2017年9月22日金曜日

愚者の断末魔

ルノワール《ルーベンス作「神々の会議」の模写》
いざ首相の責任が問われると、みずから明言した「丁寧な説明」など一度たりとも口にすることなく答弁から逃げ続け、憲法の要件を満たした臨時国会の召集要請にも応じず、それでも永遠に国会を開かないわけにもいかないので、今度は「(国会を)解散する」と言いだした。国会から逃げている間にやったのは、無意味なミサイル警報を鳴らして北朝鮮の脅威を煽ったことくらい。そういえば最近は、北朝鮮に対しても「対話より圧力」なんて言っている。嘘や詭弁が通じなくなると対話そのものを拒否し、おのれの握った権力で諸批判を押し潰そうとする。それが愚かな最高権力者の断末魔であることは明らかだ。けっして気持ちの良い風景ではないが、その現実をわれわれは目に焼き付けるべきだと思う。

2017年9月9日土曜日

私、共謀してます

もともと旧知の金原並央さんが出るってんで見に行った『ナイゲン(全国版)』がハンパなしにおもしろく、彼女は出演しない『わが家の最終的解決』も覗きに行き、そこでもガツンとやられるという具合にどんどん引き摺りこまれたコメディ劇団、アガリスクエンターテイメント。彼らが「その企画、共謀につき」と名付けた、ちょっと変わった公演の作り方をするという。劇団の稽古を公開したり、詳細な稽古日誌や執筆中の台本をWEB公開したりして、観客(共謀者)からの反応や意見を募りながら舞台製作を進めようという趣旨。その企画を知った時点では、アガリスクの稽古がどんなのか興味はあるけどねという程度だったが、まぁ新作を、出された料理を食べるように見るだけってのもつまらんなと「共謀券」を買ってみることにした。この「私、共謀してます」チケットで公開稽古が4回と試演会、そして本公演が1回見られるらしい。その結果、試演会まで皆勤賞!(笑)

ただ「公開稽古」とはいっても、最初の「稽古」は演目も決まっていない、普通にいう「企画会議」だった。メモ書きをタイプしたようなレジュメが配られると、3本の作品アイデアの概要が書いてあり「この『パズルとか伏線とか(仮)』ってのさぁ、よく読むとなんにも中身ないよねぇ」なんて話し合っている。驚いた。俺は、1本目は『友達が死んだ(仮)』2本目は『信玄が死んだ(仮)』うーん、なんで、みんな死ぬんだ?コメディなのに湿っぽすぎだろ?なんて思いながら雲をつかむような議論を聞いていた。こちらは部外の素人だし、3本目の『パズルとか伏線とか(仮)』など、なんかすっげーおもしろいやつ!パズル的っていうか伏線とかバンバン回収されてさぁ…というノリだけしかわからなかったかも。そして、そんなモヤモヤッとした会議の中で『信玄が死んだ(仮)』といちばんモヤモヤした『パズルとか伏線とか(仮)』のどちらかで進めることが決まった。

2回目の公開稽古というか企画会議というかはストーリーについて(作品は『パズルとか伏線とか(仮)』に決定)。とある商店街がモールに吸収されるかされないかでドタバタする話、あるいは、その商店街のアーケードを撤去するかしないかの問題で紛糾する話、あたりのアイデアに冨坂友氏(脚本・演出)の喰いつきが良いようだ。3回目は配役が決まって書き始めた前半部の軽い読み合わせ。最後の4回目がいわゆる「立ち稽古」だった(ただ台本の完成にはまだ時間がかかりそう)。公開稽古4回のうち、2回はベタに会議、1回はいわば試作台本の検討会議というべきか、で、やっとたどり着いた稽古らしい稽古が「架空の商店街の組合員による会議コメディ」なので、もうずっと会議をしているような。だから、アガリスクの稽古を見た感想は「きみら、どんだけ会議好っきやねん?!」というものだ(笑)

この作品、正式タイトルは『そして怒濤の伏線回収』に決まり、試演会も見た(本公演は9/15〜24、新宿シアター・ミラクル)。まだ荒削りながらも、当初のモヤモヤッとした会議のモヤモヤッとした「おもしろいコメディを作ろうぜ」という意志は強く生き続けているのではないか。これは凄いことだと思う。アガリスクエンターテイメントの代表作『ナイゲン』のアップデートにとどまらず、コメディ批評的な『七人の語らい(ワイフ・ゴーズ・オン)』の方法論などをぶちこみ、新しいコメディを開発しようという心意気。モヤモヤッとした雲を潜り抜けたのだから、最後は澄んだ青空が見たい。そこは心地良い狂騒と笑い声とが渦巻いているかもしれないけどね。

2017年9月7日木曜日

学園恋愛バトル×3

王子小劇場で上演中の劇団だるめしあん「学園恋愛バトル×3」の初日を観てきました!3本の短編作品、どれもおもしろいんですが、なかでも『絶対恋愛王政』は、もう小劇場界のカルト的名作として語り継がれる貴重な上演だとも思うので、超おすすめです!(今回が再演なので、見逃すと次いつかわかりませんよ!)物語は、とある学園を支配する生徒会女子軍と、地下活動を余儀なくされるアニメ研究会男子軍の仁義なき闘いが繰り広げられる、というもの。その「文化的」抗争の果てに何があるのか?爆笑しながらいつのまにか胸打たれる展開で、今夜、見て思ったのは、これっていわば、欧米の圧倒的軍事力を後ろ盾にした国家の政府軍と国内の少数派でイスラム教徒を中心とした反政府軍の内戦の物語みたいだなぁと。あれもキリスト教対イスラム教の対立だったりするわけで、その反政府軍のリーダーを柳内佑介さんが演じていて、本当に素晴らしかった。ネタバレになるから言いたくないけど、彼が謝罪するシーンは屈指の名場面です。まぁそこに至る前段階から素晴らしいですし、ほんと見て損しませんから、お時間ある方はぜひ!

2017年8月22日火曜日

掃除機、再び。

makita CL107FDSHW
以前の掃除機は処分してしまいずっと使ってなかったけど、最近はハンディタイプのものでもワリと良くできているらしいというのを聞きつけ、買ってみることにした。このMakita製はDyson製に比べれば激安だし、まぁモノは試しという感じ。ほんとはね、埃の溜まりやすいフローリングだからこそ、箒や雑巾でこまめに掃除すればいいんだが、この部屋へ引っ越してすでに5年、できんことはできんのだ。

2017年8月7日月曜日

嘘で縛るな。

本文と関係ありません ^^;
自分と同世代(1965年生まれ)がどうなのかはわからんけど、俺より下の世代はものすごくたくさんの「嘘」に縛られているような気がする。俺より上の世代は、俺らを含めて下の世代をたくさんの「嘘」で縛ろうとしてきたような気がする(俺はずいぶんそういう匂いに反発を感じてきた)。彼らは他者を都合良く支配しようとしていると思った。こんな語り方は暴言紛いの世代論にすぎないけど、戦後日本の民主主義が未熟だったとすると、いや、どうみても未熟だったのだから、そういう「副作用」があったとしても不思議じゃない。家庭の上下関係、学校の上下関係、会社の上下関係、社会の上下関係を決めるのは主に年齢というか世代差だからだ。保守派の時代錯誤な価値観を聞いているとなおのことそう思う。

2017年8月4日金曜日

初期元春の作品群

まだ持っていなかった佐野元春の1980年代のCDを大人買いした。もともと持っていたレコードは、音楽メディアがCDに切り替わるとき処分してしまった。聴きたくなったらまた買い直せばいいやと思ったからだが、そのまま二十数年過ぎた。そして、チラッと『Cafe Bohemia』を聴き直し、あまりに濃密な、初期元春の集大成となっていたことに驚いた。有名どころの曲では「YOUNG BLOODS」や「CHRISTMAS TIME IN BLUE」などを収録した1986年の作品である。俺は「STRANGE DAYS」や「月と専制君主」がもう死ぬほどめちゃくちゃ好きで…とか、まぁそういうことはいいとして、ただ、このアルバム以降はそんなにのめりこんで聴いたという覚えがない。むろん、新作は全部買ったし、好きな曲もたくさんあるが、『Cafe Bohemia』までの作品は、俺に音楽の未知の風景を見せてくれたのだ。初期の元春は、彼が刺激を受けた欧米のロックンロールをダイレクトに再構築したような作品群で、たとえば「YOUNG BLOODS」なんかほとんどスタイル・カウンシルだと思うが、当時は、俺だって海外アーティストを貪るように聴き漁った時期だし、まったく気にならなかった。いま思えば、元春とともに、自他の未分化なまま同時代の音楽が共鳴する空間を生きていたような気もする。アーティストとしての佐野元春はその後、さまざまな試行錯誤を繰り返し、俺がふたたび鮮烈な音楽体験に打ち震えるまで、2007年の『COYOTE』や2013年の『ZOOEY』を待たねばならなかった。その間、二十年。創造するってのはほんと大変だと思う。

