2015年5月6日水曜日

「ヒストリエ」と省略の技法

ほとんどいつも発売当日に新刊を買いつつ、もったいなくて読めなかった岩明均の漫画『ヒストリエ』第6〜8巻を一気読みした。ズルズル読まずに5年間溜め込んでいたのだ(次の刊行まで1年半以上待たされるから!)。なので、この作品について冷静に評価するなどというのはとてもおぼつかないけれど、それでも、その過剰な期待を裏切られることはなかった。

ちなみに俺、今年で50歳になるが、そうすると、おそらく40年間は漫画を読んできたことになる(マニアじゃないけどね)。そしてそのキャリアの最先端を見せてくれるのがこの『ヒストリエ』ではないかと思った。むろん、手塚治虫は偉大だし、大友克洋は革命児だったし、さらに斬新なスタイルを生みだした作家もいないはずはないが、漫画表現において「物語を語る」という点で、もっとも成熟した作品となっているのではないだろうか?

この『ヒストリエ』の作風は2002年に刊行された『ヘウレーカ』で確立したものだろうが、『ヘウレーカ』は1冊で完結してしまったので、その成果を最大限発揮するには世界観をさらに拡げられるような器、同じ歴史物でも大長編が必要だった…
『ヒストリエ』のなにがすごいのか?というと、俺がいちばんに感じるのは、登場人物のアクションの切れ味ということだ。これは「絵」の筆致の問題だけではなく、その筆致を活かす「物語」も重要な要素になる。いや、もっと直接的に「物語」と「絵」を連結するシーンのコマ割り、映画でいうカット割り抜きには考えられない。

「コマを割る」「カットを繋ぐ」という作業は「物語を語る」漫画と映画の共通項であるわけだが、それはこれらのアートフォームがともに「省略の芸術」であることを示している。たとえば、主人公エウメネスが故郷に帰還したとき、彼の復讐を怖れた老兵に急襲されるというシーンがある。このシーンのエウメネスのアクションは基本、敵の攻撃をかわす小さな動きのみで、そこから相手を斬った直後の姿勢へカットを繋げ、斬る瞬間自体は「省略」される。

こうしたアクションの意味を踏まえ、省略するものはバッサリ切り落とすという姿勢は、登場人物の設定や描き方にも一貫している。身分を偽って現われるマケドニア王にしろ、歪んだ分身をもつアレクサンドロスにしろ、ひとりの登場人物の個性を限られた物語の中に位置づけるというよりは、さらに大きな歴史的存在へと磨き上げるための方法論でもあるのだろう。

ゆえに、岩明均の描く画面の、時に目に焼きつくかのような白い余白は、その省略の技法に相応しい語られざるものの存在によって、白い紙をよりいっそう白く輝かせているのである。