2015年12月14日月曜日

岸田國士 短編四作品上演

えうれかの第二回公演「岸田國士短編四作品上演」を見た。俳優の演技や演出はもちろん、簡素ながらも確かな眼で選ばれた衣装や小道具、大胆な照明や瑞々しい音楽の生演奏などすべてが魅力的で、そこに付け加える言葉もないのだが、主宰の花村雅子が選んだ四作品は彼女らしい世界観を浮かび上がらせているようで興味深かった。

たとえば『命を弄ぶ男ふたり』は、みずからが信じる「愛」の価値を二人の男がそれぞれの「命」を賭けることによって競い合う。『ヂアロオグ・プランタニエ』もやはり、二人の女が一人の男の不確かな「愛」をみずからの「想い」の深さをもって倒錯的に確かめるとでもいうかのように互いに競い合う。

とすると、『恋愛恐怖病』はまさに「愛」の戦いに怯え、逃げ出してしまった男を裁くための法廷劇だった。むろん、その「愛」はちょっとした遊びの延長のようなものだから、そこに参加しないからといって逃亡兵の罪を着せるのは酷だろう。しかし、えうれかの描き出した舞台に触れると、ただの恋愛ゲームも別種の輝きを帯び、私たちの世界を豊かにするのはこの不在なるものとしての「愛」ではないかというふうにも感じられる。

だから、こんなふうに考えてみたい。偶然にしろ必然にしろ人間同士の関係が転がり広がり変容していくことが私たちの「世界」のおもしろさだとすれば、なんらかの意味ある「愛」がその固有の力で人と人とを繋ぐというよりは、むしろ、人と人とが繋がったり離れたりするために人類は「愛」を必要とした。そして、そんな私たちの「世界」は想像を超えている。なぜなら、空虚な「愛」のために生きる者の行動など誰にも予想できないのだから…

その意味で『ぶらんこ』という作品は今回のプログラムのなかでは異質かもしれないが、そのぶん岸田國士的な「愛」の本質を別の角度から照らしだしていると思う。

『ぶらんこ』の夫婦はすでに社会制度的に繋がっているので「愛」を必要としない。『ぶらんこ』の妻は「幸せよ」と口にするが「愛している」とは言わない。「幸せ」はすでに人々を戦いにまきこむような深遠なるゼロではなく、ただひたすら愛のために戦ったという記憶の一部であり、いわば「愛」の残滓のような一夜限りの「夢」なのである。