2016年11月27日日曜日

宣材のポストカード

『この世界の片隅に』を見た映画館でもらったポストカード。昨日、上映前に配られたので受け取った時はなんとも思わなかったが、家に帰って改めて手にとって、妙に嬉しかった。まぁでも、こういうソフトでファンタジックなイメージは、戦争(しかも原爆を含む)というキツいテーマをオブラートに包む役割を果たしていたので、映画鑑賞後のイメージとは微妙にズレているとは思うんだけどね。

2016年11月26日土曜日

この世界の片隅に

こうの史代 原作、片渕須直 監督(2016年)
『この世界の片隅に』は不思議な映画である。緻密に調べて準備したであろう広島地方の風俗や方言や家庭生活の描写は、土地に縁のある人はとても興味をもって見られるだろうし、そうでない人も、太平洋戦争末期の都市や田舎の雰囲気を楽しむことができる。ただ、そのぶんドラマチックな仕掛けは控えめなので、いくぶん冗長だと感じる人もいるだろう。戦争の破壊描写も抑制の効いた詩的表現を大胆に利用し、リアリズムとインプレッショニズムを手際良く使い分けている(この映画の芸術的価値はそのあたりにあるような気がする)。そして作品全体としては、歴史としての「戦争」の何を描くべきなのかということを考えに考え抜いていると感じられた。宮崎駿の『風立ちぬ』が戦争に加担せざるを得なかった主人公の葛藤に焦点を合わせていたとするならば、『この世界の片隅に』はその葛藤すらもてなかった大多数の庶民の「痛み」に焦点を合わせている。それがこの映画の、戦争の「何を描くべきか」という問いへの答えなのだろう。百田尚樹あたりが描きそうな、世界に立ち向かうナショナリズムの昂揚感やカタルシスの代わりに、この映画は、ご飯を炊いたり、料理を工夫したり、洗濯したり、裁縫したり、買い物に出かけたり、たまに絵を描いたり、夫婦喧嘩したりといった小さな小さなシーンを積み重ねていく。だから、映画館を出て、もうさっき見た映画のことなど忘れ、日常生活に戻って暮らしていて、ふとまた映画の一場面の記憶が甦るようなこともあるに違いない。おそらくは、そんな時にこそ、この作品の真の力が現われるのだと思う。小さな記憶の大きな力、をこの映画は信じているのだ。

2016年11月23日水曜日

文化戦争の時代

by Carios Latuff
これ、友人がtwitterでいいねしていた記事で、なんだよRTしてくれよと思いながら読んだら、めちゃくちゃおもしろかった。政治学やジャーナリズムとは少し切り口を変えた社会心理学者の視点で、注目すべきは、以下に引用した発言に集約されているような気がする。さらに、ジョナサン・ハイト氏は、こうした状況にソーシャルメディアが深く関わっているともいう。
俺が思ったのは、人類はみずから手にした文明の利器、自動車なら自動車を手放せないように、ソーシャルメディアの弊害が明らかになったとしてもそれを手放すことはできないだろう。であるならば、このハイテクを飼い馴らさなければしかたがない。そして、政治や経済より上位の「文化的イデオロギー」が巨大な暗雲のように垂れ込めているのは日本も同様、むしろ、先行しているのかもしれない。政治的には国家権威主義が支配し、経済的には破綻した核エネルギー政策を断ち切れないでいるのだから。こうした深刻な不条理が解消できない要因の一つは、そこにもあるのではないか?ということ。
————
SI:今回の事態は文化戦争(culture war)の延長線上である、とあなたは説明しているように思えます。アメリカの政治のすべては文化戦争に組み込まれてしまい、政策というものも文化戦争のための小道具にしか過ぎなくなってしまった、とあなたは考えていますか?
JH:その通り、私はそう考えています。そこには実存的な問題が賭けられているのであり、今回の選挙はどちらの側にとってもまさに世界の終末的なもののように感じられたのです。アメリカは虚空に向かって突撃しているのであり、狂人とはいえトランプは唯一残された希望だ、と右派は考えています。左派は、トランプはファシズム的なクーデターを起こすか、中国と戦争するか、あるいは同盟諸国にアメリカを裏切らせてしまうだろうと考えています。
 ですから、終末論的な感情がアメリカに漂っているのです。神聖な価値観が賭けられているのです。右派と左派との二つの世界観の間で妥協が行われる可能性はまったくないのです。
————
インタビュー記事の全文はこちらに。
トランプ現象と多文化主義

