2016年12月29日木曜日

世界の見方を変える

ここしばらく、映画を見たり、演劇を見たり、本を読んだり、といったことに自分が何を求めているのかというのを漠然と考えていた。みんなは何を期待しているだろう?「そんなのない。おもしろいから見るのであって、結果、おもしろいかおもしろくないかだけだ」というのも立派な回答の一つだと思うが、でも、じゃあ自分でもなにか作ってみたいというふうに立場が変わると、途端に、そういうシンプルな目では見られなくなってしまう。さんざん考えて出した結論は、俺は、やっぱり世界の見方を変えてくれるものが最高じゃないかと思った。強く感情が揺さぶられるものも良い。知らない世界へ誘ってくれるものも良い。ただ、自分が知っていると思い込んでいた既知の世界の見方が変わるときほどスリリングな体験はないと思う。過去のエントリーでも時々触れたが、2016年に見たなかで特に影響を受けたものを選ぶなら『フォルケフィエンデ—人民の敵—』かな、と思った。この作品が描いた世界は特別に新しいわけではない。でも、130年前の世界批判が今日まったく同等の重みをもっているということをまざまざと見せつけられて、ちょっと狼狽えてしまうほどだった(ナチスの台頭以前なんだよなぁ)。「多数派が正しいとは限らない」という視点は、最近でいうポピュリズム批判であり、欧米では「ポスト真実」なんて言葉で語られるジャーナリズムの最新動向とシンクロしている。つまり、現在問題になっていることは目先の一時的な障碍ではなく、100年以上前から存在した政治的問題が汎世界的に広がり、潜伏し、連鎖的に表面化したという歴史的光景が明らかになったのである。だからといって、古典作品や社会派を礼讃したいわけではない。むしろ、社会派の芸術に対しては強い警戒心が働いてしまうタチなのだが、それは問題の大小ではなく「世界の見方」を変える体験のほうがより重要だと思うからだ。

2016年12月26日月曜日

セルフ・クリスマス

ふだん、ちょっと買いにくい買い物をやっちゃえ!ということを可能にするのが誕生日とクリスマスである(あえて言えば、今やそれ以外になんの意味もなかったりする)
でまぁ今回はこれ。
映画のBlu-rayに1万円超なんて、なかなか出せないっすよ。BOXSETといえども。
いやー、楽しみ。
『皆殺しの天使』以外の2本は未見。
『砂漠のシモン』なんて、超絶的に楽しみすぎる。
ブニュエル映画はちょっとまとめて見直して、四方田犬彦氏のブニュエル論も読みたい。
ダリとブニュエルがつくったシュルレアリスム映画『アンダルシアの犬』をはじめ、やっぱ、ブニュエルには強烈な影響を受けた。
いろいろ楽しむのは来年になりますが。

2016年12月24日土曜日

王蟲ケーキ

メリークリスマス!
みなさん、素敵な年末のひと時をお過ごしでしょうか?
昨日、故あって、劇作家のモスクワカヌさんからケーキをいただきました!
ありがとうございます!
めっちゃ嬉しいです!
ただ、カヌさんが焼いたと思うと、どうしてもただのケーキに見えないなという気がしまして、ジーッと見ていてハタと、そうだ!と、気づきました。
これです。
腐海の中、怒りと哀しみに震えて眠る王蟲…
なんか、さすがですね、モスクワカヌ。
ところで、カヌさんの今年の新作『だるまかれし』は傑作でした!
回顧記事でも触れられませんでしたが、これがまた超絶おもしろい作品でねぇ。
村田沙耶香が芥川賞獲るんなら、モスクワカヌも岸田戯曲賞はチョロいって感じですかね、みたいな。あ、すいません、賞のこととかぜんぜん知らないのに適当なことぶっこいてます。m(_ _)m
でも、期待しましょう!
(王蟲ケーキはとても美味しいレーズンケーキでした)

