2015年8月10日月曜日

汚い月

やさしい味わい♯4「汚い月」2015年8月5日〜10日
演劇ユニット「やさしい味わい」の舞台は「離婚式」をテーマにした群像劇『くすり・ゆび・きり』(本公演ではなかったらしい)を見ていて、今度の『汚い月』(脚本:下西啓正/演出:八角数計)で二回目である。俺は、このユニットはナチュラルな演技をベースに、そこから演劇ならではの人間の感情の衝突するエネルギッシュな空間を立ち上げるということをめざしているのではないかと感じていた。

だから、たいして意味があるのかないのかわからない言葉のやりとりにも、不意に未知のドラマが前景化するような瞬間があるわけで、その過程のスムーズな流れやダイナミックな展開が見どころのひとつではないかと思う。たとえば『汚い月』の冒頭、真琴と弟の、切れたミルクの買い物を頼む/拒否る/しつこく頼む/受諾するみたいな、ほとんどグダグタにも見える些細な会話に、この姉弟が過去の人生で築いた関係が透けて見えるかもしれない。それは普通ならあくまでバックストーリーであり、俳優が役作りをするうえで参照するようなものをあえて凝縮して同時に表現しようというのならその試み、評価しても良いはずだ。あるいは、一種のドキュメンタリーテイストを重視するというかそんな感触もある。こうした印象は俺が勝手に想像し勝手に期待していることなので実際とは違うのかもしれないが、どんなものだろう?

ところで『汚い月』はとあるマンションに住む夫婦の「夫の死」をめぐる関係者のドタバタを描いている。その「死」は世間的には突然の病死として扱われるが、一部の近親者にとっては自殺のようにも見える。物語はこの曖昧な謎を(ミステリーやサスペンスドラマとして)紐解こうとしなければ(登場人物の内面ドラマとして)掘り下げるようなこともしない。重要なのはむしろ、その死に翻弄される周囲の者たちのほうで、彼らの振舞いは何かにつけて利己的かつ無責任かつ自己保身的であり、いわば愚かな現代人の戯画のようでもある…

また、この戯曲がおもしろいのは、そんな物語の結構の曖昧さを武器に個々のシーンを書き進めているところだろう。バックストーリーにすら明快な秩序や一貫性を与えているように見えないのだ。まるで社会派のようなリアルな物語に荒唐無稽な仕掛けを散りばめ、そこに戸惑う観客もいるかもしれない。しかし、たぶん原理的にはシンプルで、いわば、大きな意味でいう「人間」というものを作者ならではの悪意というか、隠されたイロニーやユーモアや怒りをもって生態解剖したかったのだろう。その社会風刺のセンスと空想的なビジョンがひとりの男の死せる身体をめぐって交錯するという見事な物語構造に結実している。

にしても「やさしい味わい」の役者陣は、このバックストーリーの揺らいだ、いわば正解のない演技と格闘しつつ人間臭いキャラクターを創造していたと思う。俺は舞台を二度見せてもらったので、演技等の微調整の痕跡もチラチラ気になってはいたが、いかんせん正解がないのだから、観客の好みで語るしかないのかもしれない(ちなみに俺はアンディ本山の演技は初日のほうが好きだった)

ただ、初日の観劇を終えた段階では、戯曲の挑発力には感心したものの舞台としての完成度には疑問もあった。まず「夫の死」を妻の真琴が知らされるシーンは二度見ても釈然としなかったし、あと、これは二度見て確信したのだが、端的に、日暮里d-倉庫に建てた舞台装置のアクティングエリアが広すぎるということ。「やさしい味わい」のようなデリケートな芝居を構築する上では看過できない問題だと思う。あの舞台はもっと狭い、ごきぶりホイホイならぬ人間ホイホイであるべきだったのではないだろうか?