2017年7月30日日曜日

Mellow Waves

WARNER MUSIC / 2,800円+税
昔話になっちゃうけど、フリッパーズ・ギターなんてね、音楽性云々以前に、もう激しく嫉妬の対象だったので、ひたすら敬遠しまくってきたわけだが、最近、コーネリアスが新作アルバムからシングルカットした「あなたがいるなら」を聴いてぶっとんだ(ほんと歳をとるのも良いもんだねぇ)。ひさしぶりに、ラブソングに震えた。これ一曲のためにアルバムを買う価値があるんじゃないかと思った。ラブソングって純化させると、個人差とか性差とかも超えて、ただただ純粋な人間の心の動きというか、精神の得体の知れぬ昂まりみたいなものに還元されるんじゃないかと思っていたのだが、そういう音楽的イマジネーションの地平を作品にしてくれた。このアルバム『Mellow Waves』も「あなたがいるなら」の世界の分岐と変奏によって構成されたような一枚で、聴けば聴くほど素晴らしい。

2017年7月21日金曜日

ハンディレコーダー

ZOOM H5(Recorder)+XHY6(Mic)
音響機材導入のメインディッシュがこのレコーダー。脳みそがウニになるくらい悩んだけど、結局は使ってみなきゃわからない。てゆーか、買ったら、もう目の前のブツでなんとかしなきゃしょうがないしね。ハンディタイプのものでも最上位機種はこれよりもうひと回り大きくて、処理できるトラック数も多く、機能が多彩だったりする。でも、基本的な音質が大きく劣らなければ、コンパクトなほうが使う機会も増えるだろうというのが選んだポイント。あと、カムコーダーに収録した音と混ぜたりするだろうから、レコーダーの音ばかり高級でもしょうがないかな?というのも一考。とはいえ、交換式マイクやらなにやらも買ったら、5万円近くになった。良い音を録って、元も取りたい… ^^;

2017年7月16日日曜日

マイクブームセット

ショックマウント付きのハンドグリップCAVISION SPSR21をマイクブームDAIWA MB264Bに取り付けた(これ2.6mまで伸びる)。先日の5mケーブルと合わせて約3万円のマイクブームセット。たとえば、映像は別撮りにして録音のみの作業だとしても、やはり「音を撮影する」という考えでやりたい。台詞の収録でも、立って録るのと、座って録るのと、動きながら録るのとでは違うはずだが、そこをあまり「キレイな音声を収録するため」みたいな発想で一元的に処理したくない。

2017年7月8日土曜日

マイクスタンドとケーブル

Roland ST-100MB
最近、音響関係の撮影機材をいろいろ揃えていて、このマイクスタンドもそのひとつ。選んだポイントは、軽い!普通、3.2kgなんて製品が多いのだが、これは仕様書によると1.65kgで、ほぼ半分の軽さ。まぁたしかに、3kgくらいあったほうが安定感は増すだろうなぁ。でも、スタジオの備品じゃなく、持ち運び前提なので。あと、手で扱うタイプのブームも1本は欲しい。
このマイクケーブルにたどりつくまで、けっこう苦労した。業務用ガンマイクはモノラルが主流なので、ケーブルも当然モノラル。だが、俺のガンマイクはステレオなので、ステレオのXLRコネクターをモノラル変換できないかと調べているうちに、ケーブルを自作しようみたいな話まで出てくるし、こっちの頭までこんがらかってきた。あきらめて新たにマイクを買うと、定評のあるものは10万円以上する。結局、別のガンマイクではないステレオマイクの付属品を売っていたので、それを購入。

2017年7月7日金曜日

安倍辞めろ!は左翼じゃない。

俺もよく「小池百合子の極右め!」とか口走っちゃうけど、同様に、体制派の人は「安倍辞めろ!」なんて言うのは「左翼だ!」と主張する。でも、俺は「安倍辞めろ!」と言っただけではゼンゼン「左翼」じゃないと思う。まぁ右翼/左翼なんて俗語といやぁ俗語だし、語源を遡って厳密に定義してもあまり意味がない。ただ、日常の言葉としての意味を明確にするなら、現在の日本国憲法を基準に考えるのがわかりやすいのではないか。日本国民が主権者であることを示し、その諸権利を守るためにこの憲法があるのだから「憲法を守れ!」というのはゴクゴク普通の態度である。だから、そこであえて「憲法を変えろ!」というのであれば、憲法の何をどう変えるかという傾向において「右」と「左」に分かれることになる、という考え方。つまり、復古主義的な改憲を求める自民党は明らかに「右翼」だし、違憲の疑いがきわめて濃厚な立法(特定秘密保護法・安保法制・共謀罪など)を連発していることからも「極右だ!」と見るのは当然で、実際、海外の報道ではそう語られている。そして、われわれが「安倍辞めろ!」と言い続ける理由は、安倍政権のスキャンダルや現行憲法を軽視する姿勢に対してなのだから、やはり、右でも左でもない「中道」のポジションと呼ぶべきだと思う。それでも、体制派はこれからも「左翼だ!」と切り捨てるだろう。でも、われわれはわれわれの生活と権利を守りたいだけなのだから、「通販生活」が言うように、それを左翼と呼びたいなら左翼でけっこう、と答えればいいんだけどね。

2017年6月22日木曜日

思想なき国ニッポン

Carlos_Latuff
それにしても小池百合子なんかが、けっこうマジに人気があって愕然とする。彼女、ゴリゴリの右翼で日本会議のメンバーだし、でも、東京都民はあまり気にしないらしい。まぁ石原慎太郎に4期も知事をやらせたくらいだから不思議じゃないか。ただ、だからといって東京都民の大半が右翼思想支持かというと、たぶん、そうじゃない。それで、いろいろ考えたのだが、結局、東京都民ひいてはもしかしたら日本国民って、思想はもってないけど「右翼っぽい態度」が好きなのかも、と思った。橋下徹とかもそうだよね。中身はチャランポランなのに「断言する」人に惹かれる。でもさ、それってほんとヤバい。石原知事は東京をメチャクチャにして逃げて行ったし、小池知事も豊洲問題をごまかしかねない。で、逆に言うと、最近「左翼」というレッテルが悪口になったりするけど、あれもたぶん「左翼っぽい態度」なんだろな。悪口自体に中身はなくて、実質「(俺の好きな安倍首相を批判する)お前が嫌い」の言い換えだったりする。そこに思想なき国ニッポンの難しさがある。でも結局は、地道に思想を育てないといけないんだと思う。それは特定の思想を教育するという意味ではなく、個々人が「主体」をもつということ。主体というのは責任の所在であり、そこを土台にして物事を学んだり世界についての想像力を働かせたりすること、かな。まぁ主体というのは近代の概念だから近代思想ではあるけれど、現代社会が近代システムで動いている以上、基礎概念として扱うのはいたしかたない。その上で、近代批判を積み上げていく必要もあるとは思うけどね。

