2016年3月16日水曜日

ストーリー漫画の描線

海街Diary7所収「同じ月を見ている」より
〈絵画〉と〈漫画〉の違いは、〈写真〉と〈映画〉の違いに似ている。前者が一枚の画面で語るのに対し、後者は複数の画面の組み合わせで語りかける。しかし、重要なのは、メディアが単数か複数かということではなく、その話法が何を表現するのか、ということだろう。漫画も映画も膨大な数の画面を駆使してストーリーを構成するのだから、物語性こそがその本質なのだろうか?でも、物語というのは本来、言葉で語られたものであるし、だとするなら、漫画や映画は言葉の世界を視覚的に再現しているにすぎないのだろうか?ただ、そう考えるのは単純すぎる、と俺は思う。むしろ、ひとつの物語を完成させるかどうかとは別の、複数の画面による開かれた連携を明らかにすることこそが、〈漫画〉や〈映画〉の芸術的探求なのではないか。画面と画面の閾、画面と画面の諸差異が何を生みだすのか?たとえば、吉田秋生の「同じ月を見ている」(海街Diary7『あの日の青空』所収)を読んでいると、上記に抜粋した2コマの画面構成などにハッとさせられるのだが、こうした漫画の物語に混入した異物のようなフレーミング、このシンプルで的確な描線こそが読者の視覚的無意識の領域に鋭く切り込んでいるのだと思う。

2016年3月12日土曜日

ゼロ消去の後に

今朝、ジョギングに出かけ、近所の公園までの道のりを歩いていると、なにやら映画のこととか映像のこととかのいろんなイメージが脳みそに流れ込んでくるような気がして、あぁ!やっといつもの脳内環境に回復した!と感じた。

その感覚が妙に嬉しかった。

ところで、少し話はズレるが「ゼロ消去」というのをご存知だろうか?

不要になったパソコンを破棄するとき、その中の情報を悪用されないようデータを消去しなければならないが、普段やっている「消去」の操作は完全な方法ではない。それは、データ本体を呼び出すインデックスを無効にするだけで、新しい情報によって上書きされないデータはまだそこに眠っているのである。だから、そのデータを保存する領域全体に「0」を書き込めば、理論的には完全に消去したことになる、というわけだ(ご存知のように、コンピュータ言語は「0」と「1」の組み合わせでできているので)

つまり、われわれの脳の思考もコンピュータに似たシステムであるとするならば、なんらかの記号の組み合わせによって作動しているはずだろう…

そこで、ふと、ある思いに至った。

「確定申告を出すまでのある期間、俺の脳内は〈確定申告〉という4個の漢字記号でいっぱいだったのだ!」

そして、書類の提出と同時に「ゼロ消去」が始まり、数日後、まっさらになった脳のある部分に、新たな〈映画〉とか〈映像〉とかに関連する様々な記号の書き込みが始まったのだと思う。

(ちなみに今年の申告は3月7日の朝に出しました)

この週明け提出のために準備しているみなさん、健闘をお祈りいたします。頑張ってください!