2015年8月30日日曜日

落語素見 喰陰

水道橋東口徒歩4分「ラーメン蟻塚」のみそつけめん
落語会に行ったのに…こんな写真しかない!(>_<)

というのも、今日の落語素見はラーメン屋さんの2階を会場にしたのだった。なので、いつものように入場料は無料だが、ラーメンを注文しないと見られない。ちなみに、このお店「蟻塚」は塩ラーメン豊潤というのがおすすめらしいが、味噌好きの俺の眼にまっ先にみそつけめんの名前が留まってしまったので、もうそこから逃れられない状態に。でも、美味しかった。付け汁の味噌、赤だしの風味やバランスがね、すごい好きだった。ただ、つけめんの付け汁としては、これじゃあ少し薄口すぎない?これなら普通のかけそば式のほうが良くない?と思った次第。

そんなこんなで、食後にいつもの落語素見。今回は落語の噺をお芝居にして素見師匠も参加するらしいと聞いていたけど、企画が変化球ぽいので、正直まったく、これっぽっちも、期待していなかった!が、すんません!甘く見てて!始まって、ええぇ?なんか、ちゃんとしてんじゃん?と。この「ヤレ違い」という作品、詳しくは説明しませんが、まずまぁ「愛され変人」とでもいうべきか、等身大の役柄を楽しそうに演じるアンディ本山、逆に、憎まれっ子世に憚る的というか、ケツバットを喰らわせたくなるようなペラッペラな青年を演じるのが西村俊彦、さらに、根は善人かもしれないけど「間の悪さ」が酷すぎて誰も近づくことのできない「愛の真空地帯」ことイリュージョン亭素見師匠、この曲者三人の接着剤的役回りを機転良く捌いていたのがイリュージョン亭小麦こと金原並央。個々のキャラクターが際立っていたし、これは今後イリュージョン亭作品の定番にできるんじゃないですかね?まぁ褒めるばかりじゃなんなので軽く文句もつけさせてもらうと、携帯のシーンはちょっと間延びしてたと思いまーす。

で、次の演目、落語「心眼」は物語のアイデアがおもしろいし、小麦さんの語りもますます安定感を増してました。落語というよりは一人芝居ぽかった気もしますが、おもしろければどっちでもいいやというか。あえて欲をいえば、彼女が男役というか男っぽい台詞を語るときの言葉の響きがね、もっと馴染んだ感じに聞こえると物語の世界がさらに自然にスウッと立ち上がるようになるんじゃないかなとは感じたかな。やっぱり落語の噺は男が中心人物で女は脇役という作品が多いので、女性は不利ですよね。前回演った現代落語の「ハンドタオル」は女性主役(でしたよね?)だったので、男っぽい声の作り物感が気にならなかったのかもしれませぬ。

最後に、素見師匠の「木乃伊取り」はもちろんいうことありません。単純で、バカバカしく、だから最高!っていうある種の理想型。今日は枕から本題にサラッと入ったのが、マジに驚愕でした。

2015年8月29日土曜日

「市民ケーン」超高画質版

「超高画質名作映画シリーズ」と銘打った『市民ケーン』のDVDがあると知り、取り寄せてみたら、今まで見てきたものとはまるで別物で愕然とした。むろん、旧来のDVDも、きっとオリジナルはもっとキレイなんだろなぁと思いながら見ていたものの、いざ高画質を目の当たりにして、ちょっとしたカルチャーショックである。『市民ケーン』は世界映画史上No.1に推されるほどの作品なので、見たことのある人も多いだろうが、劣悪な画質で見た『市民ケーン』など、そのおもしろさの半分もわからないのが当然だと思う。ただ、上記の超高画質版の画面だけでは、まだどう優れているかまで伝わらないだろう。そこで、俺の手元にあった旧来のDVDの同場面をキャプチャーしてみる。
オーソン・ウェルズ演じる主役のケーンはもちろん、ケーンが話している手前の人物や両者の背景などの解像にも大差があるし、黒の色調もまるで違う。超高画質版は音声もとてもクリアで、ほんとうに現代の映画作品として鑑賞に堪える水準のものだ。俺はまるで初めて『市民ケーン』を見たかのような感覚に囚われた。ドラマシーンはおおよそこんな画質差があるものの、もっとも顕著なのは冒頭と最後に置かれたこのカットである。まず、旧来版。
なにか看板らしきものが掛かっているということは判別できるだろう。それが超高画質版だとこんなふうになる。
『市民ケーン』は主演・監督したオーソン・ウェルズの才気あふれるデビュー作だが、映画製作経験のない若者が歴史に残る傑作を撮り得たのだから、当然、ウェルズ以外の才能に負うところも大きい。なかでも撮影監督グレッグ・トーランドの生みだした映像の魅力は、やはりある程度、画質が良くないとわからない。今後『市民ケーン』を鑑賞するなら、ぜひ、この超高画質版(amazonで千円で買える!)で視聴することをお勧めする。

