2016年12月29日木曜日

世界の見方を変える

ここしばらく、映画を見たり、演劇を見たり、本を読んだり、といったことに自分が何を求めているのかというのを漠然と考えていた。みんなは何を期待しているだろう?「そんなのない。おもしろいから見るのであって、結果、おもしろいかおもしろくないかだけだ」というのも立派な回答の一つだと思うが、でも、じゃあ自分でもなにか作ってみたいというふうに立場が変わると、途端に、そういうシンプルな目では見られなくなってしまう。さんざん考えて出した結論は、俺は、やっぱり世界の見方を変えてくれるものが最高じゃないかと思った。強く感情が揺さぶられるものも良い。知らない世界へ誘ってくれるものも良い。ただ、自分が知っていると思い込んでいた既知の世界の見方が変わるときほどスリリングな体験はないと思う。過去のエントリーでも時々触れたが、2016年に見たなかで特に影響を受けたものを選ぶなら『フォルケフィエンデ—人民の敵—』かな、と思った。この作品が描いた世界は特別に新しいわけではない。でも、130年前の世界批判が今日まったく同等の重みをもっているということをまざまざと見せつけられて、ちょっと狼狽えてしまうほどだった(ナチスの台頭以前なんだよなぁ)。「多数派が正しいとは限らない」という視点は、最近でいうポピュリズム批判であり、欧米では「ポスト真実」なんて言葉で語られるジャーナリズムの最新動向とシンクロしている。つまり、現在問題になっていることは目先の一時的な障碍ではなく、100年以上前から存在した政治的問題が汎世界的に広がり、潜伏し、連鎖的に表面化したという歴史的光景が明らかになったのである。だからといって、古典作品や社会派を礼讃したいわけではない。むしろ、社会派の芸術に対しては強い警戒心が働いてしまうタチなのだが、それは問題の大小ではなく「世界の見方」を変える体験のほうがより重要だと思うからだ。

2016年12月26日月曜日

セルフ・クリスマス

ふだん、ちょっと買いにくい買い物をやっちゃえ!ということを可能にするのが誕生日とクリスマスである(あえて言えば、今やそれ以外になんの意味もなかったりする)
でまぁ今回はこれ。
映画のBlu-rayに1万円超なんて、なかなか出せないっすよ。BOXSETといえども。
いやー、楽しみ。
『皆殺しの天使』以外の2本は未見。
『砂漠のシモン』なんて、超絶的に楽しみすぎる。
ブニュエル映画はちょっとまとめて見直して、四方田犬彦氏のブニュエル論も読みたい。
ダリとブニュエルがつくったシュルレアリスム映画『アンダルシアの犬』をはじめ、やっぱ、ブニュエルには強烈な影響を受けた。
いろいろ楽しむのは来年になりますが。

2016年12月24日土曜日

王蟲ケーキ

メリークリスマス!
みなさん、素敵な年末のひと時をお過ごしでしょうか?
昨日、故あって、劇作家のモスクワカヌさんからケーキをいただきました!
ありがとうございます!
めっちゃ嬉しいです!
ただ、カヌさんが焼いたと思うと、どうしてもただのケーキに見えないなという気がしまして、ジーッと見ていてハタと、そうだ!と、気づきました。
これです。
腐海の中、怒りと哀しみに震えて眠る王蟲…
なんか、さすがですね、モスクワカヌ。
ところで、カヌさんの今年の新作『だるまかれし』は傑作でした!
回顧記事でも触れられませんでしたが、これがまた超絶おもしろい作品でねぇ。
村田沙耶香が芥川賞獲るんなら、モスクワカヌも岸田戯曲賞はチョロいって感じですかね、みたいな。あ、すいません、賞のこととかぜんぜん知らないのに適当なことぶっこいてます。m(_ _)m
でも、期待しましょう!
(王蟲ケーキはとても美味しいレーズンケーキでした)

2016年12月20日火曜日

2016年の映画

『ディストラクション・ベイビーズ』(監督:真利子哲也 出演:柳楽優弥)
今年は『ディストラクション・ベイビーズ』の年だった。『シン・ゴジラ』も『この世界の片隅に』も素晴らしかったが、俺には『ディストラクション・ベイビーズ』が最高だった。まず役者が良い。役者の生の芝居で勝負しようという意気込みも良い。暴力描写が売りの映画だが、それは俳優の存在を通して語りかけるようなものだった。地方都市の映画という意味では社会批評的視点もなきにしもあらず。物語は、とある町(愛媛県松山市)から一歩も出られないという、いわば地方に幽閉された人々の肖像であり、ボートに揺られて町外れの港に辿り着いたが最後、山間の公道も、彼らの前では閉ざされる。物理的な障碍があるわけではない。目の前に一本道が続いているというのに、その先に進むことができないのだ。ある種の映画は人間の「脱出」を描いて劇的なカタルシスを与えてきた。またある種の映画は人間の「移動」を描いて精神的な成熟を促してきた。そんな摘み取ることができたかもしれない芸術の果実をあえて切り捨て、現代日本の地方都市という社会空間の特異性を炙り出しているのが『ディストラクション・ベイビーズ』である。もしかすると、俺が主張するこの皮膚感覚は大都市やその近郊で育った人にはわかりにくいかもしれない。地方都市に蔓延する息の詰まるような閉塞感は「地方」を舞台にしたからといって画面に刻まれるとは限らないからだ。たとえば、黒沢清の『岸辺の旅』(2015年)が描いた地方は東京の精神的延長としての「東京の岸辺」だったし、相米慎二の『魚影の群れ』(1983年)のようなドラマだと、その世界のなかだけで人は人としての尊厳や自立性を担保しているのであり、そこはむしろ生の充実を感じさせる豊饒な「地方」である。俺が思うに、現代地方都市のシリアスな問題とは国や大都市との相互依存というか、宗主国=植民地的な社会的隷属関係にあるのではないだろうか。たとえば、北野武の『ソナチネ』(1993年)などは沖縄を支配するため送り込まれた東京者のヤクザの話であり、極道の飽くなき貪欲さに嫌気が差してもいるその内面世界をメランコリックに描いていた。そんなフィクションのみならず現実問題においても、日本の地方自治は交付税によって国と例外なく結びついているし、あまたのインフラ整備は地方の財源だけで賄い切れるものではない。わが国のエネルギー政策が原発を誘致した地方の経済活動と結びついているため脱原発の足枷になっていることも周知の事実。沖縄の残酷な歴史はいうまでもない。その一方、メディアや交通網の発展により、人々が都市型の生活を基準にものを見るようになると、経済優先の美学や価値観が根付いてしまうことにもなる。戦後日本が経済成長期にあるあいだはそういうふうにお金を循環させる方法でも事足りたのかもしれないが、その成長が限界に達すると最初に機能不全を来すのは末端の「地方」である。かといって、人々の価値観はそう簡単に変わるものではないから、経済的な享楽の美学と生活への不安が矛盾したまま同居し、まるで麻薬依存症のように、徐々に地方都市を蝕んできたのだと思う。ただ『ディストラクション・ベイビーズ』の主人公はまだ若く、生まれた時からその環境に馴染み、世界の矛盾を矛盾として認識しない。薄っぺらな享楽はただの風景であり、腹が減ったらスーパーの商品を勝手に喰い漁る。ジャマな奴が立ち塞がれば殴って排除、殴ることが気持ち良ければ追いかけて行って殴り続け、飽きたら止める。その行動は狂気というより野生の本能に近い。みずから野生の獣のように生きることによって、社会の異分子であるこの青年は地方都市の脆弱さを狙い撃つのである。​

