2016年4月23日土曜日

零れる果実

東京・参宮橋トランスミッションで、やさしい味わいの『零れた果実』を見た。もうめちゃめちゃおもしろかったが、どうおもしろいのか伝えるのがこれまためちゃめちゃ難しい。
 劇中、アンディ本山演じる中年男が、部屋にある果物ナイフを手に取り「このナイフってリンゴを剥くために使っているつもりだったが、思い返すと、リンゴでナイフを研いでいるようだった。ナイフは切るためではなく研ぐためにあるんだ…」という、ちょっと奇妙なセリフを語る。で、芝居を見終わってみると、このセリフが作品構造を端的に言い表しているような気もするのである。
 『零れた果実』の物語は、エイコという女性が失踪した後の部屋に集う、互いに見知らぬ者たちのやりとりが大半を占める。ところが、彼らの言動がイマイチ解りにくい。なぜなら、彼らのセリフの多くが舞台上の物語に沿って事態を説明するというより、自分の感覚や感情や考えを直接吐露しているので、それを説明不足のまま受け取る観客は途方に暮れてしまうというわけだ。
 言い換えるなら、この作品の登場人物たちは、本来背景にあるはずの個々人の記憶を生のまま持ち込み、傍若無人に語り始めるのである。その意味で、この空間は舞台の前景と後景、内部と外部、表と裏の関係が揺らいだり反転したりする世界である。劇中、肉体的な「嘔吐」の行為が強調されるのも、だからこそだろう(内部が外部に露呈する…)
 ただ、こうした一見とっつきにくい前衛的な語りが、この密室的舞台を思いのほか広く風通しの良いダイナミックな演劇空間に変貌させるのは驚きだ。鑑賞の際に注目してみてほしいけれど、この作品では、舞台上に登場人物が多ければ多いほど、アナーキーなカオスの到来を予感させてドキドキできるのではないだろうか?
 舞台美術や照明、音響効果などもこのコンセプトを汲み取り、実に刺激的な舞台になっているので、興味をもたれた方には、ぜひお薦めしたい。今日の土曜は2回、日曜の1回、まだまだお席はあるそう。今がチャンス!

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2016年4月7日木曜日

フランシス・ベーコン 感覚の論理学

ジル・ドゥルーズ著、河出書房新社、3,000円+税
すでに出版されていた『感覚の論理』は大判の豪華本で、値段が1万円近くしたこともあり、なかなか買えないまま十数年が経ってしまった。でも、その憧れの本がコンパクトな四六判に衣替え、しかも、新訳で再登場!本屋で見つけた時は狂喜して購入した(3年前に開催されたフランシス・ベーコン展の時、よほど旧版を買おうと思ったけれど…)まだ読み始めたばかりだが、期待を裏切らない素晴らしいベーコン論だと思う。というか、美術を媒介に現代哲学の最前線をも活性化させる刺激的論考!たとえば、こんなテキストの断片に唸らされる…
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 肖像画家としてのベーコンは、頭部の画家であって、顔の画家ではない。頭と顔には大きな違いがある。顔は頭部を覆う構造化された空間的組織であるが、頭部は、たとえ身体の尖端であるにしても、身体の付属物なのだ。[それは]精神を欠いているのではなく、頭部は身体にほかならない精神であり、身体的で生命的な息吹、動物精気、それも人間に属する動物精気である。豚精気、水牛精気、犬精気、こうもり精気など…したがってベーコンが肖像画家として追求するのは実に特別な構想なのだ。顔を解体すること、顔の背後に頭部を発見し、あるいは出現させることである。
 身体はもろもろの歪形を経験するが、歪形とはまた頭部の〈動物的特徴〉のことでもある。[ただ]けっして動物の形態と顔の形態の間の一致が問題なのではない。まさに顔は、画面の洗浄やブラッシングの操作を受けて形態を失い、このような操作によって非組織化され、かわりに頭部を出現させる。動物性の刻印や特徴もやはり動物的形態ではなく、むしろ洗浄された部分につきまとう精気であり、頭部を引き出し、顔なき頭部を個体化し規定するのだ。
*[ ]内は引用者が補いました。
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ざっくり言って、顔→頭→身体→動物→生命→精気と、語の意味、語の概念をコロコロ転がしながら、心身の二元論を超克する一元論を展開している、というところだろうか。いやぁほんと上手い。批評の天才!

2016年4月2日土曜日

山川世界現代史

木谷勤 著、山川出版社、1,500円+税
まるで血と硝煙の匂いが充満しているような本だった。むろん、小説やエッセイまがいの文体で書かれているわけではない。19世紀末からの帝国主義時代以降、現代に至るまでの世界の政治経済的動向が逐一歴史的に分析されているのだが、その明晰さが、この世界戦争の時代をリアルに浮かび上がらせているのだと思う。しばらくは俺の座右の書になるかもしれない。