2015年11月29日日曜日

Good-bye, Mac Pro.

Mac Pro (2008 early)とIO DETAのディスプレイ
昔のパソコンはバカでかい本体とテレビのようなディスプレイをセットで買うのが普通で、家によっては、床の間の掛け軸の前に鎮座させたりしたもんです。「ウチもパーソナルコンピューターってのを買ったんだがね。もう、なんでもできちまうらしいんだよ」「へぇ、たとえばどんなことが?」「まぁ…難しいことはよくわからないんだが…とにかく最新型、新しい時代なんだな…」そんなことを言いながら、大金払って「床の間の箱」を買ったのです。

そんな与太話はともかく、わが家も2008年に買ったMac Proを手放すことに。ただ、パソコンにはリサイクル法というのがあって、自治体は回収してくれない。買った店に問い合わせろというけれど、そんなん覚えてねーよ、超面倒くさそう、と思っていたが、最近は多少事情も変わったようで「壊れててもいいから無料で引取ります」という一般事業者も現われた。しかし、このMac Pro、手を加えればまだまだ悪くないスペックは維持できるはず。個人でメンテナンスしようとすると、型が古いだけに、対応するパーツなどの選択肢も限られるし、割高になってきたけれど。と、そんなこんなの悶々で今日、買取りセンターに持ち込むことになったのだった。もう、ドキドキである。デカい上に20kgを超えるのでタクシーを使って運ばなきゃならないし、それで「引取れません」と言われたら、まさに泣きっ面に蜂…

結果は、腐っても鯛というか、約1万4,000円で買ってもらえました。増設した内蔵HDDは必死に「0消去」したのに、査定にあまり関係なかったらしいのが残念。まぁ贅沢はいえませぬ。ディスプレイのほうはさすがに買取りが難しかったので無料回収に出そうと思っていたら、偶然近所に、粗大ゴミの巡回引取り業者がいたので持って行ってもらった。最初1,000円要求されたけど、500円に負けてくれたところで妥協。

この巨大なMac Pro、造りもこんなに立派なので、10年とか15年とか使い続けられると良いんですけどね。いかんせん日進月歩の世界というか業界自体が買い換えを促すよう舵取りしてるんだろうし、5年くらいで厳しいなぁという感触。それでも、デジタル映像製作ツールとしてのパソコンは、虚飾なく、わが頭脳であり心臓でもある。どんなシステムを組むかという判断は難しいところです。

2015年11月14日土曜日

ナイゲン

誘ってくれた出演者の金原さんは奥のほうにいるので見えない… ^^;
アガリスクエンターテイメントの『ナイゲン』を歌舞伎町の新宿FACEで見た。とある高校の文化祭の詳細を決めるという生徒会議の様子を描いたコメディで、とてもおもしろかった。なかでも、いちばん素晴らしいと思ったのは、約2時間の上演を、物語上のほぼリアルタイムで進行させるというコンセプトがよく活かされているところだった。たとえば、生徒の一人がトイレに行きたくなったけど会議の拘束で行かせてもらえないといったバカバカしいシーンをしつこく描くのだが、その様子を、観客が時空を共有する舞台上で直接目にするのと、映像化された映画のなかで目にするのとでは、観客の体験は決定的に違うはずだろう。
生徒会議で使われる資料が観客にも配られた。
逆にいえば、現代の演劇作品でいわゆる「時間を超越する」物語を語ったとして、それはコミカルな、あるいは異化効果的な演出としては意味があるにしても、時空を再構築する映画芸術が発展した20世紀以後の世界では、その素朴な時間論的話術が同時代の映画と同等のリアリズムにおいて受け入れられるのは難しいと思う。だから「ナイゲン」を見た帰り道にいちばん考えたのは、舞台芸術には「映画以前の演劇」と「映画以後の演劇」があるんだろうな、ということだった(まるで絵画芸術に「写真以前の絵画」と「写真以後の絵画」があるように)。ただ、この『ナイゲン』は現代の議会制民主主義のありようを戯画的に描いているという側面もあり、物語的にも、とても興味深く見ることができた。
久しぶりの夜の歌舞伎町だったので激写。