2016年12月11日日曜日

2016年の演劇

新年開始早々、シアター風姿花伝で見たthe PLAY/GROUNDの『背信』はピンター作品というチョイスそのものがやや背伸びしたのかな?という感じで、その二日後に見た、優演隊の『蠅取り紙』には素朴な等身大の味わいがあり、絵空箱のカフェの赤ワインも旨かったし、こっちのほうが、まぁ正月ぽかったな。夜の古民家を使った、鬼の居ぬ間にの『厳冬 子殺し篇』は建物自体がど迫力の舞台装置になっていた。『立ち止まるのは進行形』の劇想からまわりえっちゃんは、若さとフィジカルパワーで勝負!な劇団で、その荒々しさの隙間に彼らの抱く精神的な不安や切迫感を垣間見られたのが良かった。熊本の老舗、劇団きららは『ガムガムファイター』で、再び『ぼくの、おばさん』同様、精緻かつ優美な舞台を見せてくれた。まるで人間という生き物を観察するような演劇というか、祝祭的陶酔の真逆にあるしみったれた人間存在そのものを愛おしむかのような。やさしい味わいの『零れる果実』は戯曲家の存在を強く意識させる作風、その流れで、時間堂の『いちごの沈黙』も見ることに。鈴江俊郎の戯曲には物語空間のさまざまな秩序を再構成する意志が漲り、その仕事は1980年代日本の文化的爛熟の一断片を現在に伝えているのかもしれない。日本のラジオの『ゼロゼロゼロ』はちょっとした衝撃だった。ノワールな世界観は映画の専売特許だと思っていたので、場末の小劇場でン十年ぶりの旧友にばったり会ったような不意を突かれた気分。映画の言葉が演劇の言葉に見事に翻訳されているという驚きもあったし、いや、ほんと見て良かった。アガリスクエンターテイメントの『わが家の最終的解決』は「ナチスによるユダヤ人迫害」のパロディコメディで、こんなのが東京の小劇場で上演されるのだから、もう異形の傑作というべきかも。秋に上演された『七人の語らい/笑の太字』では芝居の語りのメタ構造を巧みに使って唸らされたし、『ハイベン』にはストレートに笑わせてもらった。DULL-COLORED POPの『演劇』は演じるという行為に内在するアイデンティティの揺らぎを突き刺し、俳優から熱量ある芝居を引きだすことに成功していたが、「演劇」というタイトルを冠するなら「演劇とはなんぞや」という次元まで探求してほしかった。「児童のいじめ事件」というシリアスな問題を作品の出汁にしておのれの演劇論をぶち上げるという作劇の構成は、率直に言って、愚劣だと思う。『劇作家女子会!R』の短編4本はいずれも冒険心に満ちた力作揃いだった。吉野翼企画の『詩稿・血を、噛む。』はアングラ演劇を今の時代にアップデートして楽しませてくれた。劇団昴の『THE GREEKS』3部作は思いの外エンターテイメントな仕上がりで、昴の新機軸を見せてもらったような気がする。今年よく感じたのは、古典芸術の再評価や表現の手法やスタイルの再定義こそがエンターテイメントの質を底上げするという印象だった。『東京ドーピング2020』や『トルツメの蜃気楼』を発表した〈火遊び〉の独自の「リアル」を追求する姿勢には期待しているが、その一方、女芝居というスタイルが自家中毒を起こしかけているような感触もあった(具体的にどこが悪いとか不満とかいう話ではない)。その意味では、出演者全員女性で男子校生活を演じるというミュージカル、趣向の『男子校にはいじめが少ない?』が女芝居的自家中毒に対する解毒剤のような存在として異彩を放っていた。時には「リアル」の手綱を緩め、再定義することも必要ではないだろうか?時間堂の『ゾーヤ・ペーリツのアパート』は芳醇ながらものどごしの良い旨いビールのような作品だったが、東京芸術劇場の大空間なら、音響的にもっとパンチを効かせるとさらに美味しく飲めたかも。MSPインディーズ・シェイクスピアキャラバンの『クレオパトラ—平成妄想編—』は、俳優たちが台本を持って通し稽古をやるという態での「セミリーディング」作品。とはいっても、実質的にはきちんと作り込んでいて通常の公演として十分通用するものだった。この『平成妄想編』の抜群のおもしろさは、彼らが台本の紙束をぶちまけることの背徳的な解放感に宿っていたりする(そして罰が当たったりもするw)。ただ、こうした演劇的な大らかさは真にかけがえのないものに感じられたし、かのシェイクスピア先生もきっと草葉の陰で笑いながら拍手をしているだろう。赤羽の十色庵で見た時間堂レパートリーシアターの作品中マイベストだったのは、ユーモアをたっぷり練り込んだ岸田國士の『驟雨』かな。キャスティングが完璧で、とてもチャーミングな家庭劇。チャーミングといえば、劇団だるめしあんが再演した『魔法処女えるざ(30)』を見ると、おもしろい翻案だなというのと同時にやっぱ『魔女宅』はすげぇよなとも思うが、そういう過去の金字塔を後続世代が換骨奪胎し、いかに新しいものをつくりだすかという見本のような作品だった。グワィニャオンの『みどりのおばさん現る』はマニアックなほど濃密な昭和的世界観を語っているのに、あくまでノスタルジーの語りとは一線を画していて感心した。そして年末。創造集団池小による旧ソ連の現代劇『ジャンナ』はその容赦なきダイアローグの発熱によって愛と欲望の関係をあぶりだし、雷ストレンジャーズがシアターΧで再演した『フォルケフィエンデ—人民の敵—』はイプセンの書いた130年前の演劇空間(舞台)とわれわれの生きる現代の社会空間(客席)とが、いまだにぴったり重なり合うことを証明していたと思う。

2016年12月4日日曜日

フォルケフィエンデー人民の敵ー

雷ストレンジャーズの『フォルケフィエンデー人民の敵ー』を見た。ヘンリック・イプセンの戯曲のやばいほどのアクチュアリティもさることながら、舞台を活性化するやり方も最高だった。出ハケはすべてシアターΧの客席通路を使い、台詞も喋ったりするから、このけっして狭くはない劇場全体を使い切り、時に走り、時に歩き、立ち止まり、時にはチャリにまたがって行き来することも。さらに彼らは物を運び、足下に躓いては転んで荷物をぶちまけ、狂騒的なドタバタに乗って熱い言葉を吐きだす。寺十吾演じるストックマン博士はまるで暴走特急のように怒りをエネルギーに変え、とどまるところを知らない。なぜなら、彼の敵は彼の家族以外の町全員なのだから。町長はこれでもかというくらいの悪漢丸出しだし、最初は正義面して応援するとのたまった新聞記者たちも手のひらを返したように博士を裏切る。その様子はさながらプロレスのタッグマッチを見るようでもあり、劇場全体に渦巻くような闘争心と疾走感とを呼び起こすのだ。俺は初めての『人民の敵』体験だったので細かな台詞はかっ飛ばすように見てしまったが、それでも、劇中やや唐突にも感じられるような「故郷よ!」という(たぶん船乗りの男の)叫びは、その異物感を含めて、すごくカッコ良かった!その言葉の響きが、われわれの生きるこのクソッタレな世界でいかに戦うかということを教えてくれるような気がしたからだと思う。