2017年6月19日月曜日

佐野元春 & COYOTE GRAND ROCKESTRA

DaisyMusic、3,056円+税
春に、ちょっと前衛的なSpokenWordsのライブに行ったので、最近のロックンロールライブはどんな音を鳴らしているんだろうと、2016年3月26日東京国際フォーラムの演奏を収録したCDを購入。
まぁ久しぶりに聴くといろんな感情が溢れちゃって簡単にコメントできませんが、あまり意識してなかった「WildHearts—冒険者たち—」って、これ名曲じゃん!と思ったので、YouTubeの動画をリンクしておきます。
なかでも「彼女は今うつむいてる/言葉が闇をすり抜ける/ひとつのキス、重ねるごと/静かな雪が降り積もる」から「すべての〈なぜ?〉にいつでも/答えを求めてたあの頃/いつか自由になれる日を/あてもなく夢見てた」にいたる、歌詞がグルーヴの効いた流れになって最後解放される感覚がたまらんです。

2017年6月17日土曜日

ミズウミ

作・演出:屋代秀樹 出演:瀬戸ゆりか、袖山駿 ほか
初めて見た日本のラジオの作品は『ゼロゼロゼロ』だった。舞台空間の使い方が抜群だった。予算をかけるのではなく、想像力を使ったそのやり方が凄い。小屋は池袋のスタジオ空洞。雑居ビルの細長い空間の上手と下手に出ハケがあるという造りで、上手の外に当たる空間、中央のアクティングエリア、下手の外に当たる空間、と三分割して考えるなら、その三空間の重要性がまるで均等であるかのように物語を紡いでいた。お話自体はいわゆるヤクザ物だから、暴力と生死の問題を扱うことになるので、この三つの空間が、生の空間、生と死の接する空間、死の空間、とそれぞれ割り振られる。そして物語の進展に応じ、生死のせめぎあうボーダーラインが三つの空間を移動するという構造。サスペンスの仕掛けとしてこんなに洗練された芝居を見たことがなかったので、本当に驚いた。まるでヒッチコック映画のようだ。

『ミズウミ』もまた日本のラジオならではの空間芸術の粋を見せてくれた。小屋は御徒町のギャラリーしあん。古民家の居住空間である。ここは庭園もあるので、その庭と室内をどう絡めて使うか、が肝要にもみえるし、実際ここを使う劇団のほとんどが知恵を絞るところだろう。『ミズウミ』でも効果的に使っていたが、ただ、それは必ずしも本質的な装置ではなかった。むしろ、古民家の古さこそが、その場所の歴史性、時間の底に沈んだ謎の保管所として大事だったと思う。ここでは『ゼロゼロゼロ』のような意味論的分割もなく、古民家というか、古屋敷の一室でほぼすべての重要事が描かれる。

だが、芝居が始まるやいなや『ミズウミ』の世界は別のかたちに分割されてしまう。一冊の日記帳によって「昭和の終わり」と「平成の終わり」に、である。『ミズウミ』に描かれる物語の大半は昭和の終わりを舞台とした幻想譚であり、その記録が書かれた日記帳の読み手である平成の人間が、舞台空間に共存するという構成をとっている。

ところで、この芝居を見ているうちに、ひとつのことに気づかされた。それは真に劇空間を分割したり、再結合したりするのは、舞台のセットや脚本上の設定ではなく、もっと深いところに言葉が存在することへの驚きであり、それこそが演劇作品のイメージの源泉なのだということ。その言葉の力を使って『ミズウミ』が語るのは、小さな湖を大きな海に結合するための魔術的方法であり、その秘法に触れるため、われわれ人間は人間自身の内奥に深く潜らねばならない、ともいう。人間個々人は小さな存在に過ぎないが、その小さな記憶の集積回路には時間と空間を超え、大海へとたどり着く可能性が眠っているのである。

劇中、小鹿スドウは言う。

「そう、昔はただの湖だったのが、ある日突然塩湖になったという話が伝わってるんですよ。だいたい明治初期くらいですかね。突然、まるで海の水が流れ込んだかのように」

2017年6月13日火曜日

大本営発表


辻田真佐憲 著、幻冬社新書、860円+税
素晴らしい本だった。とはいっても、読み終えて、ドーンと重い気持ちにさせられてしまったが、それは日本のメディアと政治の癒着がいかに悲惨な命運を辿ったかということを、史実に基づき、坂を転げ落ちるかのような必然として立証したからだと思う。現実の残酷さをまざまざと思い知らされた、というか。普通の読みものであれば、いかに「大本営発表」がデタラメだったかに焦点を当てるだけでも良かっただろう。だが本書は、なぜそんな報道になったかという本質的な原因とその後の推移を逐一検証していく。なので、読み進めるうちに、現代の日本社会だって何も変わってないじゃないか、という気がするのだ。たった一つの発表が正確性を欠いたって大きな問題にはならない。だだ、それが常態化することの恐ろしさ。もともとは、日本軍も連戦連勝していたため戦果を粉飾する必要もなかったのだが、戦況が変わると、次第に大本営自身も正しい戦況を把握できなくなった。そのため重大な戦略判断まで誤り、みずから自滅の沼に足を突っ込んでしまったのである。そんな大失態をわれわれは戦後も犯している。まだ記憶も生々しい3.11によって露呈した原発政策のことだ。日本政府が世論を誘導して築き上げた安全神話の常態化が、原発の致命的な電源喪失を招いたのだから。それにしても、戦争末期の特攻礼讃や本土空襲、原爆投下などの悲劇は、まともな報道さえ機能していれば回避できたかもしれない。太平洋戦争の日本軍は、正しい情報を失い、まるで盲目の狂犬のように敵味方かまわず襲いかかっていたのである。

2017年6月11日日曜日

フォアローゼス プラチナ

いつも家に常備しておく酒には、ビール、日本酒、芋焼酎、紹興酒、赤ワインなどがあって(基本、食中酒)、あと偶に飲むバーボンがある。バーボンはその樽の香りが好きなのだが、2,000円を切るような廉価なものは、舌が少しピリピリし、なかなか減らなかった。そこで、ちょっと高級品を試してみようと思い、これを買ってみた。一本、約7,000円する。が、さすがである。まろやかさは半端なく、とても飲みやすい。口にする頻度も以前よりずっと増えた。買ったのは去年で、最近飲み切り、そこで、またプラチナにしようとも考えたが、他にも飲み比べてみたくて、買い直したのは結局フォアローゼスのブラック。こちらは約3,000円である。たしかに、安いバーボンと高いバーボンの中間くらいのまろやかさだろうか。ちなみに、プラチナは日本向けの限定生産品らしい。なるほど、そうかもね。ただ、ピリッとした刺激もそれはそれで味わいの一つだし、不味いとは思わない。まぁ好みというほかないでしょう。値段のことを考えると、次もブラックになりそうな気もするが、ウィスキーは開封しても味が劣化しにくいし(自信ないけど、そうだよね?)その時の財布と気分と、相談して決めようと思う。

2017年6月6日火曜日

スピーカースタンド導入!

LS-EXA3
「スタンド」とはいっても、ご覧の通り、木製の台座にインシュレーター(絶縁体)を取り付けただけのものである。インシュレーターというのは、スピーカーの下に置いてその振動を緩和するもので、今まではこんな安価なやつを使っていた。
ただ、これって、すぐホコリ塗れになってしまう。それでも掃除をすると、こんどはスピーカーの下にバランスよく配置するのが意外にめんどくさい。ちょっと触れるとズレるし、あるとき、どうせ音質なんてたいして変わらんだろうとタカをくくって外してしまった。でも、いざなくなってみると、妙に音が気になる。フローリングの床ごと音が鳴っているような気がするのだ。そこで、このスタンドを買った。
スピーカーに履かせるとこんな感じ。たしかに床が鳴ってる感覚は解消され、音全体も安定したような、気が、する。本来なら、ここで以前のインシュレーターを使った場合と聴き比べてみたいところだが、差がなかったら嫌なのでやってない… ^^;
でも、地べたに直接置くのとは明らかに違うと思う!

