2015年12月27日日曜日

奪還者&クーデター

新文芸坐さん、今年もありがとう!
『奪還者』はバイオレンス・アクションにロードムーヴィーを混ぜ合わせたような作品で、ガイ・ピアースとロバート・パティンソンの道中記としても、とても魅力的だった。が、いかんせん、サウンドトラックが好きになれない。銃声が生硬で暴力的すぎるし、全体的に余計な音を付けすぎていて音空間が汚らしい。挿入される楽曲もパッとしない。俺は途中から耳に手を当て、自主的に音量を下げながら見ていた。むろん、すべては貧困と暴力に彩られた世界だからという理由があるのかもしれないが、その理屈はおかしいと思う。音にしろ映像にしろ人を惹きつけて、もっとよく聴きたいもっとよく見たいと思わせる工夫がなければ、映画芸術の「表現」にはならないからだ。一方『クーデター』はハラハラドキドキ指数でいえば今年ピカイチだった。が、どうなんだろう?クーデターの勃発した東南アジアの某国で、アメリカ人家族が暴徒の魔の手から逃走するという設定だから、映画の半分はその国の暴徒が描かれることにもなった。が、あのような「狂犬の群れ」にすぎないというだけの描写では結局、欧米的語り口の傲慢さが炙りだされることにはならないだろうか?劇中、ピアース・ブロスナンが「自分たちが汚い商売をやったのが悪いんだ」とかなんとか欧米側としての自己批判を口にするが、それもセリフによって描写不足を取り繕っているようにしか映らないのである。

2015年12月23日水曜日

2015年の映画回顧


『サンドラの週末』のマリオン・コティヤール
アレクセイ・ゲルマンの『神々のたそがれ』(2013)が2010年代を代表する映画になるのはまず間違いなく、俺もゲルマン映画の全作品『道中の点検』1971『戦争のない20日間』1976『わが友イワン・ラプシン』1984『フルスタリョフ、車を!』1988)を見直したし、まさにゲルマンの2015年だったが、俺的成果はそれだけでもなかったから、今年の映画体験は充実していたと思う。ゲルマンへの対抗馬は、なんといってもジャック・ドワイヨンの再発見だ。ドワイヨン映画が日本で次々に公開されたのは1980年代末から90年代にかけてのことで、ジョン・カサヴェテスが再評価された時期と重なっている。映像スタイルでも二人の作家は似ていて、当時はドワイヨンをフランス版カサヴェテスという眼で見ていたのだが、ポピュラーな作風ではないため次第に名前を聞かなくなり、映画祭で限定上映される程度の存在になってしまった。と同時に、俺も作品に触れる機会を逸していたところ、ひさしぶりの新作公開『ラブバトル』(2013)をきっかけに、『三人の結婚』(2009)『アナタの子供』(2012)を新文芸坐が上映してくれた。カサヴェテスは1989年に亡くなってしまったが、ドワイヨンはその後も「俳優の映画」を探求し、みずみずしい映像を撮り続けていた。俺の知らないあいだも…という、このことに勇気づけられたのである。また、今年はブレッソンの『ラルジャン』(1983)『やさしい女』(1969)を再見、未見だった『罪の天使たち』(1943)をスクリーンで見ることができたし、フィリップ・ガレルの新作『ジェラシー』(2013)もあまりに素晴らしかった。本来ならドワイヨンも、このフランスのヌーヴェルバーグの血統において見るべきなのだろう。そしてこの血統というならダルデンヌ兄弟の新作『サンドラの週末』(2014)が現代フランス社会の空気を呼吸したヌーヴェルバーグの現在を見せていたのだと思う。結局、俺が触発されたのは、ドワイヨンの再発見というよりもヌーヴェルバーグの再発見だったのかもしれない。他に記しておきたい作品としては、ジャン=リュック・ゴダールの3D映画『さらば、愛の言葉よ』(2014)やエドワード・ヤンの『恐怖分子』(1986)リマスター版、ポール・トマス・アンダーソンがピンチョンの小説を映像化した『インヒアレント・ヴァイス』、A・G・イニャリトゥの『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014)はカサヴェテスの『オープニング・ナイト』(1977)を現代にアップデートしたものとして楽しんだ。『マッドマックス 怒りのデスロード』(2015)や『セッション』(2014)は最高のエンターテイメントだったし、アート系のポーランド映画『イーダ』(2013)も見応えがあった。クラシックでは、ジャン・ルノワールの『ピクニック』(1946)やオーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1940)『上海から来た女』(1947)『Mr. Arkadin』(1955)などを復元版映像で見られたのはまさに僥倖というほかない。