2015年11月6日金曜日

速度の魔術

ロベール・ブレッソン監督の遺作『ラルジャン』
これは1983年のフランス映画で、日本公開は1986年。まず間違いなく当時の東京で見たはずだが、見直したのはその時以来。個々のシーンもほとんど覚えてなかったし、新鮮に見ることができた。作品論はもう山ほど語られているだろうから書く気はない。でもまぁそれでもやっぱすげぇなと思うのは、限界ギリギリまで攻める映像の省略の話法と、登場人物たちの魅力。主人公イヴォン(クリスチャン・パテー)も良い感じだが、それ以上に、彼の妻エリーズ(キャロリーヌ・ラング)や刑務所を出所したイヴォンが世話になる老婦人(シルヴィ・ヴァン・デン・エルセン)も実に素晴らしい。息を呑むようなアウラを放っていた。リアルな演技というより俳優の存在そのものの鮮やかさを刻むような手捌きはブレッソン映画の真骨頂である。いちばん好きだったのは、老婦人が洗濯物を干すのをイヴォンが手伝うシーン。その後、すぐ惨殺しちゃうんだけどね。この青天の霹靂な描写というか人類の運命的な失墜の感覚というか、そういう物語論的な速度の魔術こそが『ラルジャン』の映像芸術というべきなんだろう。俺はここに20世紀映画の到達点の一つがあると思う。

2015年11月3日火曜日

偽の神の子

『神々のたそがれ』(2013年)
この春に公開されたアレクセイ・ゲルマンの遺作『神々のたそがれ』も見直した。濃密な物語を断片的な生々しい描写に投影するゲルマン話法の集大成であり、簡単に読み解くこともできないので、俺の気に入った話をひとつ。まず、掲載した写真左の男がこの映画の主人公ルマータ。彼は地球人なのだが、本作の舞台であるこの未知の惑星においては「異教神ゴランの非嫡出子」とみなされ、人々は畏敬の念をもって接している。ただ、一部の者からはなかば疑いの目を向けられていて、両者のギスギスしたやりとりもおもしろい。こうした舞台設定のもと、写真右の少女アリは偽の神ルマータに対し「ゴラン神の子を身籠りたい」と露骨な性的挑発を試みるものの願い適わず、その後、処刑を逃れるのに必死なアリは、せめて自分の腹には神の子がいると証言してくれと懇願することになるのだが、あっけなく悲惨な事故死を遂げる。まるで人間の性と生存本能とが渾然一体であるかのような強烈なエピソードである。

2015年11月1日日曜日

ゲルマン映画、再見。


『フルスタリョフ、車を!』(1998年)
新文芸坐でアレクセイ・ゲルマンの映画作品4本を見直した。そのうちの3本『道中の点検』(1971年)『戦争のない20日間』(1976年)『わが友イワン・ラプシン』(1984年)は1992年のレンフィルム映画祭のとき見ていて、当時はこの映画祭でゲルマンとともに紹介されたヴィターリ・カネフスキーに心を奪われていた(『動くな、死ね、甦れ!』にゾッコンだった)というのもあり、ゲルマンのほうは骨太な映画を撮る監督だなぁという程度の感触だった。でも、後年『フルスタリョフ、車よ!』や『神々のたそがれ』(2013年)で炸裂するアナーキーな映像文体に、これはヤバい作家だと認識を改めることになった。詳細は『フルスタリョフ、車よ』に関する堀潤之氏のレビューを参照されたい。とても良く書けているので付け加えることはないのだが、とにかく、ゲルマン映画はかっこいい。まるで広大な厳寒ロシアの大地全体にギターノイズをガシガシかき鳴らさんとパンクロックのごとき音や映像が唸りを上げる。そこで叩き壊すのは、ルーティン化した既成の映画言語だけでなく、ソ連というかロシアの社会体制の糞のような不条理な現実である。そう、現代日本もまた糞のような政治の不条理に埋まって窒息しかねないことを考えるなら、ゲルマン映画は芸術的レジスタンスの最高の教科書なのだ。