2016年12月20日火曜日

2016年の映画

『ディストラクション・ベイビーズ』(監督:真利子哲也 出演:柳楽優弥)
今年は『ディストラクション・ベイビーズ』の年だった。『シン・ゴジラ』も『この世界の片隅に』も素晴らしかったが、俺には『ディストラクション・ベイビーズ』が最高だった。まず役者が良い。役者の生の芝居で勝負しようという意気込みも良い。暴力描写が売りの映画だが、それは俳優の存在を通して語りかけるようなものだった。地方都市の映画という意味では社会批評的視点もなきにしもあらず。物語は、とある町(愛媛県松山市)から一歩も出られないという、いわば地方に幽閉された人々の肖像であり、ボートに揺られて町外れの港に辿り着いたが最後、山間の公道も、彼らの前では閉ざされる。物理的な障碍があるわけではない。目の前に一本道が続いているというのに、その先に進むことができないのだ。ある種の映画は人間の「脱出」を描いて劇的なカタルシスを与えてきた。またある種の映画は人間の「移動」を描いて精神的な成熟を促してきた。そんな摘み取ることができたかもしれない芸術の果実をあえて切り捨て、現代日本の地方都市という社会空間の特異性を炙り出しているのが『ディストラクション・ベイビーズ』である。もしかすると、俺が主張するこの皮膚感覚は大都市やその近郊で育った人にはわかりにくいかもしれない。地方都市に蔓延する息の詰まるような閉塞感は「地方」を舞台にしたからといって画面に刻まれるとは限らないからだ。たとえば、黒沢清の『岸辺の旅』(2015年)が描いた地方は東京の精神的延長としての「東京の岸辺」だったし、相米慎二の『魚影の群れ』(1983年)のようなドラマだと、その世界のなかだけで人は人としての尊厳や自立性を担保しているのであり、そこはむしろ生の充実を感じさせる豊饒な「地方」である。俺が思うに、現代地方都市のシリアスな問題とは国や大都市との相互依存というか、宗主国=植民地的な社会的隷属関係にあるのではないだろうか。たとえば、北野武の『ソナチネ』(1993年)などは沖縄を支配するため送り込まれた東京者のヤクザの話であり、極道の飽くなき貪欲さに嫌気が差してもいるその内面世界をメランコリックに描いていた。そんなフィクションのみならず現実問題においても、日本の地方自治は交付税によって国と例外なく結びついているし、あまたのインフラ整備は地方の財源だけで賄い切れるものではない。わが国のエネルギー政策が原発を誘致した地方の経済活動と結びついているため脱原発の足枷になっていることも周知の事実。沖縄の残酷な歴史はいうまでもない。その一方、メディアや交通網の発展により、人々が都市型の生活を基準にものを見るようになると、経済優先の美学や価値観が根付いてしまうことにもなる。戦後日本が経済成長期にあるあいだはそういうふうにお金を循環させる方法でも事足りたのかもしれないが、その成長が限界に達すると最初に機能不全を来すのは末端の「地方」である。かといって、人々の価値観はそう簡単に変わるものではないから、経済的な享楽の美学と生活への不安が矛盾したまま同居し、まるで麻薬依存症のように、徐々に地方都市を蝕んできたのだと思う。ただ『ディストラクション・ベイビーズ』の主人公はまだ若く、生まれた時からその環境に馴染み、世界の矛盾を矛盾として認識しない。薄っぺらな享楽はただの風景であり、腹が減ったらスーパーの商品を勝手に喰い漁る。ジャマな奴が立ち塞がれば殴って排除、殴ることが気持ち良ければ追いかけて行って殴り続け、飽きたら止める。その行動は狂気というより野生の本能に近い。みずから野生の獣のように生きることによって、社会の異分子であるこの青年は地方都市の脆弱さを狙い撃つのである。​