2015年の演劇回顧

今年見ることができた舞台作品はおもしろいものが多くてほんとに楽しかった。春に見た、劇団だるめしあん『あの子の飴玉』は性をめぐる多様な言説をサンプリングした社会派コメディとして秀逸だったし、神奈川県庁の大会議場で見たtheater 045 syndicate『音』は、とうに少年を卒業した男たちの甘酸っぱい記憶を呼び覚ます肉体的試練がなんとも感動的だった。あるいは、ままごと『わが星』は斬新なファンタジー話法を発明したかのようなソフィスティケートされた舞台に感心しきりだった。夏にかけては、やさしい味わい『汚い月』が人間存在のグロテスクなイメージを密かに懐胎させたような戯曲に挑戦、それがブニュエル好きの俺にはドンピシャな世界観だった一方、イエローモンスター『黄色い月』の大胆な身体表現は舞台空間そのものを覚醒させるかのようなモダンな試みで、清廉な戯曲(デイヴィッド・グレイグ作)のストーリーとも心地良く絡み合っていた。秋が深まると、劇団昴が舞台化した『谷間の女たち』はピノチェト軍事政権下のレジスタンス精神に幻想的な装いを纏わせ見る者を揺さぶってきたし、鮭スペアレ『ロミオとヂュリエット』によるシェイクスピア作品の翻訳語(坪内逍遥訳)と日本の伝統的な舞台表現とをキマイラにしてみようという知的遊戯もとても魅力的だった。さらに、アガリスクエンターテイメント『ナイゲン』は高校の文化祭実行委員会会議を舞台にした風刺劇として見事というほかない出来栄えだったし、年の瀬には、えうれか『岸田國士 短編四作品上演』が、まるで小劇場で活動する俳優たちの技術的底上げをアピールするかような演劇強化空間となっていて頼もしいかぎりだった。あと、忘れられないのは初夏の夕刻からのリラックスした時間だったろうか、プリモ芸術工房「ELECTRONIC AGITATION」でのチェリスト大島純、エレクトロニクスを駆使する本橋彼方、コーポリアルマイムを演じる巣山賢太郎らによるコラボレート作品『アルコール』はとてもとてもエキサイティングだったし、ソロ作品として演じられた『預言者』での巣山のパフォーマンスはその身体言語の可能性を予感させて印象深いものだった…と、まだまだ素晴らしい舞台はたくさんあって書き切れないが、とりあえずはこれくらいで… m(_ _)m

2015年12月14日月曜日

岸田國士 短編四作品上演

えうれかの第二回公演「岸田國士短編四作品上演」を見た。俳優の演技や演出はもちろん、簡素ながらも確かな眼で選ばれた衣装や小道具、大胆な照明や瑞々しい音楽の生演奏などすべてが魅力的で、そこに付け加える言葉もないのだが、主宰の花村雅子が選んだ四作品は彼女らしい世界観を浮かび上がらせているようで興味深かった。

たとえば『命を弄ぶ男ふたり』は、みずからが信じる「愛」の価値を二人の男がそれぞれの「命」を賭けることによって競い合う。『ヂアロオグ・プランタニエ』もやはり、二人の女が一人の男の不確かな「愛」をみずからの「想い」の深さをもって倒錯的に確かめるとでもいうかのように互いに競い合う。

とすると、『恋愛恐怖病』はまさに「愛」の戦いに怯え、逃げ出してしまった男を裁くための法廷劇だった。むろん、その「愛」はちょっとした遊びの延長のようなものだから、そこに参加しないからといって逃亡兵の罪を着せるのは酷だろう。しかし、えうれかの描き出した舞台に触れると、ただの恋愛ゲームも別種の輝きを帯び、私たちの世界を豊かにするのはこの不在なるものとしての「愛」ではないかというふうにも感じられる。