2015年8月22日土曜日

「黄色い月」の劇的空間

2015年8月20〜23日、東京・日本芸術専門学校大森校劇場
『黄色い月』のアクティングエリアは正方形。3次元で考えると高さは地面の縦横ほどではないので立方体とまではいかなくて、いわば直方体を基本としている。その物理的立体空間を、上演開始と同時に、こんどはドラマツルギーを生みだす劇的空間として分割、分離、結合、総合するというような有機的再編を繰り返し、その空間造形のプロセスに俳優の台詞や身体の運動がリズムを与えながら物語を編んで行く。約90分間、4+1人の出演者がそれぞれ空間造形の役割を失うことはほぼ皆無であり、その流動的構造の自由自在なメカニズムにちょっと嫉妬を覚えた。なぜなら、こうした空間造形の妙は映像表現ではなかなか達成できないからだ。単純に考えて、映像で同じことをやろうとするとパンや画面分割や細かな編集が必要になるわけだが、あまりに映像の話法は不自由である。そのことを痛感させられた。だからこそ、巣山賢太郎演出の『黄色い月』がどれだけ端正なルックをもっていたとしてもそれは映像的ではなく、まさに舞台芸術的な造形作品なのだと思う。

2015年8月10日月曜日

汚い月

やさしい味わい♯4「汚い月」2015年8月5日〜10日
演劇ユニット「やさしい味わい」の舞台は「離婚式」をテーマにした群像劇『くすり・ゆび・きり』(本公演ではなかったらしい)を見ていて、今度の『汚い月』(脚本:下西啓正/演出:八角数計)で二回目である。俺は、このユニットはナチュラルな演技をベースに、そこから演劇ならではの人間の感情の衝突するエネルギッシュな空間を立ち上げるということをめざしているのではないかと感じていた。

だから、たいして意味があるのかないのかわからない言葉のやりとりにも、不意に未知のドラマが前景化するような瞬間があるわけで、その過程のスムーズな流れやダイナミックな展開が見どころのひとつではないかと思う。たとえば『汚い月』の冒頭、真琴と弟の、切れたミルクの買い物を頼む/拒否る/しつこく頼む/受諾するみたいな、ほとんどグダグタにも見える些細な会話に、この姉弟が過去の人生で築いた関係が透けて見えるかもしれない。それは普通ならあくまでバックストーリーであり、俳優が役作りをするうえで参照するようなものをあえて凝縮して同時に表現しようというのならその試み、評価しても良いはずだ。あるいは、一種のドキュメンタリーテイストを重視するというかそんな感触もある。こうした印象は俺が勝手に想像し勝手に期待していることなので実際とは違うのかもしれないが、どんなものだろう?