2017年5月24日水曜日

プロテスタンティズム

深井智朗 著、中公新書、800円+税
中世以来のキリスト教の宗教改革について、とても興味深く読んだ。宗教改革の歴史は政治改革の歴史でもあるという視点がその基底にあるのだろう。たとえば、第6章の「保守主義としてのプロテスタンティズム」など、現代ドイツ政治への見事な注釈となっている。

戦後ドイツのプロテスタンティズムは、単なる宗派の独善的な優位性の主張ではなく、多宗派共存のためのシステム構築の努力を続けた。プロテスタントとは、カトリシズムとの戦いを続け、その独自性を排他的に主張してきた宗派であるだけではなく、複数化した宗派の中で、共存の可能性を絶えず考え続けてきた宗派であり、むしろ、後者が私たちの今後の生き方だと主張するようになった。[中略]今日、プロテスタンティズムを保守と呼ぶ場合、それは[中略]異なる立場との共存というもう一つの自らの宗教的伝統のみならず、ルター以来の政治と宗教の作法を逸脱するような勢力の活動や発言に対して「否」を言うという意味でである。2016年にドイツ社会が難民問題で揺れ動き、並行して極右勢力の排他的で不寛容な政策が力を持つかに思えた時に、ルター派の牧師の娘として生まれた、キリスト教民主同盟のアンゲラ・メルケル(1954−)ドイツ連邦共和国第8代首相が、その動きを強く否定したのは、このことと深く関係している。

ここで言及されたメルケルの政治姿勢は、極東日本から見ると、ほとんどリベラルの主張ど真ん中にしか見えず、なんかすげぇと驚くしかなかったので、本書の考察になるほどなぁと唸った。16世紀以来の宗教改革の伝統があってこその、かぎりなくリベラルに近い保守主義といえるのではないだろうか。宗教改革恐るべし。

2017年5月22日月曜日

共感の物語を超えて

はたらいたさるの話(作・演出:池田美樹)
それにしても、なんでみんな「共感の物語」がそんなに好きなんだ?孤独が恐い?最近はセックスレス社会で、だから、セックスを正当化する「愛の物語」から〈性〉を差し引き「共感の物語」にシフトしてるってことなのか?でも、さすがに食傷気味。ざっくりいって、30歳代の劇作家なんてみんな共感の物語ばっかり書いているように思える。そんなことない?20代はまた微妙になんとなく違うような気がする。もう少し強引な、感じ?だから、世代の差かな?と思ったりもするが、50代の俺は、別に、他人のことなんて、わかろうがわかるまいが、そんなのどうでも良いじゃん、という感覚なのだ。そういや「しらけ世代」なんて、昔は言われたしな。でも、人が嫌いなわけじゃない。むしろ好き、俺はね。40代のことは、知らん(笑)そこで、劇団きららの『はたらいたさるの話』が感動的なのは、俺と同世代、50代の作家的感性ということではなくて…いやまぁ、なんというか、共感しても良いし、しなくても良いしっていう、その懐の深さだったように思う。わかんないけどさ、奴といっしょにいたら楽しいし、いっしょにいなくても、元気でいるよっていうだけでも嬉しい。そういう「人の存在」ってものに対する愛情や信頼感。すばらしかった。

2017年5月10日水曜日

フレームで考える

海街diary 8「恋と巡礼」より
写真や映画や漫画の話法に共通するのはフレーム表現の重要性である。何かを表現するためにフレームを巧みに使うというよりも、フレームでしか表現できないやり方によって何かを発見すること、の悦び。なんの変哲もない行為や行動を、ひいては物語そのものを、さりげなくも新鮮に見せてくれる。こういうのが、ほんとうに好き。大好き。

2017年5月8日月曜日

角矢甚治郎の眼鏡

つい先日、なにかの拍子に、眼鏡の腕をボキッと折ってしまった。もう10年以上愛用しているものだ。10年というのは、要するに、いつ買ったのか覚えてないほど昔、という意味でもある。なので、あちこち劣化するのも無理はない。その場はアロンアルファで凌いだものの、新しい眼鏡を探し始めた。基本、いつも同じものを使うので、あまり個性的なデザインにするつもりはない。今回も同じスタイルで探したが、意外にフィットしたものが見つからない。もし、今までと同じフレームがあったら、迷わずそれにしただろう。そんなこんなで、微妙に妥協しつつこの日本製に決めた。これを着けて親しい人に会っても、新調したことに気付かないかも。だが、自分的には、かなーり違うのだ。ま、地味男にはそれくらいがちょうど良いのかもしれん。

2017年5月1日月曜日

ムーンライト

監督:バリー・ジェンキンス、出演:トレヴァンテ・ローズ ほか
全体が3部に分かれていて、第1部と第2部ではさほど乗れたとは言い難かった。カメラ微妙に寄りすぎ!動きも派手すぎ!と、要は、物語に対して映像文体が先走っているという印象もあったのだが、第3部で一気に乗れた。そこはもう、まさにメロドラマの世界。映画的なリズムと映画的な時間に満ち満ちていて、Moonlightと呼ぶのも当然だろう、成瀬巳喜男の映画を彷彿させるのだ!ただし、その主役は黒人男性二人である。映画としての完成度は『キャロル』のほうが上かもしれないけれど(同性愛をテーマにしたという意味で比べるとね)、『ムーンライト』にみなぎる、なんというか本気度に胸打たれた。素晴らしい。見て良かった。あと、第1部でヤクの売人を演じたマハーシャラ・アリが抜群に魅力的だった。この映画、絶対に彼が中心で話が進むんだろうと思ったので、そこはちょっと残念だったかなぁ。

2017年4月28日金曜日

民主主義について

「教育は政治的中立でなければならない」と言われることがあるが、教育基本法を読むと、民主的な社会教育をせよ、つまり、民主主義でやれと言ってるのであって、これは絶対に「政治的中立」ではない。軍国主義だって共産主義だってあるんだから。民主主義を一種の中立主義と勘違いしてる人もいるのかもしれない。みんな中立だなんて言いだしたら社会が動かないし、政治的中立というのはむしろ反民主主義である。だから、意見Aと意見Bに分かれた場合、俺、中立っていうのはナシで、その場合は意見Cをもたなくてはいけない、ということか。良くも悪くも、民主主義は社会参加を強制する。だとするならば、ラジカルな民主主義社会においては、芸術表現だって政治的中立だなんてものは褒められたものではないということは十分ありえる。教育にせよ芸術にせよ「政治的表現を排除せよ」みたいな法や規則は、少なくとも民主主義的ではない、と思うのだ。

2017年4月24日月曜日

権威主義について

Carlos_Latuff
昔も今も日本人って想像以上に「権威主義」が染みついているんじゃないだろうか?今のわれわれが直面しているのは、日本社会の権威の館に安倍が陣どり「権威の独占」をしゃにむに進めている状況である。安倍晋三はまさに権威主義者として行動する。Wikipediaによると「硬直化した思考により強者や権威を無批判に受け入れ、少数派を憎む社会的性格」を権威主義的パーソナリティと呼ぶ。俺が思うに「権威主義者」自身にはけっして真の権威は宿らないので、虎の威を借るほかない。そして、自民党や安倍政権の「虎」は間違いなくアメリカである。だから、彼らはアメリカに対して下僕のように従い、日本国民に対しては(政府の)下僕のように従うことを要求する。こうした隷属化の連鎖こそが権威主義社会の本性なのだ。われわれ日本人は昔からの弱点であるこの権威主義的パーソナリティを克服すべきだと思う。