2016年11月27日日曜日

宣材のポストカード

『この世界の片隅に』を見た映画館でもらったポストカード。昨日、上映前に配られたので受け取った時はなんとも思わなかったが、家に帰って改めて手にとって、妙に嬉しかった。まぁでも、こういうソフトでファンタジックなイメージは、戦争(しかも原爆を含む)というキツいテーマをオブラートに包む役割を果たしていたので、映画鑑賞後のイメージとは微妙にズレているとは思うんだけどね。

2016年11月26日土曜日

この世界の片隅に

こうの史代 原作、片渕須直 監督(2016年)
『この世界の片隅に』は不思議な映画である。緻密に調べて準備したであろう広島地方の風俗や方言や家庭生活の描写は、土地に縁のある人はとても興味をもって見られるだろうし、そうでない人も、太平洋戦争末期の都市や田舎の雰囲気を楽しむことができる。ただ、そのぶんドラマチックな仕掛けは控えめなので、いくぶん冗長だと感じる人もいるだろう。戦争の破壊描写も抑制の効いた詩的表現を大胆に利用し、リアリズムとインプレッショニズムを手際良く使い分けている(この映画の芸術的価値はそのあたりにあるような気がする)。そして作品全体としては、歴史としての「戦争」の何を描くべきなのかということを考えに考え抜いていると感じられた。宮崎駿の『風立ちぬ』が戦争に加担せざるを得なかった主人公の葛藤に焦点を合わせていたとするならば、『この世界の片隅に』はその葛藤すらもてなかった大多数の庶民の「痛み」に焦点を合わせている。それがこの映画の、戦争の「何を描くべきか」という問いへの答えなのだろう。百田尚樹あたりが描きそうな、世界に立ち向かうナショナリズムの昂揚感やカタルシスの代わりに、この映画は、ご飯を炊いたり、料理を工夫したり、洗濯したり、裁縫したり、買い物に出かけたり、たまに絵を描いたり、夫婦喧嘩したりといった小さな小さなシーンを積み重ねていく。だから、映画館を出て、もうさっき見た映画のことなど忘れ、日常生活に戻って暮らしていて、ふとまた映画の一場面の記憶が甦るようなこともあるに違いない。おそらくは、そんな時にこそ、この作品の真の力が現われるのだと思う。小さな記憶の大きな力、をこの映画は信じているのだ。

2016年11月23日水曜日

文化戦争の時代

by Carios Latuff
これ、友人がtwitterでいいねしていた記事で、なんだよRTしてくれよと思いながら読んだら、めちゃくちゃおもしろかった。政治学やジャーナリズムとは少し切り口を変えた社会心理学者の視点で、注目すべきは、以下に引用した発言に集約されているような気がする。さらに、ジョナサン・ハイト氏は、こうした状況にソーシャルメディアが深く関わっているともいう。
俺が思ったのは、人類はみずから手にした文明の利器、自動車なら自動車を手放せないように、ソーシャルメディアの弊害が明らかになったとしてもそれを手放すことはできないだろう。であるならば、このハイテクを飼い馴らさなければしかたがない。そして、政治や経済より上位の「文化的イデオロギー」が巨大な暗雲のように垂れ込めているのは日本も同様、むしろ、先行しているのかもしれない。政治的には国家権威主義が支配し、経済的には破綻した核エネルギー政策を断ち切れないでいるのだから。こうした深刻な不条理が解消できない要因の一つは、そこにもあるのではないか?ということ。
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SI:今回の事態は文化戦争(culture war)の延長線上である、とあなたは説明しているように思えます。アメリカの政治のすべては文化戦争に組み込まれてしまい、政策というものも文化戦争のための小道具にしか過ぎなくなってしまった、とあなたは考えていますか?
JH:その通り、私はそう考えています。そこには実存的な問題が賭けられているのであり、今回の選挙はどちらの側にとってもまさに世界の終末的なもののように感じられたのです。アメリカは虚空に向かって突撃しているのであり、狂人とはいえトランプは唯一残された希望だ、と右派は考えています。左派は、トランプはファシズム的なクーデターを起こすか、中国と戦争するか、あるいは同盟諸国にアメリカを裏切らせてしまうだろうと考えています。
 ですから、終末論的な感情がアメリカに漂っているのです。神聖な価値観が賭けられているのです。右派と左派との二つの世界観の間で妥協が行われる可能性はまったくないのです。
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インタビュー記事の全文はこちらに。
トランプ現象と多文化主義

2016年11月20日日曜日

映画と演劇と音楽と

映画ってのは時間芸術で、演劇って空間芸術なんだよね、という区分はずっとずっと俺の頭のなかに染み付いていて、今でも基本そう考えているのだが、だから、映画は演劇よりもむしろ音楽に近い、というふうに感じたりもした。むろん、映画の一部は演劇の一部でもあるわけだが。そんなある日、フェイスブックのタイムラインに音楽の演奏に関する見知らぬ人のコメントが流れてきて、そこに「瞬間芸術」という記述を見つけた時には、ハッとさせられた。「瞬間」とは一般的には時間軸の任意の点の独立性を指し示すことが多いと思う。ゴダールが言うところの「1/24秒の真実」である(映画のフィルムは1秒間に24コマ進むので、その1コマ1コマが表現の根拠になるという寓意)。だが、それは3次元空間においても同様のことがいえるはずだ。演奏とは、どの鍵盤を、どの弦を、どのタイミングで弾くかということなのだから、つまり、時間と空間のパラメータの一致を生産することこそが瞬間芸術の仕事である。とはいうものの、それはあくまで演奏家の主体意識のありようであって、観客の意識にとってはつかみどころがないものでもあるだろう。そこで、オーケストラの指揮者が試みるかのように、映画監督は時間軸に沿って音と映像に一定の秩序を与え、舞台演出家は空間のxyz軸に沿って言葉と身体の秩序を組み立てることになる。であるならば、指揮者や監督や演出家にとっての「秩序とは何か」という問題もあるわけだが、それはまたの機会に…

2016年11月13日日曜日

思想的分断と侵蝕

by Carios Latuff
なんだかんだいっても、ドナルド・トランプ自身は大富豪のボンボンだし、いざ大統領になったら、共和党員ですら抵抗のある主義主張をどこまで実現できるか?は、未知数だと思う。途中で頓挫する可能性もあるかもしれないけれど、彼のまわりにとり憑いた連中はその権威・権力を簡単に手放そうとはしないだろうなぁ。にしても、トランプの当選によって、アメリカの思想的分断が諸外国の目にも明らかになった一方、わが国をかえりみれば、すでに政府の中枢は「日本会議」や「神道政治連盟」らの宗教的政治団体にほぼ乗っ取られている状態だよね。自民党は看板だけは昔からの自民党だけど中身は極右組織になっちゃってて、報道も与党に右倣え、で。だから、彼らの戦後以来の周到な政治戦略が成功したのは確かで、われわれ日本人は政治にナイーブなところがあるから、じつに理想的に、ふと気づいたら世界が違う景色になっていた、というのをやられてしまった…