2016年12月20日火曜日

2016年の映画

『ディストラクション・ベイビーズ』(監督:真利子哲也 出演:柳楽優弥)
今年は『ディストラクション・ベイビーズ』の年だった。『シン・ゴジラ』も『この世界の片隅に』も素晴らしかったが、俺には『ディストラクション・ベイビーズ』が最高だった。まず役者が良い。役者の生の芝居で勝負しようという意気込みも良い。暴力描写が売りの映画だが、それは俳優の存在を通して語りかけるようなものだった。地方都市の映画という意味では社会批評的視点もなきにしもあらず。物語は、とある町(愛媛県松山市)から一歩も出られないという、いわば地方に幽閉された人々の肖像であり、ボートに揺られて町外れの港に辿り着いたが最後、山間の公道も、彼らの前では閉ざされる。物理的な障碍があるわけではない。目の前に一本道が続いているというのに、その先に進むことができないのだ。ある種の映画は人間の「脱出」を描いて劇的なカタルシスを与えてきた。またある種の映画は人間の「移動」を描いて精神的な成熟を促してきた。そんな摘み取ることができたかもしれない芸術の果実をあえて切り捨て、現代日本の地方都市という社会空間の特異性を炙り出しているのが『ディストラクション・ベイビーズ』である。もしかすると、俺が主張するこの皮膚感覚は大都市やその近郊で育った人にはわかりにくいかもしれない。地方都市に蔓延する息の詰まるような閉塞感は「地方」を舞台にしたからといって画面に刻まれるとは限らないからだ。たとえば、黒沢清の『岸辺の旅』(2015年)が描いた地方は東京の精神的延長としての「東京の岸辺」だったし、相米慎二の『魚影の群れ』(1983年)のようなドラマだと、その世界のなかだけで人は人としての尊厳や自立性を担保しているのであり、そこはむしろ生の充実を感じさせる豊饒な「地方」である。俺が思うに、現代地方都市のシリアスな問題とは国や大都市との相互依存というか、宗主国=植民地的な社会的隷属関係にあるのではないだろうか。たとえば、北野武の『ソナチネ』(1993年)などは沖縄を支配するため送り込まれた東京者のヤクザの話であり、極道の飽くなき貪欲さに嫌気が差してもいるその内面世界をメランコリックに描いていた。そんなフィクションのみならず現実問題においても、日本の地方自治は交付税によって国と例外なく結びついているし、あまたのインフラ整備は地方の財源だけで賄い切れるものではない。わが国のエネルギー政策が原発を誘致した地方の経済活動と結びついているため脱原発の足枷になっていることも周知の事実。沖縄の残酷な歴史はいうまでもない。その一方、メディアや交通網の発展により、人々が都市型の生活を基準にものを見るようになると、経済優先の美学や価値観が根付いてしまうことにもなる。戦後日本が経済成長期にあるあいだはそういうふうにお金を循環させる方法でも事足りたのかもしれないが、その成長が限界に達すると最初に機能不全を来すのは末端の「地方」である。かといって、人々の価値観はそう簡単に変わるものではないから、経済的な享楽の美学と生活への不安が矛盾したまま同居し、まるで麻薬依存症のように、徐々に地方都市を蝕んできたのだと思う。ただ『ディストラクション・ベイビーズ』の主人公はまだ若く、生まれた時からその環境に馴染み、世界の矛盾を矛盾として認識しない。薄っぺらな享楽はただの風景であり、腹が減ったらスーパーの商品を勝手に喰い漁る。ジャマな奴が立ち塞がれば殴って排除、殴ることが気持ち良ければ追いかけて行って殴り続け、飽きたら止める。その行動は狂気というより野生の本能に近い。みずから野生の獣のように生きることによって、社会の異分子であるこの青年は地方都市の脆弱さを狙い撃つのである。​