2017年4月22日土曜日

午後8時の訪問者

La fille inconnue (2016)
『午後8時の訪問者』には冒頭からグイグイひっぱられた。そのサスペンスのストーリーに、という人も多いだろうが、俺はまずなにより技術力の高さに「すげぇ!」と驚きっぱなしだった。ダルデンヌ兄弟というのは手持ちカメラでドキュメンタリータッチの作品を撮る作家で、たとえば、ラース・フォン・トリアーが手持ちカメラで人間心理の暗黒面を暴きだすとするなら、ダルデンヌ兄弟は人間のいわば神的受難を語り継ぐ、なんていえるだろうか(フィルモグラフィのごく一部を見た程度の適当な要約、ご容赦!)。ただ、前作『サンドラの週末』は、メンタルに問題を抱えて休職していた女性がやっと復職しようという直前にリストラを宣告され、逆境のなか解雇の撤回を求めて奮起するという物語だった。だから、その受難の本質はあくまで社会制度に帰属するものの、そこでもまた神話的距離感とでも呼びたいクールな眼差しを内包、映画ならではの繊細さや自然さ、鋭さ、力強さを引きだしていたと思う。そして『午後8時の訪問者』ではサスペンス映画のストーリーに挑戦することになった。これがまたすごい。サスペンスらしくスピーディでテンポ良く話を進めるなかカメラもよく動き、役者の素早く複雑な動きを追って長回しを繰り返す。カメラを動かさなければ長回しもそこまで難しくないのかもしれないが、手持ちで動かしながらその間、的確なフレーミングを持続するというミッションが加わると、ほんとうに大変だと思う。なぜなら、流動的な動きのなかで、役者とカメラマンと監督、三者の意図や思考や感覚が一致しなければならないからだ。そんな現実的技術的困難が透けてみえるにもかかわらず、的確なフレームがビシビシ決まっていたので、もう感嘆するよりほかなかったのである。ただ、こうした技術論だけでいくら讃えようとも、この映画の真価を語った気にはなれない。『午後8時の訪問者』の主人公ジェニー(アデル・エネル)は、とある殺人事件の名もなき犠牲者を埋葬するためその身元を探るという、いわば「探偵」を始めることになるのだが、その一方、そこに彼女の本業である「医師」としての行動も絡んでくるからややこしい。二つの任務に共通する視点は、おそらく他者の「救済」であり、ここでもまたダルデンヌ兄弟による人間の受難に関する一考察がみてとれるだろう。そしてその「救済」行為は、時に、相手のプライベートな問題にまで足を突っ込み、激しく抵抗されたり、逆に脅されたり、遂には知りたくもない悲惨な事実まで知ってしまうことになる。こうした物語の二層のレイヤーを複雑に横断するさまが、手持ちカメラで迫るジェニーのアクションを通してシンプルに統合され、ダイナミックでスリリングな映画的身体を練り上げているのだ。それにしても、ラストのさりげないカットはあまりに感動的というほかない。技術など関係ない。俺はそこにこそ映画の魂が宿るのだと思う。

2017年4月18日火曜日

雨月物語 4K修復版

監督:溝口健二、出演:森雅之・田中絹代ほか、1953年
買ってしまった。従来のDVDも持っていてそれも、作品の感動を削ぐほど酷い画質というわけではないのだが、『雨月物語』はやはり最高の画質で見たい珠玉の作品だし、で、最初は、修復版の出来をチェックするだけのつもりだったのに、結局全部見てしまった。いやぁ何度見てもすごい。どこが良いとかじゃなく、もう全部すごい。でも、あえて言うなら、プロットの構成力という点で、これ以上の作品は世界映画史の中にも見当たらないんじゃないか、と今日は思った。俗世の欲に溺れる男たちの愚かさを幽玄の美のなかに描くことで、より深く、観客の胸を抉ることに成功した傑作。明日見たら、また違う世界一の映画に見えるんだろうな。

2017年4月16日日曜日

憎悪の論理

ベストセラー作家として知られる百田尚樹氏のツイートが話題だ。昔、日本が第二次大戦に突入したときも、百田みたいなアジテーターが怒鳴ってたんだろうなと、正直、うんざりした。あと、それとは別に思ったことが一つ。彼は、もし日本が北朝鮮の攻撃を受けたなら「テロ組織を作って」北朝鮮に反撃するのではなく「国内の敵」である「売国議員と売国文化人」を「潰す」と言う。その歪な論理が百田だけでなく、日本の右派勢力の本質にあるような気がした。おそらく、日本の戦後社会が啓蒙してきた民主主義や平和主義が心底嫌いなのだ。そのルサンチマンこそが彼らの政治性の原理であり、そこになんらかの思想が根付いているわけではないのだと思う。民主主義に対立するから国家主義を唱え、平和主義に対立するから軍国主義を志向する。だから、ミサイルを撃ち込んだ北朝鮮よりも共産党の志位和夫のほうが「憎い」のである。彼らがそういう「憎悪の論理」で行動しているということは理解しておいたほうが良いのではないか。

2017年4月14日金曜日

権力の嘘と腐敗

今日、仕事帰りに買った本。この二冊に共通しているのは「権力の嘘と腐敗」かな。『プロテスタンティズム』を手に取ったのは、竹良実の漫画『辺獄のシュヴェスタ』に触発された部分も大きい。中世のキリスト教会がその権威によって魔女狩りを行ったり、公的な知識を独占して好き放題やっていた頃の活劇冒険譚である。その腐敗した宗教権力に対する改革運動の理念、プロテスタンティズムは現代の政治思想にまで深く影響を与えているのだという。一方『大本営発表』の意味はみんな知っているか。日本の現政権の乱発するデタラメな国会答弁や閣議決定、それを批判し切れないマスメディアといった平成の「大本営発表」が常態化しているのは周知のこと。安倍の目指す国家観が大日本帝国であるならば、安倍政権の窮地と第二次大戦の窮地とが共鳴するのは当然かもしれない。こうした権力の嘘と腐敗の構造を歴史的に重ね合わせてみたいなぁというチョイスでした。

2017年4月9日日曜日

シリア問題への視座

Carlos_Latuff
シリア問題に関する内藤正典先生のツイートをまとめました(2017年4月9日13時30分現在、句読点や改行などは整理しています)

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シリア問題の最も重要なところは、繰り返しになりますが、膨大な犠牲者の存在。命を奪われた市民と、家や家族を奪われて隣国やヨーロッパにまで逃れた難民。この最悪の人道危機をどう解決するかに触れず、ロシアや米国の武力行使の是非を論じてもあまりに本質からそれるだけ。今回の米国の武力行使は、当然のことながら、我々の隣国、北朝鮮の問題にも深い影を落としています。突然、遠くのシリアの話が、日本の問題になってくるのです。プレイヤーになるのか、ならないのか?なるとしたら、どのようにコミットするのか?世界を知らないと判断を誤ることだけは確実です。

日本のメディア、ニュースや情報系番組が、シリア問題を取り上げるのはいいのですが、直近の化学兵器使用と米国の反撃だけを切り取って、善か悪かを議論するのは、とんでもなく実態とかけ離れた空論になります。なぜなら、アサド政権は化学兵器など使っていないと主張しロシアもそれをなぞっているのに対して、米国は「巡行ミサイル攻撃をした」と明言しています。そうなると、化学兵器については真相不明、米国の攻撃は明々白々となりますから、シリアやロシアを非難する声は消極的、米国を非難する声は加速されます。その影で、難民達の声は誰が伝えてくれるのでしょうか?

すでにヨーロッパでは、彼等は難民なんかではなく金儲け目当ての偽装難民だと公言する政党や組織が力を持っています。そういう人が難民の奔流に合流したことは事実です。しかし、隣国トルコ、レバノンなどに滞留する500万人以上の人達は、では、何者でしょうか?日本政府の援助機関であるJICAでさえ、トルコやレバノンに逃れた人々が、何から逃れたかを、真剣に見ようとしません。難民支援は政治から距離を置くからです。しかし、その政治的中立こそ、アサド政権やロシアの思惑通りとなります。シリア政府は難民を装ってヨルダンやレバノンに息のかかった人間を送り込みます。シリアの惨状が反政府側の「テロ」によると6年間主張し続け、日本の援助団体やメディアを洗脳しました。膨大な難民がいながら、彼らがアサド政権の攻撃の犠牲者でありながら、巧妙にその声を封じたのです。しかし、それをアサド政権の「嘘」と言ってみたところで、何の役にも立ちません。

シリアという国、第一次大戦時に英仏が勝手に引いた国境線の内側に、多数の民族や宗教、宗派が押し込められました。1946年に独立した後、国家統合は困難を極めました。少数派のアラウィーに属するアサドが政権を掌握し、多数を占めるスンナ派を抑え込み、クルド、アラブ、トルクメン、アルメニア、ドルーズ等の民族、スンナ派、シーア派、アラウィー、キリスト教ではシリア正教、アルメニア正教、カトリック、正教会等々の人達を統御しなければ国家の統合はできませんでした。アサド政権が恐ろしく強権的で逆らう者に容赦しないのは、これだけアイデンティティの異なる集団を統御するため必要だったからです。さらにダマスカスやアレッポは3000年以上の都市文明を育んだ都市であり、その中に生きる名望家、土地と結び付いた豪族、彼らの利害を調整する必要もありました。ダマスカスやアレッポの上を、何十という支配者が通り過ぎて行きましたが、都市社会そのものは独自の性格を維持し生き残ったのです。

