2015年1月18日日曜日

人間という動物の残像

アメリカのTVドラマ「ウォーキング・デッド」の第1シーズンを見た。退屈せずに楽しめたし、ゾンビものというのは数多の亜流・傍流・パロディを生みだしつつ現在にいたるので、「ウォーキング・デッド」が人間とゾンビの戦いをパニック&サスペンスとして正面から語ろうという姿勢は、むしろ、大胆なアプローチなのかもしれない。気持ちの良いドラマだった。

そして、あらためてゾンビというキャラクターは映画が生みだした最大の創造物だと思った。「ウォーキング・デッド」で「ウォーカー」と呼ばれ、ロメロ映画では「リビングデッド」と呼ばれる存在。資本主義消費社会を背景にした本能や欲望のみで動くという意味で、われわれ現代人の鏡像でもある存在。社会学的にはそういうふうに分析されるのだろうが、ゾンビというのは、映像学的にもひとつの象徴的存在になるような気がする。

「映像」というのはそこに現存在はなく、過去の残像が映しだされているわけだが、ゾンビにしても、死んだはずの者がみずからの記憶や意志を奪われさまよい続けるのであって、そこには、ある人物が生きていたという事実の残像のみが揺らめいているとはいえないか?つまり「ゾンビ」には「人間という動物」の儚いイメージが刻まれているのである。だから、たとえば、舞台演劇でゾンビというキャラを効果的に活用するのは意外に難しいかもしれない。いうまでもなく、舞台上の俳優とは現存在であり、ゾンビのもつ儚さを本質として欠いているからだ。その意味でゾンビとは、きわめて映像的なキャラクターだといえるだろう。

そんなことを考えさせてくれた「ウォーキング・デッド」だが、第1シーズンはひと通りの状況を素描してみたという感触なので、これから本格的におもしろくなることを期待したい。