしたDaily Motionのサイトで録画を見られるのでぜひ。

南京事件 兵士たちの遺言

2015年10月4日日曜日

軽装備のために

Canon iVIS HF G20
ムービーのサブカメラを購入。今までのカメラで出動すると、三脚などを含め10kg近くの重装備になるので、ちょっとした記録撮影をするだけでも大事だった。逆に、iPhoneを使ったスナップ撮影だっておもしろいと思うが、タフな撮影には向かない。機材としての信頼性も未知数だ。ホームビデオなら一眼ムービーよりずっと動きやすいし、映像製作のぽっかり穴が空いたような中間地帯を埋めてくれるだろう。またバリバリ撮影したいっす。

2015年9月27日日曜日

戦争と平和の閾

Tシャツの絵柄。People…の言葉はパティ・スミスの歌からとったんだと思う。
デモをするのは日本国憲法に守られた国民の権利だし、その憲法は日本の主権が国民にあることを明記している。つまり「国民主権」を守るために「デモをする」ことは、その目的においても手段においても完璧に正当なものである。だから「選挙の結果なんだから(デモなどで)文句を言うな」という類いの意見はまるでヤクザの脅し文句のように聞こえる。櫻井よしこは「憲法が権力を縛ると言うが、それなら選挙は何のためにあるのか」と発言したそうだ(NHK日曜討論)。彼女のような右派の論客はしばしば個別政策論と政治の原則論というか憲法の議論を意図的に混同し、原理原則の懐に深く侵入、政治の本質を根底からねじ曲げようとする。たとえば、右派は「自衛隊だって憲法解釈を経て受け入れられたじゃないか」という。自衛隊の存在についてはリベラルな論者のなかでも意見が分かれるところだが、ちょっと待て。もし仮に「自衛隊がOK」なら「自衛隊が戦争参加することもOK」で良いのか?こうした議論の誘導が右派の論法の定石だと思う。たしかに、現代の複雑な国際政治や戦争戦闘技術のハイテク化のもとで、何を「侵略行為」と呼び、何を「自衛手段の行使」と呼ぶかを判断するのは難しいだろう。経済問題が国際紛争の大きな要因であることも踏まえれば、戦争と平和の閾がきわめて曖昧になっているというふうにもいえる。そこで右派は「そんな高度な判断を下すのは(国民には)無理なので、専門家(政府)に任せなさい」というわけだが、その主張こそが右派の仕掛ける罠であり地雷である。世界の現実が混乱しているからこそ、余計、原理原則を問う本質論が重要になるはずだ。にもかかわらず、原理原則の砦である憲法の改正が難しいならその解釈で対応するという安倍政権の強硬姿勢は、民主政治の本末転倒以外の何物でもない。「安保法制反対デモ」は安全保障政策を否定するものではなく「国民主権を蔑ろにした立法など逆に国民を危険に晒すだけだ」という本質論的な懐疑と危機感の表明なのである。

2015年9月23日水曜日

そぞろの民

「そぞろの民」作・演出 中津留章仁
俺が西村俊彦くんと撮った『廃棄』という短編映画はひどくまわりくどい反原発作品といえる代物なのだが、ただそれは、そのまわりくどさこそが芸術表現にとって重要なものだと考えたからだ。回り道をする必然がなければ、ドキュメンタリーにするか直接デモにでも行ったほうがよっぽど有益だと思う。

先日見たTrashmastersの演劇作品『そぞろの民』はその芸術表現のまわりくどさをある程度ショートカットして扱っていた。つまり、社会問題を直接扱うという意味で野心作らしいということは事前に知っていたので、俺はやや警戒心を抱きつつ見に行き、そして、やっぱりなぁという感慨を抱いた。

まわりくどさの仕掛けもあるにはあったが、あの構成(ネタバレになるので詳細は書かない)は強引というほかなく、この物語なら、なぜコメディにしないのか!と不満だった(もちろんブラックコメディになるだろうが)。ひょっとすると、シリアスに語ったほうが商売的に有利と判断したのだろうか?でも、このままだとやはり、脚本・演出ともに失敗と評価せざるを得ない、というのが俺の意見である。