ところで『汚い月』はとあるマンションに住む夫婦の「夫の死」をめぐる関係者のドタバタを描いている。その「死」は世間的には突然の病死として扱われるが、一部の近親者にとっては自殺のようにも見える。物語はこの曖昧な謎を(ミステリーやサスペンスドラマとして)紐解こうとしなければ(登場人物の内面ドラマとして)掘り下げるようなこともしない。重要なのはむしろ、その死に翻弄される周囲の者たちのほうで、彼らの振舞いは何かにつけて利己的かつ無責任かつ自己保身的であり、いわば愚かな現代人の戯画のようでもある…

また、この戯曲がおもしろいのは、そんな物語の結構の曖昧さを武器に個々のシーンを書き進めているところだろう。バックストーリーにすら明快な秩序や一貫性を与えているように見えないのだ。まるで社会派のようなリアルな物語に荒唐無稽な仕掛けを散りばめ、そこに戸惑う観客もいるかもしれない。しかし、たぶん原理的にはシンプルで、いわば、大きな意味でいう「人間」というものを作者ならではの悪意というか、隠されたイロニーやユーモアや怒りをもって生態解剖したかったのだろう。その社会風刺のセンスと空想的なビジョンがひとりの男の死せる身体をめぐって交錯するという見事な物語構造に結実している。

にしても「やさしい味わい」の役者陣は、このバックストーリーの揺らいだ、いわば正解のない演技と格闘しつつ人間臭いキャラクターを創造していたと思う。俺は舞台を二度見せてもらったので、演技等の微調整の痕跡もチラチラ気になってはいたが、いかんせん正解がないのだから、観客の好みで語るしかないのかもしれない(ちなみに俺はアンディ本山の演技は初日のほうが好きだった)

ただ、初日の観劇を終えた段階では、戯曲の挑発力には感心したものの舞台としての完成度には疑問もあった。まず「夫の死」を妻の真琴が知らされるシーンは二度見ても釈然としなかったし、あと、これは二度見て確信したのだが、端的に、日暮里d-倉庫に建てた舞台装置のアクティングエリアが広すぎるということ。「やさしい味わい」のようなデリケートな芝居を構築する上では看過できない問題だと思う。あの舞台はもっと狭い、ごきぶりホイホイならぬ人間ホイホイであるべきだったのではないだろうか?

2015年8月9日日曜日

キャビアとキャピタリズム

佐野元春「ブラッド・ムーン」Daisy Music 3,000円+税
明日のことで争って
失くした金がなくなって
無口な女が損して
誰かがツケを払っている
役人たちはこう言う
「一緒に痛みを分かちあう」
でも誰がマトモに聞くもんか
結局誰かの都合のせいさ

昨日のことで争って
誰もが誰か疑って
眠れない夜に絡まって
バカないざこざになっている
役人たちはこう言う
「歴史を変えればいいだろう」
でも誰がマトモに聞くもんか
結局誰かの都合のせいさ

俺のキャビアとキャピタリズム
俺のキャビアとキャピタリズム
そしらぬ顔で生きてくぜ
 俺のキャビアとキャピタリズム

メディアに金をつかませて
作った話を撒いとけ
世間に満ちている物憂げ
とことん突いて煽っていけ
宣伝文句はこう言う
「幸せに満ちた人生」
でも誰がマトモに聞くもんか
結局誰かの都合のせいさ

マヌケな世間を欺け
弱ったやつらにつけこめ
ルールの隙間を突いてけ
裏技を使って売りぬけ
そうさ、世間なんてそんなもん
それが市場原理主義
でも誰がマトモに聞くもんか
結局誰かの都合のせいさ

俺のキャビアとキャピタリズム
俺のキャビアとキャピタリズム
そしらぬ顔で生きてくぜ
俺のキャビアとキャピタリズム

*佐野元春「ブラッド・ムーン」収録「キャビアとキャピタリズム」より

2015年8月8日土曜日

VISITORS Deluxe Edition

Sony Music 9,000円+税
佐野元春「VISITORS」の発売30周年を記念した最新リマスター盤CD、別テイク集成盤CD、ライヴ版CDおよび、2014年にNewYorkのレコーディングスタジオを再訪したさいのインタビュー映像や、発掘されたライヴ映像などを収めたDVD。そして岩岡吾郎撮影の美しいフォトブックを同封。
「まるで新しい何かを作ってみたい。ビートの中で言葉が生き生きしている、そういうサウンド。今まで誰も聞いたことのない、日本語によるロックサウンド、それを作ってみたいという気持ちでいっぱいだった」by 佐野元春(Disc4収録のインタビューより)