2016年11月7日月曜日

告白の制度を反転する

『上海から来た女』(1947年)のポスター
朝っぱらからFacebookが教えてくれやがったが、1年前の今日はこれ見たのか。フィルムセンターのオーソン・ウェルズ特集、めちゃめちゃおもしろかったなー。オーソン・ウェルズってもともとはシェークスピア大好きな演劇人で、彼の語りや風貌も舞台芸術っぽいけど、ここは映画ならではだなぁと思うのは、やはり「謎の人物」としてスクリーンに君臨したからでしょうか。基本、ミステリー、謎を追っかけて物語が展開するし、その一方、演劇だと告白の物語が多い。すごく多いと思う。柄谷行人が昔「告白という制度」とかいうエッセイ書いてたような気がするし、それって文学的な伝統でもあるんだろう。演劇は現実の生の人間が目の前にいるからこそ「告白する」のに向いている。映画はどんなに克明に描写したとしても、いわば存在の影。実存的な演劇に対して、虚像の映画。ここらへんが本質的な違いかもね。

2016年11月3日木曜日

日本の政治の問題点

by Carios Latuff
立憲主義の破壊:内閣法制局を身内で固めて何でも「合憲」化、司法へ干渉して行政のゴリ押しも既成事実化
人権の軽視:沖縄や福島などの「地方」支配や「自己責任」論、性差別・民族差別の蔓延
所得格差の拡大:政財界の癒着も大きな要因
報道の自主規制や独立性の剥奪:NHK、民放、新聞社、大手メディアはほぼ全滅
など。

2016年11月1日火曜日

Choose Your Weapon

Hiatus Kaiyote, Sony Music Entertainment 2015
今日、昼休みにYou Tubeでハイエイタス・カイヨーテの演奏を試聴し、帰りにタワーレコードへ寄って最新作のこれを買った。デビューは2011年、若い!いや、ね、さっき一通りCDを聴いてみたら、ポリリズムの嵐、嵐、嵐で、もう最高!タワレコではR&Bの棚にあったけど、ネットではダンス・エレクトロニカとか書いてあるのを見かけた。でも、昨年来日して出演したのはブルーノートのジャズフェスティバル。CDの帯は「新世代フューチャーソウルユニット」なんて謳っていた。詳しい音楽の説明は難しいので、興味があったらググッてください。これ聴きながらね、俺、思わず笑ってしまった。おまえら、音楽好きすぎて、気ぃでも狂ったんちゃうか?って。いいよね、頭おかしいくらい音の世界にのめりこんで暴れまくるっていうの。

2016年10月26日水曜日

3.11後の叛乱

笠井潔・野間易通 著、集英社新書、760円+税
反レイシズム運動や反原発運動などで現代市民運動の一角を担う野間易通の体験に、作家の笠井潔が歴史的理論的な注釈を付け加えるといった趣きの論考。本書は二人の往復書簡ならぬ往復エッセイというかたちで書き進められた。笠井氏の考察はとても勉強になるが、読み応えがあるのは、やはり、野間氏の「レイシストをしばき隊」戦記だろう。在特会がヘイトスピーチを撒き散らすことができたのは法的に規制する手段がないため警察がデモ隊を「保護」する立場にあったからで、その在特会の行動を抑止するには後手に回らざるをえない。そこで、どういう戦略を練ったかなどなど…いやぁめっちゃおもしろい!

2016年10月19日水曜日

ベクターボール 2

雷句誠 著、講談社、429円+税
ほんと、おもしろい!でも、俺にはそのおもしろさが説明できない!なので、カバーのイラストをじっくり見てみて!素敵でしょ?!ほんのりファンタジックでロマンチックで古風な温か味もあって、と、『ベクターボール』の作品世界の雰囲気をとてもよく表現していると思います。この第2巻まで読むと、物語の基本設定がだいたいわかるので、今が読み始めるのに良いタイミングかも。『金色のガッシュ!』を正常進化させたというべき、死ぬほど熱く、死ぬほどフザけ、常にその両極をビリビリ帯電させるハイパーエモーショナルな高密度少年漫画!

2016年10月14日金曜日

辺獄のシュヴェスタ 4

竹良実 著、小学館、552円+税
前にも一度記事にした『辺獄のシュヴェスタ』は最新第4巻も絶好調。絵柄はそんなに好きというほどじゃないんですけどね。ストレートな物語が良い。追いつめられた人間がその逆境を撥ね返すパワーって惹かれるし、俺もエラのような闘争心、欲しいっす。てか、自分の意気地のなさを反省しきり。「私たちは知っていく。希望はどんなに遠くを見渡しても見つからないこと。なぜなら、それはいつも、手の中から生まれるのだからということを」

2016年10月12日水曜日

殺人出産

村田沙耶香 著、講談社文庫、520円+税
いや、これは凄かった。タイトルとカバー挿絵と本の薄さ(=安さ&読み易さ)で衝動買いしたけれど、期待以上のおもしろさ。一種の近未来SFだよなぁと思いつつ読み始めて辿り着いたのはバタイユ、みたいな小説でした。正味110ページほどの中編ながら、味わいは濃厚。これ、映像化するより演劇として見てみたい。「世界の変化は止められないわ。いくら叫んでみたところで、『更生』されるのはあなたのほうよ。あなたが信じる世界を信じたいなら、あなたが信じない世界を信じている人間を許すしかないわ」誰か、舞台化してください。見に行きます。

2016年10月8日土曜日

ドロヘドロ 21

林田球 著、小学館、925円+税
『ドロヘドロ』の物語もさすがに終盤にさしかかってきたようだが、スローテンポな語り口は変わらないので、あと2〜3巻は続くかな?(二階堂のキャラを掘り下げるかどうかが不確定要因?)ただ、世の中はいまだ『エヴァンゲリオン』以降のセカイ系センチメンタリズムが席巻しているので、『ドロヘドロ』はその解毒剤として貴重だし、簡単には終わって欲しくないような気もする。この作品の描きだす《人間》《魔法使い》《悪魔》の3種族間の政治闘争に、林田球がいかなる均衡をもたらすのか?ほんとうに楽しみ。

2016年10月3日月曜日

佐野元春によるSEALDs論

ローリングストーン日本版 2016年10月号所収
以下は、ローリングストーン誌の記事「SEALDsはなぜここまで嫌われたのか」(執筆:ジョー横溝)で紹介された佐野元春の見事な、詩文的コメント。「SEALDsは嫌われたんじゃない、怖がられたんだ。いつの時代でも、自由な存在を怖がる連中がいる」という言葉が問題の核心を突いている。

