2015年6月29日月曜日

第6回前橋映像祭にて

当日配布されたパンフレット
あまり多くを見ることはできなかったが、それでも、いくつか興味深い作品に触れられたのは僥倖だと思う。

たとえば、井原田遥の『RE:OKINAWA』は辺野古基地建設反対運動に参加した若者たちへのインタヴューから構成される20分ほどの作品。映像はスマホか何かで撮ったかのようなラフなもので、音声も、風切りノイズを気にせず使用、端的に素人っぽい。だが、辺野古キャンプシュワブゲート前で行われるカレーパーティに登場した人物が鍋のカレーをすくいながら話すカットが強く印象に残った。夜間、米軍基地の赤い光に照らされ、人の動きを追う画面の大部分は身体の影に埋まり、画面の端にカレーの鍋が映る。ほんの10秒かそのくらいの時間だったように感じたが、その映像を見ながら、俺はとても美しいと思った。この作品はインタビューの連続で基本的にフレームが動かないため、その瞬間ダイナミックに動く被写体が自身の存在を主張し、煮込まれたカレーとともに、闇の中に仄赤い輪郭を浮かび上がらせる。撮影者もそれに対処しようと反応するので現場の呼吸が生き生きと感じられる。すばらしい!むろん、おそらく撮影も兼ねる制作者本人は必死にインタビュー撮影しているだけであって、審美的な意図をもっていないだろう。にもかかわらず、というか、それゆえに、神は慎ましやかな美を与えるのだ。

一方、中森圭二郎の『constellation』は、ずっとプロフェッショナルな技術に支えられたドキュメンタリーだった。雨傘革命の現場にたたずむ老人の顔は東アジアの年輪のようなものを感じさせ、ひまわり運動の痕跡を追ったカメラは台湾の書棚につげ義春や丸尾末広のマンガ本を発見、外国語訛りの日本語を響かせることによって、アジアの文化的地勢図を書き換えようとする。ただ『RE:OKINAWA』のもっていた無垢ゆえに生々しい主体の感覚は、逆に希薄にならざるを得ない。もし、この作品が孕む、いわば内なる課題があるとすれば、こういうことだろう。——制作技術が向上すればするほど制作主体を巻き込むような本物のドキュメントを作るのが難しくなるという映像芸術の逆説をいかに乗り越えるか?

小泉明郎の『男たちのメロドラマ#1』もまた特異なドキュメンタリー作品といえる。軍服姿に日本刀を携えた男が切腹の儀式を執り行なう様子を記録する、と同時に、この儀式はアートパフォーマンスとしても公開されており、終演時には観客の拍手も聞こえてくる、つまり、二重のドキュメンタリー構造をもつのである。また、映像の画面は三つに分割され(キリスト教の祭壇画を模したのだろう)、切腹の儀式を三つの観察点から写しだす。そして、儀式の場に座った男は腹部のあたりに白い粘土を置き、なにやら神妙にこねくり始める。その粘土が形を変えるにつれ、そのパフォーマンスが自慰行為の模倣であることが明らかになるだろう。さらに、三画面のうちの一つには、フェラチオを模した映像が投影合成される。これでもかというくらいしつこく性的に意味付けられた日本固有の儀式はスキャンダラスな意匠に彩られるのだ。アイデアは抜群におもしろい。たいして違和感を感じないのもたぶんこのパフォーマンスの仮説にある程度正鵠を射る要素があるのだろう。しかし、画質はあまり良くなく、三連祭壇画の形式を借用しているのに、一つのスクリーンを三分割しただけでは物足りない。なぜ、スクリーンを三つ準備して映写しないのだろう?ひょっとすると、この日上映した映像は、パソコン等で見るためのサンプルデータなのだろうか?(もしそうなら、そう断りを入れてくれても良かったのに…)