2016年12月11日日曜日

2016年の演劇

新年開始早々、シアター風姿花伝で見たthe PLAY/GROUNDの『背信』はピンター作品というチョイスそのものがやや背伸びしたのかな?という感じで、その二日後に見た、優演隊の『蠅取り紙』には素朴な等身大の味わいがあり、絵空箱のカフェの赤ワインも旨かったし、こっちのほうが、まぁ正月ぽかったな。夜の古民家を使った、鬼の居ぬ間にの『厳冬 子殺し篇』は建物自体がど迫力の舞台装置になっていた。『立ち止まるのは進行形』の劇想からまわりえっちゃんは、若さとフィジカルパワーで勝負!な劇団で、その荒々しさの隙間に彼らの抱く精神的な不安や切迫感を垣間見られたのが良かった。熊本の老舗、劇団きららは『ガムガムファイター』で、再び『ぼくの、おばさん』同様、精緻かつ優美な舞台を見せてくれた。まるで人間という生き物を観察するような演劇というか、祝祭的陶酔の真逆にあるしみったれた人間存在そのものを愛おしむかのような。やさしい味わいの『零れる果実』は戯曲家の存在を強く意識させる作風、その流れで、時間堂の『いちごの沈黙』も見ることに。鈴江俊郎の戯曲には物語空間のさまざまな秩序を再構成する意志が漲り、その仕事は1980年代日本の文化的爛熟の一断片を現在に伝えているのかもしれない。日本のラジオの『ゼロゼロゼロ』はちょっとした衝撃だった。ノワールな世界観は映画の専売特許だと思っていたので、場末の小劇場でン十年ぶりの旧友にばったり会ったような不意を突かれた気分。映画の言葉が演劇の言葉に見事に翻訳されているという驚きもあったし、いや、ほんと見て良かった。アガリスクエンターテイメントの『わが家の最終的解決』は「ナチスによるユダヤ人迫害」のパロディコメディで、こんなのが東京の小劇場で上演されるのだから、もう異形の傑作というべきかも。秋に上演された『七人の語らい/笑の太字』では芝居の語りのメタ構造を巧みに使って唸らされたし、『ハイベン』にはストレートに笑わせてもらった。DULL-COLORED POPの『演劇』は演じるという行為に内在するアイデンティティの揺らぎを突き刺し、俳優から熱量ある芝居を引きだすことに成功していたが、「演劇」というタイトルを冠するなら「演劇とはなんぞや」という次元まで探求してほしかった。「児童のいじめ事件」というシリアスな問題を作品の出汁にしておのれの演劇論をぶち上げるという作劇の構成は、率直に言って、愚劣だと思う。『劇作家女子会!R』の短編4本はいずれも冒険心に満ちた力作揃いだった。吉野翼企画の『詩稿・血を、噛む。』はアングラ演劇を今の時代にアップデートして楽しませてくれた。劇団昴の『THE GREEKS』3部作は思いの外エンターテイメントな仕上がりで、昴の新機軸を見せてもらったような気がする。今年よく感じたのは、古典芸術の再評価や表現の手法やスタイルの再定義こそがエンターテイメントの質を底上げするという印象だった。『東京ドーピング2020』や『トルツメの蜃気楼』を発表した〈火遊び〉の独自の「リアル」を追求する姿勢には期待しているが、その一方、女芝居というスタイルが自家中毒を起こしかけているような感触もあった(具体的にどこが悪いとか不満とかいう話ではない)。その意味では、出演者全員女性で男子校生活を演じるというミュージカル、趣向の『男子校にはいじめが少ない?』が女芝居的自家中毒に対する解毒剤のような存在として異彩を放っていた。時には「リアル」の手綱を緩め、再定義することも必要ではないだろうか?時間堂の『ゾーヤ・ペーリツのアパート』は芳醇ながらものどごしの良い旨いビールのような作品だったが、東京芸術劇場の大空間なら、音響的にもっとパンチを効かせるとさらに美味しく飲めたかも。MSPインディーズ・シェイクスピアキャラバンの『クレオパトラ—平成妄想編—』は、俳優たちが台本を持って通し稽古をやるという態での「セミリーディング」作品。とはいっても、実質的にはきちんと作り込んでいて通常の公演として十分通用するものだった。この『平成妄想編』の抜群のおもしろさは、彼らが台本の紙束をぶちまけることの背徳的な解放感に宿っていたりする(そして罰が当たったりもするw)。ただ、こうした演劇的な大らかさは真にかけがえのないものに感じられたし、かのシェイクスピア先生もきっと草葉の陰で笑いながら拍手をしているだろう。赤羽の十色庵で見た時間堂レパートリーシアターの作品中マイベストだったのは、ユーモアをたっぷり練り込んだ岸田國士の『驟雨』かな。キャスティングが完璧で、とてもチャーミングな家庭劇。チャーミングといえば、劇団だるめしあんが再演した『魔法処女えるざ(30)』を見ると、おもしろい翻案だなというのと同時にやっぱ『魔女宅』はすげぇよなとも思うが、そういう過去の金字塔を後続世代が換骨奪胎し、いかに新しいものをつくりだすかという見本のような作品だった。グワィニャオンの『みどりのおばさん現る』はマニアックなほど濃密な昭和的世界観を語っているのに、あくまでノスタルジーの語りとは一線を画していて感心した。そして年末。創造集団池小による旧ソ連の現代劇『ジャンナ』はその容赦なきダイアローグの発熱によって愛と欲望の関係をあぶりだし、雷ストレンジャーズがシアターΧで再演した『フォルケフィエンデ—人民の敵—』はイプセンの書いた130年前の演劇空間(舞台)とわれわれの生きる現代の社会空間(客席)とが、いまだにぴったり重なり合うことを証明していたと思う。