————

「SEALDsはなぜここまで嫌われたのか」

てっとりばやく思う

連中は、疎ましかったんだろう
SEALDsの遠慮のない若い賢さが
SEALDsの希求する刹那が
SEALDsの気ままな無頼が

連中は、目障りだったんだろう
SEALDsの不規則な若い正しさが
SEALDsの粗放な思想が
SEALDsの身軽な自立が

連中は、イラついたんだろう
SEALDsの野蛮な若い誇りに
SEALDsがかばう正義に
SEALDsが描く愛国への憧憬に

SEALDsは嫌われたんじゃない、怖がられたんだ
いつの時代でも、自由な存在を怖がる連中がいる

佐野元春

2016年10月1日土曜日

シン・ゴジラ

第一に、ゴジラが抜群に素晴らしかった。意表を突く変態のプロセスといい、咆哮する獣を象ったグロテスク造形といい、メルトダウンした原発を思わせる禍々しい輝きといい、特撮美術のひとつの達成を見せてくれた。都市の破壊描写も、『巨神兵東京に現わる』からまた一歩進化したのではないか。第二に、偏執的なまでの「国策映画」と化すことで現代日本のリアリズムを担保したアイデアの勝利。アメリカとの隷属関係を暴露しているようにも見えたりして楽しい。ただ、この辺りのおもしろさは日本国外では冗長な表現に受け取られてしまうかもしれない。第三に、膨大なキャストを捌きつつ細かなキャラクターまで味付けされた物語世界。人間ドラマに深みがないという批判を聞いたことがあるが、そんなもの要らないくらい細部に密度があった。初見では消化しきれないし、見直したくなる。…良かったと思うのはまぁこんなところかな…ちょっと不満だったのが、サウンドトラックの完成度。エヴァンゲリオン風のビートの効いた音楽はテンションを上げてくれるし、悪くはないものの、全体的にはもっと洗練させることができたのではないか。特に、これはもしかしたらプロダクションではなく劇場固有の問題かもしれないが、台詞のサ行が耳障りなノイズになってしまっていたのは残念。

政治的去勢に抗う

by Carlos Latuff
「政治的に中立である」って何だ?そんなの、ただの思考停止にすぎない。日本の保守派が教育に政治的中立性を求めるのは、現在の彼らの優位を守るためであり、まさにそういう政治的去勢を期待しているはずである。だが、かといって、左派か?右派か?どっちかのイデオロギーを選ぶのが正しいという話にもならないと思う。まぁ多少勉強すればたいてい自然にシンパシーは生まれるし、その感情を押し殺して「俺中立」なんて物言いで気取ってみせる奴もいるだろう。でも、それでも、既成の枠組みを疑って考えることは絶対に大事だと思う。言い換えれば、それは中立に似ていなくもない「政治を普遍的な視点から考える」ことではないか?もう少し具体的に言えば、「主権」や「人権」などの近代的価値に照らし合わせて日々の問題を考え続けることである。政治的リベラルってそういうことじゃないだろうか?

2016年9月27日火曜日

となりのイスラム

内藤正典 著、ミシマ社、1,600円+税
イスラムへの偏見をなくそうという強い意志を感じる好著。中高生でも読めるよう書かれた平易な語り口が著者の現実的な危機意識に重なるように響いてくる。そういえばこの夏も、仏ニースの海岸で、イスラム女性がブルキニと呼ばれる水着を強制的に脱がされたという事件が話題になったが、こうしたイスラムへの「敵意」は、2001年9・11のテロをきっかけに急速に強まったという。以後、アメリカの仕掛けたイラク戦争をはじめ、長期化する中東の内戦や難民の爆発的増大、世界規模でのテロリズムの危機など「イスラム」の問題を避けて通ることはできない。事態がここまで悪化したその根底にはイスラムへの無知があるというのが著者の見解である。イスラム文化はたしかに欧米とは異なる価値観をもつが共存できないものではまったくない、むしろ、というふうに語られるイスラムの本質論や実際のイスラム教徒たちの肖像は、われわれ日本人の固定観念を払拭して余りあるし、なにより人間味にあふれ、感動的ですらあると思う。

2016年9月22日木曜日

トーマス・ルフ展

ma.r.s.
多彩なテーマを扱っている写真展でしたが、いずれもタイポロジーの考え方をベースに、写真ならではの映像のスケールコントロールを駆使した作品群。脳と視覚を揺さぶり、人間の世界認識を問うているのだと思います。《ma.r.s.》のような大型写真で官能的なスペクタクルを見せたり、《press++》の展示のように小さな報道写真を様々な用途に使用した痕跡ごと拡大して、写真の社会的影響力を考察してみたり。
press++
個人的に好きだったのは《nudes》かな。インターネット上に流布するポルノグラフィを拡大すると同時に曖昧な一般的イメージに肉薄するくらいボカしてしまうことで、視覚的欲望そのものの輪郭を浮かび上がらせようというか。
nudes
にしても、この女性のヌード写真の実物を見ると、色調がほんとうに絶妙なバランス感覚で仕上げられていて素晴らしかった。もし俺が、今回の展示からなにか一点買うとするなら、これを選びます。
nudes
nudes》の他の作品は、こんな感じ。俺のスマホがエロスにビビり、手振れを引き起こしているわけではないのです。
Tomas Ruff / SERIES
ところで、帰りに図録を買おうかどうしよう迷ったあげく、別の本を買ってしまった。図録の出来も悪くなかったんですが、こちらの写真集の印刷が紙質含めて素晴らしく、光沢の強い美しい仕上がり。これを見れば、これはこれで作品鑑賞したことになるよな〜と思ったので。
*「トーマス・ルフ展」は京橋の東京国立近代美術館にて、2016年11月13日まで。

牯嶺街少年殺人事件

エドワード・ヤン(楊德昌)の『牯嶺街少年殺人事件』が今年の第29回東京国際映画祭でのプレミア上映を経て、およそ25年ぶりに劇場公開されるという。最近、米国のクライテリオン社からBlu-rayがリリースされたので、日本での再公開もそう遠くはないだろうと思っていた。ぼくは1991年の第4回東京国際映画祭で3時間版を見て、4時間版のビデオも1回見たかなぁ。当時は、映画雑誌の編集に関わっていたので、身内の評価は抜群だったが、興行成績はパッとしなかった。エドワード・ヤン生誕70年、没後10年の来年、2017年こそは、A Brighter Summer Day 元年となってもらいたい。

2016年9月19日月曜日

ベアゲルター

沙村広明 著、講談社シリウスKC、600円+税
やばい。これ、好きすぎる。今いちばん好きな漫画は、この『ベアゲルター』かも。「情慾(エロス)と暴力(バイオレンス)の完璧な融合…これが〝叛逆ずべ公アクション〟だ!!」なんてキャッチコピーが付いている。とにかく絵が良い。エロチックな肉感や陰影の効果、微細な表情のドラマ。コマ割りも良い。アクションの切れ味、スピード感、ダイナミズムに痺れる。世界観も登場人物もストーリーもまったく文句なし(B級ノワールの物語世界はもはや古典である)。沙村広明の『無限の住人』は以前少し齧ったものの、なんとなく乗り切れなかったんだよなぁ。『ベアゲルター』にはもうぞっこん。だが、悩ましいことに、現在、第2巻まで出ている1巻と2巻の間が、2年以上空いているのだ!うむむ。( ̄◇ ̄;