2015年8月6日木曜日

近代政治哲学

ちくま新書、820円+税
ざっくりいうと、民主主義理論の誕生とその批判的検証についての歴史。いつもの明晰な書きっぷりは健在というか、その簡潔な要約ぶりに感心させられる。高橋源一郎の著書『ぼくらの民主主義なんだぜ』が文学者によるビビッドで情感たっぷりの時評だったので、この二冊をあわせて読むとバランスが良いのではないだろうか。

2015年8月2日日曜日

室内楽としての演劇

今から3年前に初めて見た『黄色い月—レイラとリーのバラッド—』にはほんとうに驚かされた。とにかく、喋りまくり動きまくりの約90分間。喋ったり、動いたり、ではない。喋りながら動きながら、である。俺は演劇よりも映画に馴染んできた人間なので、久しぶりに見た役者のけたたましいほどの演技に度肝を抜かれた。

なぜ、こんな舞台になったかという理由はもちろんある。演出の巣山賢太郎はコーポリアルマイムという身体的パフォーマンスを緻密に体系化したアートフォームの専門家であり、その一方の上演台本は、スコットランドの俊英デイヴィッド・グレッグによる、いわゆる「ト書き」まですべて語りにするかのような饒舌きわまりない戯曲。両者を掛け合わしたらそりゃこうなるだろうというのは理屈ではわかるが、まぁ大変なのは実演する俳優たちに違いない。以後、俺は個人的に演劇を数多く見るようになったが、いまだこれを超える「大変そうな」舞台には出会っていないかも…

だから、この作品の魅力をごく大雑把にいえば、役者のダイナミックな演技と詩情あふれる戯曲のハイテンションな融合といったところだろうが、もう少し突っ込んだ楽しみ方を紹介したい。

主人公のリーは、いわゆる街のゴロツキ、ストリートチルドレンである。この少年を演じるのが西村俊彦。男声としてはやや高音のテノールボイスが美しい。もう一方の主人公レイラは無口で内向的な少女、備本愛香が演じている。とはいっても、内面の独白まで台詞になっているので、ひねりある饒舌が楽しめる。また、彼女は素晴らしく切れのある登場人物を立ち上げるので、不良役の西村がいかにも素朴純朴な少年に見えるのがおもしろい。というか、それゆえこの少年にさらに感情移入しやすくなり、確かな相乗効果を上げている。また、二人の脇を固めるのが、抜群の重低音で劇場を震わせるほど男声的な石田博英、女声としては低音ながらも歯切れの良い語りっぷりが魅力の高山佳音里。つまり、男女四声の緊密なコンビネーションがこの作品の聴き所である。だが、この舞台がひとつの「合唱曲」であるとするならば、楽器による伴奏も欲しくなるところだろう。そこに登場するのがチェリストの大島純。彼の弦楽の響きがこの演劇空間の叙情性を何倍にも増幅してくれる。

こうした室内楽的なチームワークを発揮し、眼を閉じても楽しめるドラマになっている『黄色い月』であるが、さらにそこにコーポリアルマイムの洗練されたムービングが加えられ、耳も眼も楽しめる贅沢な舞台となった(再演となる今回もそうなっているはずだ!)。そして特に興味深いのは、この戯曲の表現がどういうふうな動きに活かされているか?という視点よりは、むしろ、コーポリアルマイムの動き自体がひとつの自律した芸術様式に基づいているので、単なる芝居の振付け、物語の飾りや説明にとどまらない俳優の動きと台詞の意味とのちょっとした乖離の感覚こそがこの舞台作品を楽しくユーモラスな表現に仕上げているところだと思う。

そんなふうに、一分一秒たりとも見逃せない聞き逃せない高密度な舞台なので、超おすすめ!というか、3年後の再演にあたって完成度はさらにハイパーだと思うし、おそらく、誰よりも期待しているのは俺自身である。^^; となれば、もうわが友人にも全員見てほしいくらいの勢いなので、直接俺に言ってくれたら、マジに喜んでチケットの手配します!

というわけで、公演予定などの詳細はこちらでご確認ください!