また『そぞろの民』は、ざっくりいって日常に隠れた政治的日和見主義を批判しているわけだが、政治的姿勢について本気に考えるなら、賛成でも反対でもない第三の立場は、芸術表現ならではの自由な見解や異論を語るのに相応しい貴重な領域である。にもかかわらず、そこを批判告発の対象とすることによって新しい視点を獲得する可能性をみずから捨ててしまったようにもみえる。

あるいは、もっと突っ込んでいえば、問題の難しさは、昔ながらの日和見主義よりも、日本の大衆が政治的対立を意識的にも無意識的にも回避し、あれよあれよと非政治的に脱色してしまうというような社会学的特性にこそあり、その政治的意識の忘却システムについて分析したほうが、より現代的な意味があるのではないだろうか?

ただ、役者はみな魅力的だし、舞台美術はとても気に入った。昭和の香り豊かというか、ノスタルジーを喚起する方法として、丁寧に細部を再現するというのもそれはそれで効果的だし、あの装置で他にもいろいろな物語を見てみたいと思った。

とまぁこう文句を言いつつも、様々な問題を考えさせてくれるので見に行って良かった。みなさんにも、ぜひ見てほしい作品だ。

*『そぞろの民』は9月27日(日)まで、下北沢駅前劇場にて上演中!

2015年9月19日土曜日

民主主義って何だ?


9月18日の国会前デモ
昨日のデモは、ぼくの行った時間帯は普通の人々というか一般市民という感じの方がとても多く、老いも若きも幅広い世代の人が集まっていたという印象。アピール方法ではペンライトやら鳴り物やらが賑やかだし、SEALDsのコールはラップのリズムを刻んで夜の闇を切り裂きく…雰囲気的には、ちょっとした都市のお祭りぽかったかな。

安保法案は成立してしまいましたが、今後、法案の違憲性および法案成立の不当性(参議院特別委員会で議事録もない混乱の下、一方的に可決を宣言した)などを訴える闘い、すなわち、民主主義憲法を破壊する者たちとの新たな闘いが始まるはず。「民主主義って何だ?」「これだ!」——とはSEALDsの叫ぶコールの一つですが——まさに、ここから民主主義を始めよう!ということですね。

2015年8月30日日曜日

落語素見 喰陰

水道橋東口徒歩4分「ラーメン蟻塚」のみそつけめん
落語会に行ったのに…こんな写真しかない!(>_<)

というのも、今日の落語素見はラーメン屋さんの2階を会場にしたのだった。なので、いつものように入場料は無料だが、ラーメンを注文しないと見られない。ちなみに、このお店「蟻塚」は塩ラーメン豊潤というのがおすすめらしいが、味噌好きの俺の眼にまっ先にみそつけめんの名前が留まってしまったので、もうそこから逃れられない状態に。でも、美味しかった。付け汁の味噌、赤だしの風味やバランスがね、すごい好きだった。ただ、つけめんの付け汁としては、これじゃあ少し薄口すぎない?これなら普通のかけそば式のほうが良くない?と思った次第。

そんなこんなで、食後にいつもの落語素見。今回は落語の噺をお芝居にして素見師匠も参加するらしいと聞いていたけど、企画が変化球ぽいので、正直まったく、これっぽっちも、期待していなかった!が、すんません!甘く見てて!始まって、ええぇ?なんか、ちゃんとしてんじゃん?と。この「ヤレ違い」という作品、詳しくは説明しませんが、まずまぁ「愛され変人」とでもいうべきか、等身大の役柄を楽しそうに演じるアンディ本山、逆に、憎まれっ子世に憚る的というか、ケツバットを喰らわせたくなるようなペラッペラな青年を演じるのが西村俊彦、さらに、根は善人かもしれないけど「間の悪さ」が酷すぎて誰も近づくことのできない「愛の真空地帯」ことイリュージョン亭素見師匠、この曲者三人の接着剤的役回りを機転良く捌いていたのがイリュージョン亭小麦こと金原並央。個々のキャラクターが際立っていたし、これは今後イリュージョン亭作品の定番にできるんじゃないですかね?まぁ褒めるばかりじゃなんなので軽く文句もつけさせてもらうと、携帯のシーンはちょっと間延びしてたと思いまーす。