2016年11月20日日曜日

映画と演劇と音楽と

映画ってのは時間芸術で、演劇って空間芸術なんだよね、という区分はずっとずっと俺の頭のなかに染み付いていて、今でも基本そう考えているのだが、だから、映画は演劇よりもむしろ音楽に近い、というふうに感じたりもした。むろん、映画の一部は演劇の一部でもあるわけだが。そんなある日、フェイスブックのタイムラインに音楽の演奏に関する見知らぬ人のコメントが流れてきて、そこに「瞬間芸術」という記述を見つけた時には、ハッとさせられた。「瞬間」とは一般的には時間軸の任意の点の独立性を指し示すことが多いと思う。ゴダールが言うところの「1/24秒の真実」である(映画のフィルムは1秒間に24コマ進むので、その1コマ1コマが表現の根拠になるという寓意)。だが、それは3次元空間においても同様のことがいえるはずだ。演奏とは、どの鍵盤を、どの弦を、どのタイミングで弾くかということなのだから、つまり、時間と空間のパラメータの一致を生産することこそが瞬間芸術の仕事である。とはいうものの、それはあくまで演奏家の主体意識のありようであって、観客の意識にとってはつかみどころがないものでもあるだろう。そこで、オーケストラの指揮者が試みるかのように、映画監督は時間軸に沿って音と映像に一定の秩序を与え、舞台演出家は空間のxyz軸に沿って言葉と身体の秩序を組み立てることになる。であるならば、指揮者や監督や演出家にとっての「秩序とは何か」という問題もあるわけだが、それはまたの機会に…

2016年11月13日日曜日

思想的分断と侵蝕

by Carios Latuff
なんだかんだいっても、ドナルド・トランプ自身は大富豪のボンボンだし、いざ大統領になったら、共和党員ですら抵抗のある主義主張をどこまで実現できるか?は、未知数だと思う。途中で頓挫する可能性もあるかもしれないけれど、彼のまわりにとり憑いた連中はその権威・権力を簡単に手放そうとはしないだろうなぁ。にしても、トランプの当選によって、アメリカの思想的分断が諸外国の目にも明らかになった一方、わが国をかえりみれば、すでに政府の中枢は「日本会議」や「神道政治連盟」らの宗教的政治団体にほぼ乗っ取られている状態だよね。自民党は看板だけは昔からの自民党だけど中身は極右組織になっちゃってて、報道も与党に右倣え、で。だから、彼らの戦後以来の周到な政治戦略が成功したのは確かで、われわれ日本人は政治にナイーブなところがあるから、じつに理想的に、ふと気づいたら世界が違う景色になっていた、というのをやられてしまった…

2016年11月7日月曜日

告白の制度を反転する

『上海から来た女』(1947年)のポスター
朝っぱらからFacebookが教えてくれやがったが、1年前の今日はこれ見たのか。フィルムセンターのオーソン・ウェルズ特集、めちゃめちゃおもしろかったなー。オーソン・ウェルズってもともとはシェークスピア大好きな演劇人で、彼の語りや風貌も舞台芸術っぽいけど、ここは映画ならではだなぁと思うのは、やはり「謎の人物」としてスクリーンに君臨したからでしょうか。基本、ミステリー、謎を追っかけて物語が展開するし、その一方、演劇だと告白の物語が多い。すごく多いと思う。柄谷行人が昔「告白という制度」とかいうエッセイ書いてたような気がするし、それって文学的な伝統でもあるんだろう。演劇は現実の生の人間が目の前にいるからこそ「告白する」のに向いている。映画はどんなに克明に描写したとしても、いわば存在の影。実存的な演劇に対して、虚像の映画。ここらへんが本質的な違いかもね。

2016年11月3日木曜日

日本の政治の問題点

by Carios Latuff
立憲主義の破壊:内閣法制局を身内で固めて何でも「合憲」化、司法へ干渉して行政のゴリ押しも既成事実化
人権の軽視:沖縄や福島などの「地方」支配や「自己責任」論、性差別・民族差別の蔓延
所得格差の拡大:政財界の癒着も大きな要因
報道の自主規制や独立性の剥奪:NHK、民放、新聞社、大手メディアはほぼ全滅
など。

2016年11月1日火曜日

Choose Your Weapon

Hiatus Kaiyote, Sony Music Entertainment 2015
今日、昼休みにYou Tubeでハイエイタス・カイヨーテの演奏を試聴し、帰りにタワーレコードへ寄って最新作のこれを買った。デビューは2011年、若い!いや、ね、さっき一通りCDを聴いてみたら、ポリリズムの嵐、嵐、嵐で、もう最高!タワレコではR&Bの棚にあったけど、ネットではダンス・エレクトロニカとか書いてあるのを見かけた。でも、昨年来日して出演したのはブルーノートのジャズフェスティバル。CDの帯は「新世代フューチャーソウルユニット」なんて謳っていた。詳しい音楽の説明は難しいので、興味があったらググッてください。これ聴きながらね、俺、思わず笑ってしまった。おまえら、音楽好きすぎて、気ぃでも狂ったんちゃうか?って。いいよね、頭おかしいくらい音の世界にのめりこんで暴れまくるっていうの。