2016年1月18日月曜日

歴史否認主義の心理的起源

『風立ちぬ』
昨日、些細な出来事があって、ずっと「なぜ保守なのか?なぜリベラルなのか?」というようなことを漠然と考えているのだが、一般的に、リベラル(自由主義)はコンサバ(保守主義)に比べれば改革派というふうに位置付けられているけれど、本質的な違いは、政策的な保守vs改革の対立にあるのではない。実際、いま現在の日本では保守派こそが強引な改革を狙っているのだし、政策論議は結局、時事的相対的なものにすぎない。だから、むしろ参照すべき視点になるのは、リベラルな思想が歴史的な「戦争への反省」から生まれているという事実のほうだろう。たとえば、俺は「戦争」のイメージに一種魅惑的なところがあるのは否定しないし「零戦はカッコイイ」なんて感覚もよくわかる。ミリタリーデザインなんか、普通に好きかもしれない。でも、それと現実の政治的見識とは別物だし、だからこそ「戦争」を描く作家たちはその「危険」と「魅惑」の引き裂きがたい矛盾を引き受けなければならない。宮崎駿の『風立ちぬ』というアニメを評価すべきなのもまさにそこだった。現実社会の問題でも、中国や韓国との政治的軋轢が「戦争の記憶」をめぐるものであるということ自体がその矛盾の一端を垣間見せている。第二次世界大戦の「危険」を忘れ「魅惑」に飲み込まれること、つまり、過去を美化して一時の刹那に溺れ、良い気持ちになりたいという日本人にとって、中国や韓国の異議申立ては邪魔なノイズにしかならない。彼らにとっては「歴史の事実」が自分たちの理想の前に立ち塞がる「敵」になり、そうするともう、その歴史が正しいのか?間違いなのか?が問題ではなくなってしまうのだ。いわゆる「歴史修正主義」というか最近はより的確に「歴史否認主義」と呼ばれる政治的主張の心理的起源はそのあたりにあるのだと思う。