2016年9月18日日曜日

戦後入門

加藤典洋 著、ちくま新書、1,400円+税
戦後史の問題を鳥瞰できる本が読みたくて手に取ったのだが、期待以上の好著。「原爆投下」という事件が「戦後日本」の政治的空間を準備したという加藤の見解は、今までほとんど意識してなかったので目から鱗だった。仮に、原爆が落とされなくても日本の敗戦は動かなかったわけだし、原爆には「戦乱期の悲劇」という以上のイメージをもっていなかった。しかし、そんな戦争の結果とは直接関係のない剰余の破片にこそ戦争の本質がより純化したかたちで現われるのかもしれない。加藤は、第二次世界大戦の「連合国」と「枢軸国」の対立に、たとえば「自由主義」vs「全体主義」というイデオロギー対立を見てとることへの疑義を呈する。そういった図式は事後的に考え出されたものではないのか?善なる自由主義と悪なる全体主義の戦いならば、国益の調停手段としての戦争ではなく、一方的に悪を成敗する戦争として語ることができるからだ。お前らが悪い!原爆を落とされたからって文句を言うな!無条件降伏せよ!というわけである。また、こうした戦争論を洗い直して現代政治への提言を行うのが本書の真の狙いであり、戦後日本の政治思想分析などもきわめてアクチュアルでおもしろい。予備知識なしで読み進められるのも最高だ。

2016年9月9日金曜日

ジーンズの替え時。2

先日の続報。前回のエントリーに写真を載せた2本は処分。他に、もう1本、お尻が破れている以外わりとキレイなものがあったので、東武練馬のイオンのリフォームショップに持ち込んだところ、4,000円の費用がかかるとか。ユニクロのジーンズって3,900円だし、まぁ断念。後日、池袋にある別のお店にダメもとで聞いてみたところ、そこは1,600円だというので、リフォームしてもらいました。上の写真が仕上がりですが、ジーンズだったら味のある掠れにしか見えないし、満足です。
内側から見るとこんな感じ。デニムの生地を当てて補修した模様。いいんじゃないでしょうかね。ただ、お尻全体が磨り減っているので、延命措置程度にしかならないかもしれませんが。

2016年9月5日月曜日

ジル・ドゥルーズの「アベセデール」

國分功一郎 監修、KADOKAWA、8,700円+税
すでに1年前に発売されていたが、なにせこの値段、カードのポイントを貯めてようやく買いました(笑)。これはドゥルーズがABC順のキーワードについて語りおろした哲学談話の映像をDVD3枚に収めたもので、彼は、自分の死後なら公開してもいいという条件で撮影を引き受けたらしい。ドゥルーズという哲学者はポートレートすらあまり流通させない人で、だから、俺は彼の講義が聴きたいというよりも、むしろ、生きて、喋って、動いている映像そのものが見たかった。なので、まだAの「動物(animal)」しか見ていないけど、けっこう満足。とはいっても、語りもおもしろいね。物書きと動物は似ているんじゃないですか、みたいな話を振られると、自宅の飼い猫が死んだ時のエピソードを交え、動物のために、動物に向けて書いているといえるが、動物の代わりに書いているともいえる。死にゆく動物に代わって書くのだ、なんて、現実のような空想のような、自由な語り口がたまりません。

2016年9月3日土曜日

ジーンズの替え時。

これ俺がいつも履いてるユニクロのジーンズなんですが、だいぶ良い感じにダメージドになってきました。あ、もちろん、自然劣化です。ただ、俺、チャリ移動が多いのでお尻もだいぶやられるんですね。時々サドルの頭がケツにひっかかったりして、さらに破れが広がったり。で、結果、もう残りの寿命は短いのです。うむむ。にしても、最近伸縮する生地のジーンズも増えていますが、あれはいけませんね。気持ち悪い。ユニクロも普通の生地のやつで黒色のバリエーションがなくなったりしていて、どうしよう?と思っています。チャリ生活は消耗も激しいので、高いの買えないし。うむむ。

2016年8月30日火曜日

辺獄のシュヴェスタ

竹良実 著、小学館、552円+税
最近読んだマンガのなかで当たりだったのがこれ。16世紀ヨーロッパ、魔女狩りの生贄となった母親の復讐を果たすべく、仇のいる修道院にみずから潜り込み、数多の苦難を潜り抜けて闘うという少女のお話。熱く燃えたぎる憎悪を闘争エネルギーに変えるさまがワクワクさせる。第3巻まで刊行。

2016年7月27日水曜日

相模原の殺傷事件

by Carios Latuff
相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が刺殺され、26人が重軽傷を負った事件。犯人の経歴や動機が明らかになるにつれ、今までにないタイプの凶悪犯罪として注目を浴びている。現在、知られている情報からみると、これは「ヘイトクライム」と呼ぶべきもので、思想的犯罪だという痕跡もある。ヘイトクライムという言葉自体はアメリカの人種差別問題に使われている用語だが、優生思想や反ユダヤ主義を背景にナチスが行ったホロコーストにまで遡って考えることもできる。衝動的な犯罪ではなく、局所的問題にとどまらないところが恐ろしい。つまり、単独犯による死者19人の虐殺事件が集団化組織化されたものに成長し、19万人の被害者を生みだす可能性だってあるということだ。近年、問題となっている在日韓国人へのヘイトスピーチなどがその導火線にならない保証はどこにもないと思う。

2016年7月18日月曜日

フォアローゼズ プラチナ


普段、ウチで飲むのは、ビール、芋焼酎、日本酒、赤ワイン、紹興酒などで、基本食中酒。酒を飲むときは食べないという人がいるけど、俺は逆ですな。ただ、たまぁにウイスキーを飲むときは食べない。ウイスキーの、特にバーボン。バーボンのパンチが効いた味わいは他の酒では代わりにならなくて、純粋に「酒が飲みたい」ときの第一候補である。ただ、酒と食事が切り離せないから晩酌で飲んでしまい、純粋に飲みたいなんてシチュエーションは意外に少ないので、ボトルを買うと一年くらい保つ。そこで、どうせ稀にしか飲まないなら、良いバーボンってどんなもんだろう?と探してみたのがこれ。フォアローゼズは華やかな香りが売りの銘柄で、そのハイグレード版らしく、雑味のない喉越しの良さがある。バーボンならではのパンチも失っていない。旨い。

2016年7月9日土曜日

デモとしての投票

by Carlos Latuff
結局、選挙の投票に行く理由って「政治家へ圧力」をかけるためだと思うんだよね!良い政治家を選ぶとか、優れた施政者を讃える場では絶対ない。デモと同じか、デモ以上にデモ。仮に投票した候補者が当選しなくても、投票率は政治家の意識に大きな影響を与える。たとえば、自民党が国民を舐めた政治してるのもそう。有権者の半数しか投票しないから、権力掌握者は数の読める組織票やら既成の支持者層の票だけで権勢を保持できるだろう、無投票層のことなんか気にしなくていい、と考えるわけだけど、これが70%、80%になれば、情勢はより流動的になる。見えない圧力がかかる。ちなみに、前回2014年の衆議院選挙は戦後最低の52.66%!これじゃあ、つまんない!政治家、ビビらそうぜ!