第二次大戦後の冷戦時代の後半、アサド政権はソ連の庇護下に入り、ソ連を徹底して利用することでイスラエルや米国から守ろうとしました。しかし、一部のインテリを除けば、そもそもスンナ派ムスリムが多数を占めるシリアで社会主義は人を引きつけませんし、何よりシリア人は民族や宗派を問わず商人です。アサド政権は逆らわない限り経済活動の自由を認め、40年にわたり統治に成功したのです。

2017年4月8日土曜日

ベルネーズソース

先日行った佐野元春のライブはポエトリーリーディング主体のコンサートだったんですが、その2003年版の映像があるので、ご興味ある方はぜひ。まぁ「詩の発表」というより「ヒップホップの演奏」と言ったほうが良いかな。2017年版は、現在の社会の空気にビビッドに反応、パフォーマンスの切れ味も凄かった。一種のアジテーションというか、それこそがヒップホップ本来の在り方だろうと思わされた。俺も日々のニュースを読んでカッカしてるほうだし、元春もそうなんだろうなーと想像しながらの、怒りの共有。ただ、観客の大多数は、さすがに俺と同世代のおじさんおばさんになっちゃうところが残念。むしろ、若い世代に聴いてほしいアクチュアルな作品でした。このYouTube映像も、ヘッドホンでボリューム上げて聴き込むのがおすすめ!

今は音が出せないよ、というなら、詩を書き起こしたものがこちらに。読んでもかっこ良い!

2017年4月5日水曜日

佐野元春 In Motion 2017「変容」

2017年4月4日21時、第2部開演、セットリストは以下の通り。

再び路上で
ああ、どうしてラブソングは…
国籍不明のNeo Beatniksに捧ぐ
植民地の夜は更けて
ベルネーズソース
何もするな
まだ自由じゃない—Not Yet Free
SHAME—君を汚したのは誰
ブルーの見解
ハッピーエンド
僕にできることは
何が俺たちを狂わせるのか?

*とにかく終盤近くまでハードな詩で攻めまくる構成。元春自身も、銀髪に黒いスーツ、黒縁メガネ、黒いネクタイといういでたち。どうしたんだろう?と思っていると「SHAME」ではギターを演奏、奇妙なアクションを見せる。そのとき、それエルヴィス・コステロのモノマネだろ!と気づく(けっこう似ていた)のだが、コンサート中はなぜコステロなのか?まで意識しなかった。しかし、今回のセットリストが社会への警鐘や異議申立てに満ち満ちた作品の連打であることを考えると、喪服風の衣装や、コステロを引用した理由もよく理解できる。

2017年3月31日金曜日

ゼロとイチ

映画と演劇の違いというのは、映画がゼロから始まるのに対して、演劇はイチから始まる、ということではないだろうか。映画はあくまで虚像であるが演劇は実像である、という意味において。だから、映画の感動は信仰に近く、演劇の感動は祝祭に近い。

牯嶺街少年殺人事件:断片的記憶

初めて見たのは1991年の東京国際映画祭で公開された3時間版(188分版)で、翌年公開された4時間版(236分版)は「やや冗長になったな」という印象をもっていた。その後、四半世紀見直す機会がなく、レストアされた4時間版を2017年3月29日に見た。そして昔「冗長」と感じたのは俺の愚かな独断であり、間違いだったと強く思った。この4時間版のどこを切れば3時間に短縮できるか?と考えてみると、シャオスー(小四)の両親の絡んだエピソードを切らざるをえないのは明らかで、逆にいえば、エドワード・ヤンが4時間版で語りたかったのは、少年たちと親世代との関係なのだろう。少年たちの足下には台湾の歴史の傷が淀んだ澱のように広がっているのであり、彼らの「若さ」が暴れれば暴れるほど、その澱が舞い上がって視界を濁らせてしまう。だから『牯嶺街少年殺人事件』の4時間版と3時間版では作品コンセプトが違うと考えたほうが収まりが良い。おそらく3時間版は、シャオスーとシャオミン(小明)の事件に集中するよう全体を細かく刈り込み、タイトでドライブ感のある作品になっていたはずだ。シャオスーの住む日本家屋に暗く陰鬱な影が垂れ込めていたことだけは、今でもよく覚えている。ところで、今度の公開の売り文句でもある「4Kデジタル修復版」の修復作業はホウ・シャオシエンが監修したという。気になったのは、こんなに明るくしちゃって良いの?ということだった。画面の細部が見やすいのは嬉しいといやぁ嬉しいけど、でもたとえば、シャオスーのプライベート空間である押入れの中など、最初こそ暗く、盗んだ懐中電灯で日記を書くシーンになっていたものの、その後は均一な光でほの明るい小部屋という風情だった。昼間の外景もいわばパステルチックな優しい色でまとめられ、それが3時間版や他のエドワード・ヤン作品にあるようなクールな雰囲気とは微妙に噛み合ってないような気がしないでもない。とまぁこんなことを言いだすとキリがないのだが、それでも、時折見せる切れ味鋭い映像感覚には痺れた。アジアの温暖な気候の中にフィルムノワールの冷たい風が一瞬吹き抜けるのを感じ、得体の知れない戦慄を覚えるというか。映画の事件のキーとなる短刀を見た少年、ワンマオ(王茂)はこんな言葉を吐きだす。「日本の女が自害する刀だな」

2017年3月28日火曜日

娯楽と芸術

まず、エンタータインメント(娯楽)には大きく二種類あって、知性に訴えるものと感情に訴えるものがある。知性に訴えるものの中には、答えや結論が用意されているものとされていないものがある(たとえばミステリーvsドキュメンタリー)。感情に訴えるものの中には、喜びをもたらすものと哀しみをもたらすものと怒りをもたらすものがある。たとえば、勧善懲悪の物語は悪への「怒り」をエンターテインメントにしている。一般的に「喜怒哀楽」というからには「楽」もあるかというと、楽しいというのは固有の感情というより気分であり、喜びのトーンが支配的な雰囲気を指すことも多い。また、娯楽と芸術(アート)と呼ばれる分類について考えるなら、娯楽は一種のゲーム性が高く、鑑賞者が作品の虚構の中に参加するというかたちで「疑似的体験」を享受する。一方、芸術は鑑賞者が作品に対して内在的に関わるのではなく、作品に対峙してその美を味わう、つまり、外在的な「超越的体験」を享受する。そのため芸術鑑賞とは知的体験と感情的体験を融合したものとしての美的体験であるといえるだろう。

2017年3月26日日曜日

詩でも台詞でもなく、ただの言葉。

さっき、机の前に、この紙を貼った。今日はこれと格闘しようと思う!(が、早くも、おなかが空いてきた…)

2017年3月24日金曜日

森友問題を超えて

籠池泰典氏が国会の証人喚問に呼ばれたことで、森友学園問題も全国レベルの注目を集めるようになった。ただ、世の中の関心はあくまで籠池vs安倍のケンカであって、それが右派イデオロギーの教育や児童虐待、土地買収に関わる政治倫理の問題であることを忘れちゃイカンだろという警告はまぁその通りだと思うが、それでも俺には、昨日の証人喚問は事件だった。ベタな言い方をすると、安倍政治の腐敗なんて森友問題以前にも十分想像できたことで、それを安倍陣営が力ずくで封印していることにも驚きはない。だが、どんなかたちで崩壊するかまでは予想できないので、その序章が森友問題のようなスキャンダルであったことに驚いた。事件の一連の過程で俺が重視したいのは、右翼陣営の仲間割れである。ふりかえれば、いわゆる左翼が失墜したのは昭和の学生運動の内ゲバだったような気がするし、だから、これでようやくニュートラルな地平で政治を語ることができるのかもしれない。SEALDsなんかもバックに共産党がいるとデマを流され、昔の左翼の一部にすぎないという言説に絡め取られたわけで、その新しさが十分伝わったとは思えない。いわば、古い左翼の亡霊にジャマされたようなものだが、彼らも解散して「未来のための公共」に衣替えした(この名称、悪くないよね)。安倍陣営のヘドが出るような腐敗が森友問題だけのはずはないし、さっさと退陣してもらって、新たな政治空間をつくるのだ。次へ行こうぜ!