で、次の演目、落語「心眼」は物語のアイデアがおもしろいし、小麦さんの語りもますます安定感を増してました。落語というよりは一人芝居ぽかった気もしますが、おもしろければどっちでもいいやというか。あえて欲をいえば、彼女が男役というか男っぽい台詞を語るときの言葉の響きがね、もっと馴染んだ感じに聞こえると物語の世界がさらに自然にスウッと立ち上がるようになるんじゃないかなとは感じたかな。やっぱり落語の噺は男が中心人物で女は脇役という作品が多いので、女性は不利ですよね。前回演った現代落語の「ハンドタオル」は女性主役(でしたよね?)だったので、男っぽい声の作り物感が気にならなかったのかもしれませぬ。

最後に、素見師匠の「木乃伊取り」はもちろんいうことありません。単純で、バカバカしく、だから最高!っていうある種の理想型。今日は枕から本題にサラッと入ったのが、マジに驚愕でした。

2015年8月29日土曜日

「市民ケーン」超高画質版

「超高画質名作映画シリーズ」と銘打った『市民ケーン』のDVDがあると知り、取り寄せてみたら、今まで見てきたものとはまるで別物で愕然とした。むろん、旧来のDVDも、きっとオリジナルはもっとキレイなんだろなぁと思いながら見ていたものの、いざ高画質を目の当たりにして、ちょっとしたカルチャーショックである。『市民ケーン』は世界映画史上No.1に推されるほどの作品なので、見たことのある人も多いだろうが、劣悪な画質で見た『市民ケーン』など、そのおもしろさの半分もわからないのが当然だと思う。ただ、上記の超高画質版の画面だけでは、まだどう優れているかまで伝わらないだろう。そこで、俺の手元にあった旧来のDVDの同場面をキャプチャーしてみる。
オーソン・ウェルズ演じる主役のケーンはもちろん、ケーンが話している手前の人物や両者の背景などの解像にも大差があるし、黒の色調もまるで違う。超高画質版は音声もとてもクリアで、ほんとうに現代の映画作品として鑑賞に堪える水準のものだ。俺はまるで初めて『市民ケーン』を見たかのような感覚に囚われた。ドラマシーンはおおよそこんな画質差があるものの、もっとも顕著なのは冒頭と最後に置かれたこのカットである。まず、旧来版。
なにか看板らしきものが掛かっているということは判別できるだろう。それが超高画質版だとこんなふうになる。
『市民ケーン』は主演・監督したオーソン・ウェルズの才気あふれるデビュー作だが、映画製作経験のない若者が歴史に残る傑作を撮り得たのだから、当然、ウェルズ以外の才能に負うところも大きい。なかでも撮影監督グレッグ・トーランドの生みだした映像の魅力は、やはりある程度、画質が良くないとわからない。今後『市民ケーン』を鑑賞するなら、ぜひ、この超高画質版(amazonで千円で買える!)で視聴することをお勧めする。

2015年8月22日土曜日

「黄色い月」の劇的空間

2015年8月20〜23日、東京・日本芸術専門学校大森校劇場
『黄色い月』のアクティングエリアは正方形。3次元で考えると高さは地面の縦横ほどではないので立方体とまではいかなくて、いわば直方体を基本としている。その物理的立体空間を、上演開始と同時に、こんどはドラマツルギーを生みだす劇的空間として分割、分離、結合、総合するというような有機的再編を繰り返し、その空間造形のプロセスに俳優の台詞や身体の運動がリズムを与えながら物語を編んで行く。約90分間、4+1人の出演者がそれぞれ空間造形の役割を失うことはほぼ皆無であり、その流動的構造の自由自在なメカニズムにちょっと嫉妬を覚えた。なぜなら、こうした空間造形の妙は映像表現ではなかなか達成できないからだ。単純に考えて、映像で同じことをやろうとするとパンや画面分割や細かな編集が必要になるわけだが、あまりに映像の話法は不自由である。そのことを痛感させられた。だからこそ、巣山賢太郎演出の『黄色い月』がどれだけ端正なルックをもっていたとしてもそれは映像的ではなく、まさに舞台芸術的な造形作品なのだと思う。

