2016年1月25日月曜日

悲情城市

ホウ・シャオシェンの『悲情城市』を初公開時に見て以来、25年ぶりくらいに再見した。実際にはほとんど記憶に残ってなっかたので、初見のような体験だった。とにかく素晴らしく、圧倒的だった。と同時に、25年前というと俺は大学を卒業するかしないかの頃だったから、当時の俺がこの作品を理解できなかったとしても無理はないなぁと思った。やはり、台湾の歴史に対して興味があるかないかではぜんぜん違うから。この映画は、太平洋戦争の終結によって日本の統治が終わる1945年から中国の国民党が台北に遷都する1949年までの時期を描いている。と、そういう解説は25年前にも読んだはずだが、そんな一文程度でシンパシーを全開にできるわけもなく、ただ、そこから25年の齢を重ねた甲斐もあるというか、今日の映画体験では、冒頭の玉音放送はもちろん、敗戦のため台湾を離れる日本人の描写に、まるで他人事の物語とは思えなかったのだ。以後、2時間40分のフィルムに刻まれているのは台湾人の受難の記憶である。日本の支配が終わりを告げ、人々は自由への希望に胸膨らませたはずだが、彼らの口から漏れるのは国民党の将軍、陳儀への辛辣な言葉だし、国民党の市民弾圧は次第に激しさを増していく。そうした時代の奔流に飲み込まれるトニー・レオンと純朴な少女の面影を残すシン・シューフェンの若きカップルを中心に物語は展開、美男子トニー・レオンは聾唖の障害をもちながら、人格的にも非の打ちどころがないというキャラクター。その一方、彼らをとりまく家族らは…と説明し始めるとあらためて完璧な舞台設定だったなぁと気づく。過酷な台湾の歴史を生きる理想を絵に描いたような若きカップルの物語という意味で、これはホウ・シャオシェン作品を超えた台湾そのものの物語として見るべきなのか? でも、そこはやはり、ホウ・シャオシェンならではの傑作だとも言っておきたい。彼の映画話法ならではのリベラルな視線、つまり、政治的な価値判断に囚われない自由な視線ゆえに、物語の背後にある「国家」という暴力装置の恐ろしさが際立ったと思うのである。