だから、こんなふうに考えてみたい。偶然にしろ必然にしろ人間同士の関係が転がり広がり変容していくことが私たちの「世界」のおもしろさだとすれば、なんらかの意味ある「愛」がその固有の力で人と人とを繋ぐというよりは、むしろ、人と人とが繋がったり離れたりするために人類は「愛」を必要とした。そして、そんな私たちの「世界」は想像を超えている。なぜなら、空虚な「愛」のために生きる者の行動など誰にも予想できないのだから…

その意味で『ぶらんこ』という作品は今回のプログラムのなかでは異質かもしれないが、そのぶん岸田國士的な「愛」の本質を別の角度から照らしだしていると思う。

『ぶらんこ』の夫婦はすでに社会制度的に繋がっているので「愛」を必要としない。『ぶらんこ』の妻は「幸せよ」と口にするが「愛している」とは言わない。「幸せ」はすでに人々を戦いにまきこむような深遠なるゼロではなく、ただひたすら愛のために戦ったという記憶の一部であり、いわば「愛」の残滓のような一夜限りの「夢」なのである。

2015年12月13日日曜日

アメリカン・スナイパー


イラク戦争で活躍した実在の凄腕スナイパー、クリス・カイル。米軍海兵隊に所属する彼が故郷に残した家族との関係に焦点をあて、退役後のPTSDなどにも執拗に言及。「反戦映画」とまでいえなくとも、完全に「厭戦映画」というべき作品だった。むろん、昔からのイーストウッド映画ファンにしてみると、B級アクション由来の独特な味わいはほとんど消えているから物足りないという人も多いかもしれない。だが、ハリウッド映画という枠組みの中で、アメリカの対テロ戦争に一石を投じるような作品を自由に作れるのは、いまやイーストウッドのような巨匠など数をかぞえるくらいしかいないはずだし、その意味で、彼がやるべきだと考えたことを、やれるかぎりのやり方で実現しているのは素晴らしいと思った。老将かくあるべし。

2015年12月8日火曜日

飢えた奴らの言葉

東浩紀 編、ゲンロン 発行、2,300円+税
とりあえず、巻頭に置かれた鈴木忠志と東浩紀の対談(「演劇、暴力、国家」)だけ読んだが、これが滅法おもしろい。東氏は演劇プロパーの人ではないし、鈴木氏にしても最初からこんなふうに飛ばしている。

「わたしはべつに好きだから演劇をやってるわけじゃないんです。日本や世界について考えるうえで、演劇を知らないとまずいという認識が先にあった。演劇はわたしが若いころはすごい力があった。近代日本を代表する小説家や知識人はほとんど演劇を通過している。森鴎外も谷崎潤一郎も三島由紀夫も、みな演劇に関わっている。演劇というものは、歌舞伎や能も近代の戯曲も含めてだけど、一国の精神を形成するのに相当重要な役割を果たしてきた。だから、日本について考え、語るうえでまず演劇に近づいておかないとと考えた。いまの若いひとみたいに、演劇が好きだからやるというのとは、ぜんぜん違うんですね」

なるほどと思った。俺だと、それは「映画」だった。同じように、映画が好きだからというよりも、映画を通して「世界」に触れた。昔のフランスのヌーヴェルヴァーグの連中も同じことを言っていたはず。たとえば、小津映画を通して、俺らは「日本」や「家族」を再発見したのである。だから、単純に「好き」とか「感動する」からではなく、ただただ何かに飢えているかのように見続けた。この対談がおもしろかったのも、おそらくは「世界」のありようを疑い、真理や真実に飢えた奴らの言葉が響いていたからだと思う。

2015年12月3日木曜日

Hello, iMac.

Apple 21.5 inch iMac with 4K retina display (2015 late)

というわけで、7年ぶりのMacの更新。Old Mac Proではアプリケーションの都合でOS X Snow Leopard 10.6を使っていたのが、iMacでは最新のOS X El Capitan 10.11に。ディスプレイの映像や音響といった基本性能も驚くほど進化。まぁごちゃごちゃ言っても旧式どっぷりだった俺だからこそ驚いているわけなので、これ以上やめておきます。が、でもねー、俺、最悪、テレビやオーディオコンポがなくてもやっていける気がするというか、やっとマルチメディア時代を迎えられるような気がします!