2015年8月10日月曜日

汚い月

やさしい味わい♯4「汚い月」2015年8月5日〜10日
演劇ユニット「やさしい味わい」の舞台は「離婚式」をテーマにした群像劇『くすり・ゆび・きり』(本公演ではなかったらしい)を見ていて、今度の『汚い月』(脚本:下西啓正/演出:八角数計)で二回目である。俺は、このユニットはナチュラルな演技をベースに、そこから演劇ならではの人間の感情の衝突するエネルギッシュな空間を立ち上げるということをめざしているのではないかと感じていた。

だから、たいして意味があるのかないのかわからない言葉のやりとりにも、不意に未知のドラマが前景化するような瞬間があるわけで、その過程のスムーズな流れやダイナミックな展開が見どころのひとつではないかと思う。たとえば『汚い月』の冒頭、真琴と弟の、切れたミルクの買い物を頼む/拒否る/しつこく頼む/受諾するみたいな、ほとんどグダグタにも見える些細な会話に、この姉弟が過去の人生で築いた関係が透けて見えるかもしれない。それは普通ならあくまでバックストーリーであり、俳優が役作りをするうえで参照するようなものをあえて凝縮して同時に表現しようというのならその試み、評価しても良いはずだ。あるいは、一種のドキュメンタリーテイストを重視するというかそんな感触もある。こうした印象は俺が勝手に想像し勝手に期待していることなので実際とは違うのかもしれないが、どんなものだろう?

ところで『汚い月』はとあるマンションに住む夫婦の「夫の死」をめぐる関係者のドタバタを描いている。その「死」は世間的には突然の病死として扱われるが、一部の近親者にとっては自殺のようにも見える。物語はこの曖昧な謎を(ミステリーやサスペンスドラマとして)紐解こうとしなければ(登場人物の内面ドラマとして)掘り下げるようなこともしない。重要なのはむしろ、その死に翻弄される周囲の者たちのほうで、彼らの振舞いは何かにつけて利己的かつ無責任かつ自己保身的であり、いわば愚かな現代人の戯画のようでもある…

また、この戯曲がおもしろいのは、そんな物語の結構の曖昧さを武器に個々のシーンを書き進めているところだろう。バックストーリーにすら明快な秩序や一貫性を与えているように見えないのだ。まるで社会派のようなリアルな物語に荒唐無稽な仕掛けを散りばめ、そこに戸惑う観客もいるかもしれない。しかし、たぶん原理的にはシンプルで、いわば、大きな意味でいう「人間」というものを作者ならではの悪意というか、隠されたイロニーやユーモアや怒りをもって生態解剖したかったのだろう。その社会風刺のセンスと空想的なビジョンがひとりの男の死せる身体をめぐって交錯するという見事な物語構造に結実している。

にしても「やさしい味わい」の役者陣は、このバックストーリーの揺らいだ、いわば正解のない演技と格闘しつつ人間臭いキャラクターを創造していたと思う。俺は舞台を二度見せてもらったので、演技等の微調整の痕跡もチラチラ気になってはいたが、いかんせん正解がないのだから、観客の好みで語るしかないのかもしれない(ちなみに俺はアンディ本山の演技は初日のほうが好きだった)

ただ、初日の観劇を終えた段階では、戯曲の挑発力には感心したものの舞台としての完成度には疑問もあった。まず「夫の死」を妻の真琴が知らされるシーンは二度見ても釈然としなかったし、あと、これは二度見て確信したのだが、端的に、日暮里d-倉庫に建てた舞台装置のアクティングエリアが広すぎるということ。「やさしい味わい」のようなデリケートな芝居を構築する上では看過できない問題だと思う。あの舞台はもっと狭い、ごきぶりホイホイならぬ人間ホイホイであるべきだったのではないだろうか?