2017年3月17日金曜日

未来のための公共

「未来のための公共」という団体主催のデモが国会議事堂前でスピーチをやっていて、それを毎日新聞がネット配信したものを少しだけ見た。「未来のための公共」はSEALDsの後継プロジェクトでもあるらしいのだが、その映像を見て、そういや、劇団だるめしあんの『ひとごと。。』って、なんかSEALDsみたいだな、と感じたことを思い出した。『ひとごと。。』という演劇作品は「私のことを話します!」と宣言し、訥々と自分の「思い」を語りだすようなスタイルをもっていて、SEALDsのスピーチの中身はだるめしあんよりも公共的な意識がより強く、逆に、だるめしあんのスピーチはSEALDsよりも私的な意識が強い、といえる。ただ、そういう違いがあるにしても、両者はけっして対立しているのではなく、その関心のありかというか、そのテーマの重心がほんの少しズレているだけだと思った。で、そういう対比を通して、俺は「語ること」の重要性を強く感じた。つまり、怪しげな教育者に時代錯誤でカビの生えた「教育勅語」を語らされるのではなく、みずから今現在感じたこと思ったこと考えたことを人前で素直に語れるのは素晴らしいし、そんな行動がもっと普通にもっと自然にできるようになると良いな、という。なぜなら、右派的な国粋的な権威主義的な政府というのは市民の従順な隷属を求めているのであって、市民一人一人が自分自身の言葉を語りだすことは求めていないからだ。むしろ逆に、恐れているはずであって、だからこそ「計画したらそれだけで逮捕するぞ」という脅迫的な意図をもつ共謀罪なんて法律にこだわるのだ。その意味でも「未来のための公共」や「だるめしあん」には、今後とも期待したいと思う。

2017年3月11日土曜日

戦争と一人の女

ごく大雑把に言って、舞台演劇には会話劇ベースの作品と身体表現ベースの作品があると思うのだが、その分類でいうと、坂口安吾原作・上田晃之演出の『戦争と一人の女』は身体表現ベースの作品だなと感じさせた。この手の作品は往々にして、俳優の身体的パフォーマンスに小説のテキスト音声を「乗せる」ことになるわけで、作品全体もどんどん「韻文」化していくのが普通だと思う。つまり、台詞は身体の動きのリズムに従属し、俳優の台詞はもはや物語を進める原動力にはならず、舞台上のBGMとでもいったものに変貌するのである。だが、上田演出がおもしろいのは、そういう仕立てにもかかわらず、言葉の「散文」的要素で物語空間を寸断してしまうところだと思う。言葉の散文的要素というのはつきつめるなら「単語」ということである。つまり、この作品ならば「戦争」というキーワードだ。四人の女優で一人の主役をパッチワークするような元女郎役の女たち以外に、しばしば語り部の女が舞台に闖入者のごとく登場、舞台上のスクリーンにYouTubeから引用した戦争関連の映像を投影し、観客に注意を促す。その結果、詩的物語世界はたびたび中断され、「戦争」という語が劇場内に頻繁に現われることになる。その様は「戦争」という言葉の大海を四人の女と一人の男が恍惚とした風情で泳いでいるとでもいうかのようだ(おそらくは素っ裸で)。それでも男は言う「もっと戦争をしゃぶってやればよかった」と。また、上田自身も「誰も戦争について論じることができなくなっています」(劇場パンフレットより)と発言するのだから、現代日本に戦争の足音がひたひた聞こえているというのに誰もそのことを語らない(あるいは語れない)現実への苛立ちが、この舞台の原動力となっているのだろう。実際、四人の女優さんはみなとても艶っぽく魅力的で、唯一の主演男優も実にかっこ良く、舞台にはセクシーフェロモンが充満しているのだが、それらを真に輝かせているのは死と戦争の予感であり、その濃厚な匂いを嗅ぎとれない鈍感さへの抗議が鳴り響いているのだ。坂口安吾が戦争を語って70年後、再び戦争の危機意識に駆られた若者(俺から見るとね ^^;)によって安吾文学が息を吹き返したといえるのではないだろうか。

2017年3月8日水曜日

上からの改革

Carlos Latuff
東浩紀編「ゲンロン4」は、浅田彰の回想的なロングインタビューが載るというので軽い気持ちで読み始めたが、意外なところを興味深く読んだ。ロシアというか旧ソ連は、1985年から始まったペレストロイカ(政治改革)やグラスノスチ(情報公開)によって文化的な解放の気運が高まり、91年にはソビエト連邦も解体し、新しい時代の新しい大国としての期待があって、だから、近年のロシアの国際協調を破壊するような政治的動向を見るにつけ、いったいどうしちゃったんだろう?という思いもあった(逆に日本の右傾化も外国からはそう見られているのかもしれない)。ただ、なぜこれが浅田彰の個人史に重なるのかというと、彼のやってきた仕事が「エリート主義」と言われるのは仕方ないけれど、でも、ゴルバチョフだって最初は上からの改革だったじゃないか〜という文脈。いや、俺はいろいろ知的刺激をもらったので、エリート主義だろうがなんだろうが感謝しています。以下は備忘録的に一部引用。



1989年に冷戦が終結したあと、西側はゴルバチョフを経済面などで、もっと支援すべきでした。第一次世界大戦後にドイツを叩きすぎたため、ドイツを経済破綻からナチズムという道に追い込んだことへの反省から、第二次大戦後、アメリカをはじめとする連合国はマーシャルプランという大規模な贈与を行うことでヨーロッパの復興を助け、とくに旧ファシズム陣営をうまく手なずけた。ところが冷戦終結時にはふたたびその反省が忘れられ、ゴルバチョフがコケてソ連が元に戻った場合(たしかにその可能性は小さくなかった)はいつでも叩けるようにしておこうという警戒心ばかりが先行して、経済危機にあえぐ彼を助けようとしなかった。結果、彼は追い詰められ、91年にクーデターが起こり、それを鎮圧して新たに大統領になったエリツィンがソ連を解体し、いまのロシアをつくるわけです。しかし、エリツィンが急激な自由化・民営化というショック・セラピー(ナオミ・クライン)を強行した結果、オリガルヒと呼ばれる新興財閥に富が集中する一方で、民衆は飢えてめちゃめちゃな混乱状態になり、結局それを収拾して秩序を再建するストロングマンとしてプーチンが登場するんですね。アメリカはいまプーチンを目の敵にしているけれど、かつて自分たちがゴルバチョフを見捨て、エリツィンに性急な資本主義的「改革」を押し付けた、その結果としてプーチンが現れたということを、もっとよく考えるべきでしょう。

2017年3月4日土曜日

「歴史戦」とは何か


いま話題の森友学園=塚本幼稚園の運動会で園児たちに宣誓させているのがこんな台詞。「大人の人たちは、日本が他の国々に負けぬよう尖閣列島・竹島・北方領土を守り、日本を悪者として扱っている中国・韓国が心を改め、歴史で嘘を教えないようお願いいたします。安倍首相、ガンバレ!安倍首相、ガンバレ!安保法制、国会通過よかったです!」

ここで興味深いのが「日本を悪者として扱っている中国・韓国が心を改め、歴史で嘘を教えないようお願いいたします」という一節である。歴史の嘘とは具体的には、中国なら南京大虐殺、韓国なら従軍慰安婦といった問題を指しているのだろう。これらの歴史的事実の真偽に対して、日本の右派は「歴史戦」なんて言い方をするし、左派はそれは右派の「歴史修正主義」だと反論する。その意味で、右派は国外のみならず国内にも「歴史戦」を仕掛けているといえる。

こうした右派の「歴史戦」は1990年代後半あたりから目立ち始めた印象がある(「新しい歴史教科書をつくる会」の設立が1996年)のだが、俺は当初は鼻にもかけていなかった。しかし、保守派論客が注目を集め、政治運動としても草の根的に続けられられてきたらしく、公式には異端のまま安倍政権の政治思想と合流することになった。そんな右派の努力を甘く見ていたことは切に反省しなければならないし、彼らの見解にも一定の存在理由があるからこそ長期にわたる政治運動の基軸になったのだろう。