2016年12月11日日曜日

2016年の演劇

新年開始早々、シアター風姿花伝で見たthe PLAY/GROUNDの『背信』はピンター作品というチョイスそのものがやや背伸びしたのかな?という感じで、その二日後に見た、優演隊の『蠅取り紙』には素朴な等身大の味わいがあり、絵空箱のカフェの赤ワインも旨かったし、こっちのほうが、まぁ正月ぽかったな。夜の古民家を使った、鬼の居ぬ間にの『厳冬 子殺し篇』は建物自体がど迫力の舞台装置になっていた。『立ち止まるのは進行形』の劇想からまわりえっちゃんは、若さとフィジカルパワーで勝負!な劇団で、その荒々しさの隙間に彼らの抱く精神的な不安や切迫感を垣間見られたのが良かった。熊本の老舗、劇団きららは『ガムガムファイター』で、再び『ぼくの、おばさん』同様、精緻かつ優美な舞台を見せてくれた。まるで人間という生き物を観察するような演劇というか、祝祭的陶酔の真逆にあるしみったれた人間存在そのものを愛おしむかのような。やさしい味わいの『零れる果実』は戯曲家の存在を強く意識させる作風、その流れで、時間堂の『いちごの沈黙』も見ることに。鈴江俊郎の戯曲には物語空間のさまざまな秩序を再構成する意志が漲り、その仕事は1980年代日本の文化的爛熟の一断片を現在に伝えているのかもしれない。日本のラジオの『ゼロゼロゼロ』はちょっとした衝撃だった。ノワールな世界観は映画の専売特許だと思っていたので、場末の小劇場でン十年ぶりの旧友にばったり会ったような不意を突かれた気分。映画の言葉が演劇の言葉に見事に翻訳されているという驚きもあったし、いや、ほんと見て良かった。アガリスクエンターテイメントの『わが家の最終的解決』は「ナチスによるユダヤ人迫害」のパロディコメディで、こんなのが東京の小劇場で上演されるのだから、もう異形の傑作というべきかも。秋に上演された『七人の語らい/笑の太字』では芝居の語りのメタ構造を巧みに使って唸らされたし、『ハイベン』にはストレートに笑わせてもらった。DULL-COLORED POPの『演劇』は演じるという行為に内在するアイデンティティの揺らぎを突き刺し、俳優から熱量ある芝居を引きだすことに成功していたが、「演劇」というタイトルを冠するなら「演劇とはなんぞや」という次元まで探求してほしかった。「児童のいじめ事件」というシリアスな問題を作品の出汁にしておのれの演劇論をぶち上げるという作劇の構成は、率直に言って、愚劣だと思う。『劇作家女子会!R』の短編4本はいずれも冒険心に満ちた力作揃いだった。吉野翼企画の『詩稿・血を、噛む。』はアングラ演劇を今の時代にアップデートして楽しませてくれた。劇団昴の『THE GREEKS』3部作は思いの外エンターテイメントな仕上がりで、昴の新機軸を見せてもらったような気がする。今年よく感じたのは、古典芸術の再評価や表現の手法やスタイルの再定義こそがエンターテイメントの質を底上げするという印象だった。『東京ドーピング2020』や『トルツメの蜃気楼』を発表した〈火遊び〉の独自の「リアル」を追求する姿勢には期待しているが、その一方、女芝居というスタイルが自家中毒を起こしかけているような感触もあった(具体的にどこが悪いとか不満とかいう話ではない)。その意味では、出演者全員女性で男子校生活を演じるというミュージカル、趣向の『男子校にはいじめが少ない?』が女芝居的自家中毒に対する解毒剤のような存在として異彩を放っていた。時には「リアル」の手綱を緩め、再定義することも必要ではないだろうか?時間堂の『ゾーヤ・ペーリツのアパート』は芳醇ながらものどごしの良い旨いビールのような作品だったが、東京芸術劇場の大空間なら、音響的にもっとパンチを効かせるとさらに美味しく飲めたかも。MSPインディーズ・シェイクスピアキャラバンの『クレオパトラ—平成妄想編—』は、俳優たちが台本を持って通し稽古をやるという態での「セミリーディング」作品。とはいっても、実質的にはきちんと作り込んでいて通常の公演として十分通用するものだった。この『平成妄想編』の抜群のおもしろさは、彼らが台本の紙束をぶちまけることの背徳的な解放感に宿っていたりする(そして罰が当たったりもするw)。ただ、こうした演劇的な大らかさは真にかけがえのないものに感じられたし、かのシェイクスピア先生もきっと草葉の陰で笑いながら拍手をしているだろう。赤羽の十色庵で見た時間堂レパートリーシアターの作品中マイベストだったのは、ユーモアをたっぷり練り込んだ岸田國士の『驟雨』かな。キャスティングが完璧で、とてもチャーミングな家庭劇。チャーミングといえば、劇団だるめしあんが再演した『魔法処女えるざ(30)』を見ると、おもしろい翻案だなというのと同時にやっぱ『魔女宅』はすげぇよなとも思うが、そういう過去の金字塔を後続世代が換骨奪胎し、いかに新しいものをつくりだすかという見本のような作品だった。グワィニャオンの『みどりのおばさん現る』はマニアックなほど濃密な昭和的世界観を語っているのに、あくまでノスタルジーの語りとは一線を画していて感心した。そして年末。創造集団池小による旧ソ連の現代劇『ジャンナ』はその容赦なきダイアローグの発熱によって愛と欲望の関係をあぶりだし、雷ストレンジャーズがシアターΧで再演した『フォルケフィエンデ—人民の敵—』はイプセンの書いた130年前の演劇空間(舞台)とわれわれの生きる現代の社会空間(客席)とが、いまだにぴったり重なり合うことを証明していたと思う。

2016年12月4日日曜日

フォルケフィエンデー人民の敵ー

雷ストレンジャーズの『フォルケフィエンデー人民の敵ー』を見た。ヘンリック・イプセンの戯曲のやばいほどのアクチュアリティもさることながら、舞台を活性化するやり方も最高だった。出ハケはすべてシアターΧの客席通路を使い、台詞も喋ったりするから、このけっして狭くはない劇場全体を使い切り、時に走り、時に歩き、立ち止まり、時にはチャリにまたがって行き来することも。さらに彼らは物を運び、足下に躓いては転んで荷物をぶちまけ、狂騒的なドタバタに乗って熱い言葉を吐きだす。寺十吾演じるストックマン博士はまるで暴走特急のように怒りをエネルギーに変え、とどまるところを知らない。なぜなら、彼の敵は彼の家族以外の町全員なのだから。町長はこれでもかというくらいの悪漢丸出しだし、最初は正義面して応援するとのたまった新聞記者たちも手のひらを返したように博士を裏切る。その様子はさながらプロレスのタッグマッチを見るようでもあり、劇場全体に渦巻くような闘争心と疾走感とを呼び起こすのだ。俺は初めての『人民の敵』体験だったので細かな台詞はかっ飛ばすように見てしまったが、それでも、劇中やや唐突にも感じられるような「故郷よ!」という(たぶん船乗りの男の)叫びは、その異物感を含めて、すごくカッコ良かった!その言葉の響きが、われわれの生きるこのクソッタレな世界でいかに戦うかということを教えてくれるような気がしたからだと思う。