2015年3月6日金曜日

物語の倫理的責務

Bottle Ship Journey の宣伝スチール
劇団→ヤコウバス「Bottle Ship Journey」を見た感想を断片的に書きます。雑論速論印象論ですが御容赦。

まず、登場人物7人は多すぎるような気がした。あんなにいると、もし俺が作者なら、航海の途中で一人一人殺していき、犯人は誰だ?生き残る者は誰だ!?みたいなサスペンスにしてしまうかも?

次に、話が妙にわかりやすすぎる。この劇団の前作「嘘と月」を見た俺は、多数の観客から「よくわからなかった!」と言われたからこんなに平明な話にしたのか?もしそうなら、激しく残念!「嘘と月」のわかりにくさこそがあの作品最大の魅力だったのに!今回はスケールがちっちゃくなったよな!と思った。

つまり、必ずしも成功したとは言い難い、一人五役に挑戦した「嘘と月」は、それでも役柄を必死に演じ分けようと努力した末の混乱であり、それをたとえるなら、K2を目指す若き登山家たちの意気込みのようなものを感じるわけで、だから単に、無能だから混乱したというのとはわけが違う。芸術的野心ゆえの混乱や難解さというなら、それはおそらく、世界のすべてのアーティストにとって引き受けざるをえないリスクの一つであって、そのリスクを怖れる奴らはすでにアーティスト失格といわざるをえない…

あと「Bottle Ship Journey」の脚本には大きな問題があると思う。

主人公の少年が、親の無理解に逆切れして母親を刺殺してしまったという事件が終盤に明かされ、その彼は実兄にまで銃口を向ける。少年はみずからの未熟さを暴力で解決しようと誤った道に堕しているのだが、そこに「Bottle Ship Journey」という主題が重ね映しになる。つまり、小さな瓶の中(の船)に閉じ籠ったままではいけない、そこから本物の現実の世界に飛び出そう、というメッセージが浮かび上がる。そこで彼の兄は切れた弟の隙を突いて銃を奪い、天へ向けて銃声を響かせる。その瞬間、ガラスの瓶は砕け散る、というふうに舞台上では表現されるのだが…ん?…ちょっと待て?!

少年は己の未熟さから罪を犯した。では、その未熟さを克服するということはどういうことか?答えは簡単だろう。まずなにより自分自身の罪を認めることである。

にもかかわらず、その未熟さの克服の号砲を鳴らすのは、罪を犯したわけでもない少年の兄なのだ。なぜだ?肝心の本人は「俺は悪くない!」と言い張り、いまだガラス瓶の中に閉じ籠ったままなのに…

これはもし、このまま終わるなら、シナリオの欠陥でしかないと思う。しかも、物語の主題の心臓部の欠陥…

ただ、俺は見終わって、そのあまりにピンボケした結末に、これはある種のアイロニカルな表現かもしれないとも考えた。己の未熟さゆえに誰も責任をとらない/とれない世界…あぁ!なんか現代日本社会そのものじゃないか?!!

この少年のキャラクターが「エヴァンゲリオン」の碇シンジを補助線上に見据えていることも確かだろうし、ならばと考え直してみると、「エヴァ」という作品では責任をとり切れない碇シンジを物語の中でサディスティックなまでに虐め続けている(それが良いか悪いかは別にして)。そうすることで、少なくとも某かの倫理的責務を果たそうとしているわけだが、では、われらが「Bottle Ship Journey」の物語は、母殺しという深き罪の前で、何をどう語ることで倫理的責務を果たすのだろうか?

それは「Bottle Ship Journey 2」で明らかになるに違いない、と俺は期待している。