2015年8月9日日曜日

キャビアとキャピタリズム

佐野元春「ブラッド・ムーン」Daisy Music 3,000円+税
明日のことで争って
失くした金がなくなって
無口な女が損して
誰かがツケを払っている
役人たちはこう言う
「一緒に痛みを分かちあう」
でも誰がマトモに聞くもんか
結局誰かの都合のせいさ

昨日のことで争って
誰もが誰か疑って
眠れない夜に絡まって
バカないざこざになっている
役人たちはこう言う
「歴史を変えればいいだろう」
でも誰がマトモに聞くもんか
結局誰かの都合のせいさ

俺のキャビアとキャピタリズム
俺のキャビアとキャピタリズム
そしらぬ顔で生きてくぜ
 俺のキャビアとキャピタリズム

メディアに金をつかませて
作った話を撒いとけ
世間に満ちている物憂げ
とことん突いて煽っていけ
宣伝文句はこう言う
「幸せに満ちた人生」
でも誰がマトモに聞くもんか
結局誰かの都合のせいさ

マヌケな世間を欺け
弱ったやつらにつけこめ
ルールの隙間を突いてけ
裏技を使って売りぬけ
そうさ、世間なんてそんなもん
それが市場原理主義
でも誰がマトモに聞くもんか
結局誰かの都合のせいさ

俺のキャビアとキャピタリズム
俺のキャビアとキャピタリズム
そしらぬ顔で生きてくぜ
俺のキャビアとキャピタリズム

*佐野元春「ブラッド・ムーン」収録「キャビアとキャピタリズム」より

2015年8月8日土曜日

VISITORS Deluxe Edition

Sony Music 9,000円+税
佐野元春「VISITORS」の発売30周年を記念した最新リマスター盤CD、別テイク集成盤CD、ライヴ版CDおよび、2014年にNewYorkのレコーディングスタジオを再訪したさいのインタビュー映像や、発掘されたライヴ映像などを収めたDVD。そして岩岡吾郎撮影の美しいフォトブックを同封。
「まるで新しい何かを作ってみたい。ビートの中で言葉が生き生きしている、そういうサウンド。今まで誰も聞いたことのない、日本語によるロックサウンド、それを作ってみたいという気持ちでいっぱいだった」by 佐野元春(Disc4収録のインタビューより)

2015年8月6日木曜日

近代政治哲学

ちくま新書、820円+税
ざっくりいうと、民主主義理論の誕生とその批判的検証についての歴史。いつもの明晰な書きっぷりは健在というか、その簡潔な要約ぶりに感心させられる。高橋源一郎の著書『ぼくらの民主主義なんだぜ』が文学者によるビビッドで情感たっぷりの時評だったので、この二冊をあわせて読むとバランスが良いのではないだろうか。

2015年8月2日日曜日

室内楽としての演劇

今から3年前に初めて見た『黄色い月—レイラとリーのバラッド—』にはほんとうに驚かされた。とにかく、喋りまくり動きまくりの約90分間。喋ったり、動いたり、ではない。喋りながら動きながら、である。俺は演劇よりも映画に馴染んできた人間なので、久しぶりに見た役者のけたたましいほどの演技に度肝を抜かれた。

なぜ、こんな舞台になったかという理由はもちろんある。演出の巣山賢太郎はコーポリアルマイムという身体的パフォーマンスを緻密に体系化したアートフォームの専門家であり、その一方の上演台本は、スコットランドの俊英デイヴィッド・グレッグによる、いわゆる「ト書き」まですべて語りにするかのような饒舌きわまりない戯曲。両者を掛け合わしたらそりゃこうなるだろうというのは理屈ではわかるが、まぁ大変なのは実演する俳優たちに違いない。以後、俺は個人的に演劇を数多く見るようになったが、いまだこれを超える「大変そうな」舞台には出会っていないかも…

だから、この作品の魅力をごく大雑把にいえば、役者のダイナミックな演技と詩情あふれる戯曲のハイテンションな融合といったところだろうが、もう少し突っ込んだ楽しみ方を紹介したい。

主人公のリーは、いわゆる街のゴロツキ、ストリートチルドレンである。この少年を演じるのが西村俊彦。男声としてはやや高音のテノールボイスが美しい。もう一方の主人公レイラは無口で内向的な少女、備本愛香が演じている。とはいっても、内面の独白まで台詞になっているので、ひねりある饒舌が楽しめる。また、彼女は素晴らしく切れのある登場人物を立ち上げるので、不良役の西村がいかにも素朴純朴な少年に見えるのがおもしろい。というか、それゆえこの少年にさらに感情移入しやすくなり、確かな相乗効果を上げている。また、二人の脇を固めるのが、抜群の重低音で劇場を震わせるほど男声的な石田博英、女声としては低音ながらも歯切れの良い語りっぷりが魅力の高山佳音里。つまり、男女四声の緊密なコンビネーションがこの作品の聴き所である。だが、この舞台がひとつの「合唱曲」であるとするならば、楽器による伴奏も欲しくなるところだろう。そこに登場するのがチェリストの大島純。彼の弦楽の響きがこの演劇空間の叙情性を何倍にも増幅してくれる。