2016年7月2日土曜日

欺瞞と暴力

by Carios Latuff
日本の防衛装備庁が(パレスチナ市民を殺しまくる)イスラエルと共同で武器開発を目論んでいるという。――「自国の防衛」の名のもと「死の商人」となり、私腹を肥やそうっていうわけだ。――それはつまり、われわれ日本人の生活が反吐の出るような自己欺瞞と他者への暴力の上に成り立っているということだ。クソッ。

2016年6月30日木曜日

表現と力

反戦ポスター「戦争−少数には善−大多数には悪」Carlos Latuff
日本が第二次世界大戦に突っ込んでいくときの芸術家たちの姿勢や行動を幅広くまとめた研究ってないのかな?(新書であればなお嬉しい)政府や軍部の言いなりになった人や、骨の髄からナショナリストに化けた人、むろん、必死に抗ったレジスタンスの記録も。反戦の士だから偉いとか、権力の犬だから糞とかっていうのを確認したいわけではなく、「政治」と「芸術」を対立させるのでもなく、近現代における「表現」の意味を考えてみたい。政治ってのも近代以降は、どんどん表現の問題に近づいていると思うんだよね。ネトウヨのデマだって表現だし。表現と力の問題。

2016年6月11日土曜日

ディストラクション・ベイビーズ

監督:真利子哲也 主演:柳楽優弥(2016年)
湧き上がる感情は不安や不快、ストーリーは陰惨、全編生々しい暴力描写ばかり、とても他人に薦められたものではない。が、俺にとってはこれ以上ない最高の映画だった。こんな充足感は深作欣二の『バトル・ロワイアル』(2000年)以来かもしれない。あ、いや、塚本晋也の『野火』(2014年)も良かったけど、『ディストラクション・ベイビーズ』の荒削りな挑戦には個人的共感もプラスして賛辞を贈りたい。主演の柳楽優弥は圧倒的だった。というか、初めて素晴らしい俳優なんだと知った(ゴメン!)。撮影も良かった。あのアンダー気味で、いくぶんクスんだ色がベタッと乗るような画調が大好きだ。そのカメラが捉えた、松山の入り組んだ海岸線のなんと見事なこと!映画のテーマと共振したこの風景だけでもチケット代の価値がある。とはいっても、最初から最後までほぼ殴る蹴るしかやってないこの映画の音楽は序盤以外に存在しないのだから(エンディングにはあるが)、そのぶん、暴力的世界を構築する音響表現に、もう一つ二つの工夫があって良かったかもしれない。物語や演出としては、最初の10分20分で方法論や方向性はよくわかり、だからその後は、この世界をどう完結させるかというところに関心が移った。たとえば、新井英樹の『真説ワールド・イズ・マイン』(2006年)なんかが頭をかすめたが、あの漫画のような展開はないだろうとも予想したので、さて、どうする?と興味津々に見た。まぁその「火消し処理」だけをとれば、やや消化不良の感も残ったが、そんなことは些末な細部にすぎんといわんばかりに魅力的な冒険を見せてくれたと思う。ただ、それでもお薦めはしない。でも、これが映画なんだよ!

2016年5月23日月曜日

おやすみプンプン

浅野いにお 著、小学館 刊、全13巻
『おやすみプンプン』ざっと読了。たとえば「父の不在」みたいなテーマは昔からあったが、この漫画は「父」だけでなく「母」までもが崩壊や喪失の危機にあるという物語だと思う。そして「子」は庇護者であるはずの母の愛を得ることなく、みずからの生のよるべなさに絶望する、という…ほんとにキツい話だった。

作品の醸しだすリアリズムという意味でも、現代の世相を強く反映していた。ただ、彼が世界観を立ち上げるアプローチ、家族関係の捻じれによって物語にリアリティや心理的な深さを与え、読者への感情的な訴求力を高めるやり方はとりたてて新しいものではないし、個人的には、あまり好きではない。

感情に対してあまりに無防備すぎるというか、「家族」という閉じた空間のなかで感情ばかりが肥大化し、その感情が生起した因果関係や構造的な細部が見え難くなってしまうからだ。いわば、感情表現そのものが感情の本質や真実を覆い隠してしまうのである。それはこの『おやすみプンプン』も例外ではないだろう。

だがしかし、この漫画には、そうした感情の肥大化が人間をモンスターに変えてしまうという新しい視点があり、だからこそ、とてもおもしろく読むことができた。いやむしろ、そのことへの危機感がこの作品のテーマだと言うべきかもしれない。漫画作品として優れた画力を見せながら、主人公とその家族のみを粗雑なイラストのように描き続けたことの試みは、読者の感情移入を一部制限し、人間の悪魔性を客観視させるのに抜群の効果をもたらしたと思う。

あと蛇足だが、プンプンに絡んだ漫画家の女の話はあんまり上手く機能してなかった気がする。特に終盤「事件」が起こってから、三つのストーリーラインを同時進行させるのは、物語を単にガチャガチャさせてしまうだけのように感じた。

さらに蛇足の蛇足を言うと、鹿児島への逃避行は、ちょっと成瀬巳喜男の『浮き雲』を思わせるようでもあり、とても良かったので、もっとストーリーを整理し、旅をダラダラ長引かせ、愛と生と死のドロドロを読んでみたいと思った。

2016年5月2日月曜日

階級構成とは何か

廣瀬純編著『資本の専制、奴隷の反逆』(航思社)の刊行を記念して行われた対談で、廣瀬氏は次のように語る。「反原発運動、反安保運動の真の敵は安倍でも経団連でもなく、連合[日本労働組合総連合会]であり、連合のような組織によってその利益が代表されている人々だったと言えるはずです。今日、[1%対99%というスローガンが叫ばれるが、その]99%のうちには、自分の労働力を資本と等価交換できている「労働者」と、あからさまな不等価交換を強いられている「奴隷」とがいる。原発再稼働や武器輸出自由化、新安保体制はいずれも労働者を利する措置にほかならず、逆に、これに反対するとは、労働者に対して階級闘争を挑むということです。反原発にも反安保にも、労働者に対する奴隷の反逆という側面があった。[中略]いずれにせよ、反原発も反安保も99%がみずからを二つに割る運動だった、階級分裂を通じて新たな階級が構成される運動だったということです。」つまり、反原発や反安保といった政治運動が現代日本のどのような経済基盤のもとにあるかを考えるなら資本主義はいまだに強固な壁であり続け、世界的にも、資本主義的帝国主義的暴力の問題は何一つ解決していない、という…