たとえば「中国脅威論」というか「中国が攻めて来る」というイメージが日本の右派のみならず日本人一般にも潜在的にあるのだとすると、それは第二次大戦で日本が中国に攻め込んだ歴史の意趣返しということになるのではないか。南京事件はその象徴的事例だ。《どうも昔、日本の軍隊が酷いことをやらかしたらしい…やつら(中国)はいまだにそれを非難する…きっとそのうちやりかえそうと思っているに違いない》だから、事件の死者数という確定困難な部分に過敏に反応し、その曖昧さを理由に、歴史の事実をまるごと闇の中へ葬ろうとする。そんな歴史修正の言辞がいかに現実を無視した傲慢なものであろうとも、自分が手を汚したわけでもない過去の罪を背負うのは嫌だ、復讐の刃を避けるためにも致し方ない、というわけだ。

このように真偽をカッコに括って心理的要因を推察するなら、歴史修正主義というのもごくありふれた防衛機制のひとつにすぎないように思える。すなわち、その歴史の修正像は、そうあってほしいと願う者の期待の投影であって、当然、国際社会で通じるものではない。結局のところ「歴史戦」とは対中国・対韓国の戦いではなく、日本人自身の内なる戦いなのである。

2017年2月28日火曜日

ヌルすぎる!

Carlos Latuff
昨夜、前代未聞の政治スキャンダルで揺れているこの渦中、安倍首相が報道関係者と食事会を開いたという。〈権力者〉と〈報道〉が会食してなぁなぁの関係になることが日本の民主主義をダメにしてきたんじゃないか。これは権力者側が安倍だろうが誰だろうが関係ない。政治が国民の生計のみならずその生死の授与収奪まで支配するような力をもち、人間の自由や尊厳に関わる調停の場であることを踏まえるならば、ひとこと、ふざけんな!と言いたい。

2017年2月24日金曜日

エドワード・ヤンは未来の美に投機する

新宿武蔵館で『牯嶺街少年殺人事件』のチケットを買った。ノベルティ欲しさにわざわざ上映館まで買いに行くなんて、アレクセイ・ゲルマンの『神々のたそがれ』以来かな。この『牯嶺街少年殺人事件』が初めて公開されたとき(1991年)、俺はちょうど映画批評誌の編集者をやってて、何度この傑作映画のスチールを使ったことか!とポストカードを手に、ちょっとだけ感慨深い。ま、ほんのちょっとだけ。とはいっても、チケットを手にすると、この作品や監督のエドワード・ヤンについて、他の偉大な映画作家たちとはまた違った別格の想いを抱いてしまうのはなぜだろう?なんて、ぼんやり考えてしまう。で、思ったのは、たとえば、キューブリックなら独自の「壮麗な」世界を描こうとするし、タルコフスキーは独自の「崇高な」世界を描こうとするし、ゴダールですら美の誘惑に抵抗はしない。だが、エドワード・ヤンの映画は一見、独自の美にこだわっているように見えない。彼が描くのは台湾の市井の生活であり、その生活の中に埋もれている人々の感情のありかである。その意味では、小津安二郎なんかに近いのかもしれないが、小津ほど、あるいは同郷同世代のホウ・シャオシエンほど、映像スタイルが明確なわけでもない。そこで、エドワード・ヤンの映画にとって美はどこにあるのか?と、あらためて考えてみると、俺は、それは、スクリーンの「先に」あるんじゃないかという気がする。先人の映画作家たちがみなスクリーンの「中に」美を封じ込めようとするのに対し、彼は、その遥か先に美を見ているのではないか。つまり、映画の上映が終わり、観客が映画館を後にし、都市のどこかで、観客のわれわれ自身が美を発見することに賭けているのではないか、というふうに思う。現代資本主義は未来の金のために投資するという世界だが、エドワード・ヤンの映画は未来の美に投機するのである。現代の人間がどんなに愚かでクソッタレで意地汚くても、それでもその未来に賭けるという精神こそが彼の映画ではないだろうか。そんなことを考ながら、またあの映画を見たい。

2017年2月21日火曜日

共謀罪の新設反対

「共謀罪(テロ等準備罪)」の新設って現代の「治安維持法」なんて呼ばれたりもするけど、治安維持法は制定当時(1925年)、世界的な共産主義運動の波及を背景に、国内での社会運動の激化を防ぐことを目的にしていたという。政府は「まぁ一般人は関係ないよ」なんて言っていたにもかかわらず、結果、7万人を超える市民が検挙され、徹底した言論弾圧の武器、日本の戦争突入を許す環境を整えるための道具になってしまった。そして現在準備中である共謀罪新設の名目も、昔の「革命の暴徒」が今の「テロリスト」に衣替えしただけだ。むろん「共謀罪」も制定したとたん7万人逮捕ということにはならないだろうが、今後いつでも恐怖政治や弾圧政治を発動させられるお墨付きを与えてしまうことになる。過去になぜ3回も廃案になったのか?それほどまでに危険な法律だからだ。オリンピックの治安なんてまったく関係のない話である。

2017年2月5日日曜日

日本の民主主義を鍛える

小学生でもわかる憲法入門
まぁ「ポピュリズム」とか「オルタナティブ・ファクト」とか、いろんな呼び方があるけど、そういう権威・権力の発するインチキ情報や国会の不毛な答弁、本質に触れないことで毎日薄めた毒をまきちらすようなメディアに対抗するには、俺らがもうちょっと賢く、注意深くならんといかんと思う。「安保法制」でも「共謀罪」でも、人の不安につけこんだり、恐怖を煽ったり、わざとわかりにくい理由をつけて国民を支配しようとするわけだから、表面的な言葉や理屈に囚われず、根本の原理原則を押さえた上で自分自身で考えることが大事じゃないのかな。それを小学生の頃からやる。やり続ける。そんなふうに、日本の民主主義を鍛える。

2017年2月4日土曜日

政治的前戯としての芸能

Carlos Latuff
「ポスト・トゥルース」の政治とは何か のなかで、筆者の五野井郁夫氏は次のように語る。

——このようなポスト・トゥルースの政治の特徴たる「ファクト」と「リアリティ」をコントロールすること、すなわち現実に起きた事実の真偽に関する支配を政権側が強めていくのであれば、それはまさに独裁者である「ビッグ・ブラザー」による政府見解のみが正しく、ジョージ・オーウェルが『1984』のなかで描いてみせたディストピアへと、より一歩近づくことを意味するだろう。

前回のエントリー「リベラルの戦法」で、保守派の論客が恣意的な「現実」観を押し付けてくる、と書いたのも、まさに「ファクト」と「リアリティ」をコントロールすることの一環である。さすが政治学者は説得力のある検証をやってくれる。ありがたい!

おそらく、それは日常的に警戒すべきことだと思う。根拠のないデマを言い立てて注目を浴びたり、大衆のある種の欲望を刺激し、一部の人々の溜飲を下げたりすることによって人気取りを図る政治手法をポピュリズム(大衆迎合主義)といい、これこそがファシズム(全体主義)が権力掌握の過程で行なう政治的前戯である。

ならば、ここで日本に巣喰うポピュリスト政治家を指弾すべきかもしれないが、それはちょっと傍に置いて、このポピュリズムというのは、同時に、大衆芸能が使う手法でもあるということに注目したい。

たとえば、コメディアンが「政治家の独裁を風刺するのか?」「市民のデモを揶揄するのか?」というその選択が政治的表明であるのは理解しやすい。だが、フィクションのなかで誰かを演じることだったり、何かの心理や心情を語ることだったり、なにがしかの知的真理を探究する試み、そういう芸能や芸術の基礎的技術は政治と無縁なのだろうか?

映画や演劇や音楽や絵画や小説など、少なくとも、観客の知性や感情に訴える技術はすべからく政治利用可能であり、だからこそ、それは危険な技術である。が、また、価値ある技術でもある。芸能や芸術の政治的可能性/不可能性ついて、あらためて考える時期が来ているように思う。