こうした室内楽的なチームワークを発揮し、眼を閉じても楽しめるドラマになっている『黄色い月』であるが、さらにそこにコーポリアルマイムの洗練されたムービングが加えられ、耳も眼も楽しめる贅沢な舞台となった(再演となる今回もそうなっているはずだ!)。そして特に興味深いのは、この戯曲の表現がどういうふうな動きに活かされているか?という視点よりは、むしろ、コーポリアルマイムの動き自体がひとつの自律した芸術様式に基づいているので、単なる芝居の振付け、物語の飾りや説明にとどまらない俳優の動きと台詞の意味とのちょっとした乖離の感覚こそがこの舞台作品を楽しくユーモラスな表現に仕上げているところだと思う。

そんなふうに、一分一秒たりとも見逃せない聞き逃せない高密度な舞台なので、超おすすめ!というか、3年後の再演にあたって完成度はさらにハイパーだと思うし、おそらく、誰よりも期待しているのは俺自身である。^^; となれば、もうわが友人にも全員見てほしいくらいの勢いなので、直接俺に言ってくれたら、マジに喜んでチケットの手配します!

というわけで、公演予定などの詳細はこちらでご確認ください!

2015年7月26日日曜日

檄と泉


会田家「檄」
現在、東京都現代美術館で開催中の企画展「ここはだれの場所?」に行った。会田誠が家族とともに、それぞれに考えた檄文を6mの布に墨文字で書き付けた「檄」、会田誠自身が主演する「国際会議で演説をする日本の総理大臣と名乗る男のビデオ」の2作品が観客のクレームによって撤去を要請されたと報道され、撤去されるならその前に見てみたいと清澄白河まで出かけた。「檄」も「男のビデオ」もユーモアたっぷりの作品だ。撤去要請に関してはまるで根拠なし。ふざけんじゃねぇ!としか思わないな。

そのとき見た常設展「戦後美術クローズアップ」も望外におもしろかった。単なる美術史的なセレクションにとどまらず、「戦争」や「戦後」の意味を問いかけるような構成になっていたと思う。

たとえば、遠藤利克「泉」(1991年)という作品は、長さ約19m直径95cmの巨木を焼いたもので、その中軸を円形にくり抜いてある。美術館の展示室には他の作品もあり、時にタールの匂いに誘われ振り向くと、あらためてこの黒く輝く抽象彫刻に気づくことになるのだが、その存在感に圧倒される。抽象的とはいっても馴染みのある樹木が黒焦げになって倒れ、しかも、その中心を失っているのだ。深く言葉を失う体験である。

2015年7月22日水曜日

便利ズーム

いわゆる「便利ズーム」も買った。SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC MACRO HSM というもの。評判は良いようだし、2014年11月の発売。汎用的なクオリティを求めるなら、新しい製品のほうが良いかもなぁと思って。35mm換算の画角は27-300mm、画はカリカリしている。まぁ臨時のお仕事用かな。K-3Ⅱのボディと2本のズームレンズ、基本装備はこれで行きます。

2015年7月19日日曜日

ELECTRONIC AGITATION

詩的でエモーショナルでエキサイティング、最高でした!
会場は洗足駅徒歩0分、プリモ芸術工房さん!
いつもデーンと鎮座しているグランドピアノは…
80年前に製造された名器スタインウェイ!
でも、今日の名器は、2万円のXbox360Kinectセンサー!
楕円の箇所がセンサー、右手が舞台、青い帽子を被ってるのが本橋氏
三人のアーティストがコラボした《Alcohol》という作品。システム的には、巣山賢太郎のコーポリアルマイムの動作をモーションセンサーによって電子音に変換、マイムの劇空間を包み込む大島純のチェロも、ポピュラーな作品ではあまり聴かれないノイジーな音を多用するもの。このユニークな音響を統轄しクリエーションしたのが本橋彼方。再演される時には、ぜひみなさん、体験してみてください!