2016年4月23日土曜日

零れる果実

東京・参宮橋トランスミッションで、やさしい味わいの『零れた果実』を見た。もうめちゃめちゃおもしろかったが、どうおもしろいのか伝えるのがこれまためちゃめちゃ難しい。
 劇中、アンディ本山演じる中年男が、部屋にある果物ナイフを手に取り「このナイフってリンゴを剥くために使っているつもりだったが、思い返すと、リンゴでナイフを研いでいるようだった。ナイフは切るためではなく研ぐためにあるんだ…」という、ちょっと奇妙なセリフを語る。で、芝居を見終わってみると、このセリフが作品構造を端的に言い表しているような気もするのである。
 『零れた果実』の物語は、エイコという女性が失踪した後の部屋に集う、互いに見知らぬ者たちのやりとりが大半を占める。ところが、彼らの言動がイマイチ解りにくい。なぜなら、彼らのセリフの多くが舞台上の物語に沿って事態を説明するというより、自分の感覚や感情や考えを直接吐露しているので、それを説明不足のまま受け取る観客は途方に暮れてしまうというわけだ。
 言い換えるなら、この作品の登場人物たちは、本来背景にあるはずの個々人の記憶を生のまま持ち込み、傍若無人に語り始めるのである。その意味で、この空間は舞台の前景と後景、内部と外部、表と裏の関係が揺らいだり反転したりする世界である。劇中、肉体的な「嘔吐」の行為が強調されるのも、だからこそだろう(内部が外部に露呈する…)
 ただ、こうした一見とっつきにくい前衛的な語りが、この密室的舞台を思いのほか広く風通しの良いダイナミックな演劇空間に変貌させるのは驚きだ。鑑賞の際に注目してみてほしいけれど、この作品では、舞台上に登場人物が多ければ多いほど、アナーキーなカオスの到来を予感させてドキドキできるのではないだろうか?
 舞台美術や照明、音響効果などもこのコンセプトを汲み取り、実に刺激的な舞台になっているので、興味をもたれた方には、ぜひお薦めしたい。今日の土曜は2回、日曜の1回、まだまだお席はあるそう。今がチャンス!

公演情報はこちら!

2016年4月7日木曜日

フランシス・ベーコン 感覚の論理学

ジル・ドゥルーズ著、河出書房新社、3,000円+税
すでに出版されていた『感覚の論理』は大判の豪華本で、値段が1万円近くしたこともあり、なかなか買えないまま十数年が経ってしまった。でも、その憧れの本がコンパクトな四六判に衣替え、しかも、新訳で再登場!本屋で見つけた時は狂喜して購入した(3年前に開催されたフランシス・ベーコン展の時、よほど旧版を買おうと思ったけれど…)まだ読み始めたばかりだが、期待を裏切らない素晴らしいベーコン論だと思う。というか、美術を媒介に現代哲学の最前線をも活性化させる刺激的論考!たとえば、こんなテキストの断片に唸らされる…
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 肖像画家としてのベーコンは、頭部の画家であって、顔の画家ではない。頭と顔には大きな違いがある。顔は頭部を覆う構造化された空間的組織であるが、頭部は、たとえ身体の尖端であるにしても、身体の付属物なのだ。[それは]精神を欠いているのではなく、頭部は身体にほかならない精神であり、身体的で生命的な息吹、動物精気、それも人間に属する動物精気である。豚精気、水牛精気、犬精気、こうもり精気など…したがってベーコンが肖像画家として追求するのは実に特別な構想なのだ。顔を解体すること、顔の背後に頭部を発見し、あるいは出現させることである。
 身体はもろもろの歪形を経験するが、歪形とはまた頭部の〈動物的特徴〉のことでもある。[ただ]けっして動物の形態と顔の形態の間の一致が問題なのではない。まさに顔は、画面の洗浄やブラッシングの操作を受けて形態を失い、このような操作によって非組織化され、かわりに頭部を出現させる。動物性の刻印や特徴もやはり動物的形態ではなく、むしろ洗浄された部分につきまとう精気であり、頭部を引き出し、顔なき頭部を個体化し規定するのだ。
*[ ]内は引用者が補いました。
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ざっくり言って、顔→頭→身体→動物→生命→精気と、語の意味、語の概念をコロコロ転がしながら、心身の二元論を超克する一元論を展開している、というところだろうか。いやぁほんと上手い。批評の天才!

2016年4月2日土曜日

山川世界現代史

木谷勤 著、山川出版社、1,500円+税
まるで血と硝煙の匂いが充満しているような本だった。むろん、小説やエッセイまがいの文体で書かれているわけではない。19世紀末からの帝国主義時代以降、現代に至るまでの世界の政治経済的動向が逐一歴史的に分析されているのだが、その明晰さが、この世界戦争の時代をリアルに浮かび上がらせているのだと思う。しばらくは俺の座右の書になるかもしれない。

2016年3月16日水曜日

ストーリー漫画の描線

海街Diary7所収「同じ月を見ている」より
〈絵画〉と〈漫画〉の違いは、〈写真〉と〈映画〉の違いに似ている。前者が一枚の画面で語るのに対し、後者は複数の画面の組み合わせで語りかける。しかし、重要なのは、メディアが単数か複数かということではなく、その話法が何を表現するのか、ということだろう。漫画も映画も膨大な数の画面を駆使してストーリーを構成するのだから、物語性こそがその本質なのだろうか?でも、物語というのは本来、言葉で語られたものであるし、だとするなら、漫画や映画は言葉の世界を視覚的に再現しているにすぎないのだろうか?ただ、そう考えるのは単純すぎる、と俺は思う。むしろ、ひとつの物語を完成させるかどうかとは別の、複数の画面による開かれた連携を明らかにすることこそが、〈漫画〉や〈映画〉の芸術的探求なのではないか。画面と画面の閾、画面と画面の諸差異が何を生みだすのか?たとえば、吉田秋生の「同じ月を見ている」(海街Diary7『あの日の青空』所収)を読んでいると、上記に抜粋した2コマの画面構成などにハッとさせられるのだが、こうした漫画の物語に混入した異物のようなフレーミング、このシンプルで的確な描線こそが読者の視覚的無意識の領域に鋭く切り込んでいるのだと思う。

2016年3月12日土曜日

ゼロ消去の後に

今朝、ジョギングに出かけ、近所の公園までの道のりを歩いていると、なにやら映画のこととか映像のこととかのいろんなイメージが脳みそに流れ込んでくるような気がして、あぁ!やっといつもの脳内環境に回復した!と感じた。

その感覚が妙に嬉しかった。

ところで、少し話はズレるが「ゼロ消去」というのをご存知だろうか?

不要になったパソコンを破棄するとき、その中の情報を悪用されないようデータを消去しなければならないが、普段やっている「消去」の操作は完全な方法ではない。それは、データ本体を呼び出すインデックスを無効にするだけで、新しい情報によって上書きされないデータはまだそこに眠っているのである。だから、そのデータを保存する領域全体に「0」を書き込めば、理論的には完全に消去したことになる、というわけだ(ご存知のように、コンピュータ言語は「0」と「1」の組み合わせでできているので)

つまり、われわれの脳の思考もコンピュータに似たシステムであるとするならば、なんらかの記号の組み合わせによって作動しているはずだろう…

そこで、ふと、ある思いに至った。

「確定申告を出すまでのある期間、俺の脳内は〈確定申告〉という4個の漢字記号でいっぱいだったのだ!」

そして、書類の提出と同時に「ゼロ消去」が始まり、数日後、まっさらになった脳のある部分に、新たな〈映画〉とか〈映像〉とかに関連する様々な記号の書き込みが始まったのだと思う。

(ちなみに今年の申告は3月7日の朝に出しました)

この週明け提出のために準備しているみなさん、健闘をお祈りいたします。頑張ってください!