2017年11月12日日曜日

牯嶺街少年殺人事件 Blu-ray

映像をチェックしてみると、自宅のTVモニターでは赤が強く出てしまう。画質の調整できるかなぁ。にしても、油断するとすぐ映画に見入ってしまいますね。少年少女たちの存在感と映像感覚の鋭さとが高次で結びついているというか、ほんの数分数秒の映像のキレで見る者の意識をかっさらっちゃう。子どもたちの演技指導には1年以上費やしたとどこかで読んだ覚えがあるけれど、いわゆる「天才子役」的にコントロールさせるんじゃなくて、ナチュラルな個性を活かすよう腐心しているのがよくわかる。一方、カメラワークはほとんどクローズアップを使わない。俺もクローズアップって陳腐になりやすいから慎重に使うべきだと思うので、そこは勝手に共感。そして贅沢な長回しと贅沢な省略のリズムで物語を紡いでゆく3時間56分、たまんないッス。

2017年11月7日火曜日

人権とは何か?

『人権と国家』スラヴォイ・ジジェク著、集英社新書、720円+税
近年、ヘイトスピーチの問題が浮上してきたように、おいおい、みんなちょっと人権意識足りなくない?と感じることもあり、でも、じゃあ〈人権〉ってなんだ?と言われると簡単には説明できない。そんな折、自宅の棚に本書『人権と国家』があったので、あらためて手に取った。昔、インタビューだけつまみ読みした記憶はある。哲学者スラヴォイ・ジジェクへのインタビューと彼のコンパクトな論文2本から構成され、出版後10年以上経つ。でもまぁ中身は古びていないだろう。

本書に収録された論考「人権の概念とその変遷」によると、人権を訴えるとは「さまざまな原理主義的形態への対立軸」を立てることであり、基本的人権とは「選択の自由の権利」であると同時に「みずからの人生を快楽と幸福の追求に捧げる権利」だという。だが「しばしば原理主義の〈悪〉を捉えるその視線にこそ〈悪〉が潜んでいる」し、「選択の自由」は文化的な環境次第でむしろ選択の不自由として問題になるし、「快楽の追求」は、現在の政治そのものが〈享楽〉をめぐる闘争の場と化している。

――自由主義的で寛容な西洋と原理主義的イスラームという対立の図式も、つきつめれば、一方は女性にとってみずからを提示あるいは露出することで、男性を挑発するもしくは平静を乱す自由を含むセクシュアリティの権利、他方はこの脅威を撲滅するか、少なくともコントロールしようとする男性側の必死な試みという対立に尽きるのではないだろうか。(『人権と国家』p.140)

ゆえに政治のねじれとともに人権の扱いもひどく翻弄される。グァンタナモ米軍基地の捕虜を襲った〈人権の剥奪〉や植物状態に陥った女性の延命装置を外すか否かで国家機関が大騒ぎした〈人権の過剰〉など。ジジェクは「人権とは究極のところ権力の剰余に対する防御ではないだろうか?」と語るが、では、権力の剰余とはいったい何なのか?

——〈法〉のレベルでは、国家の〈権力〉は主体の利益その他を代表するに留まるが、超自我の次元では、責任などに触れる公の文言は〈権力〉の無条件な行使に関する不愉快なメッセージによって補足されているのだ。その内容は、法は実際に我を拘束しない、お前を好き勝手に扱うことができる、有罪だと決めつければしかるべき処遇を与えるし、独断で破壊してやる…というものである。この不愉快な剰余は主権という概念に欠かせない要素である。(『人権と国家』p.159)

つまり、こう言えないだろうか。国家権力が国を統治するにあたり国民を不当に攻撃したり支配することから守るため、その法に〈国民主権〉を書き込むならば、社会を統治する権力が市民を不当に攻撃したり支配することから守るために〈人権〉は存在するのである。

2017年10月29日日曜日

枝野の覚醒

今朝のサンデーモーニングを見ていて、田中秀征氏の立憲民主党についての分析が気になった。ざっくりいうと、リベラルには保守系リベラルと革新系リベラルがあって、現時点の立憲民主党は革新系議員ばかり。枝野は、今は他勢力との合流に慎重だが、政権を獲るくらい大きく成長させるためには、保守系リベラルも入れないとダメだと考えているはず。なので、しばらくは動向を見守りたいという。ちなみに、保守系リベラルと革新系リベラルの違いは、革新系が「人権や環境問題」にこだわり、保守系は「言論や表現の自由」にこだわる、らしい…

まぁどうなんでしょう?状況は刻一刻と変わるからなぁ。枝野が選挙後に繰り返し強調しているのは「草の根から」の政治が重要で、永田町の「数の論理」には与さない、ということだけど、田中氏の分析は、なんだかんだいって後者の視点だと思う。保守系と革新系の違いも、一市民から見れば、だからどうなの?って感じで。

選挙戦の枝野幸男が纏っていたのは、ある政治家が市民の前で言葉を発し、その言葉を受けた聴衆の反応を感じ取り、両者の相互作用によって一人の政治家の主体を構築していく過程のリアリティだったのではないか。枝野が立憲民主党を立ち上げて直ぐの演説と選挙戦終盤の演説を聴き比べると明らかに違っていて(結党直後の演説も良かったんだけど)終盤の演説はもう聴衆一人一人に「いっしょに闘いましょう!」と語りかけるようなものだった。新宿という巨大不特定多数の市民の渦の中、ある意味、あんなに無防備でいられる政治家の姿を見たのは初めてのような気がした。枝野が発見しつつある(かもしれない)新しい政治のかたちに期待したい。

2017年10月23日月曜日

「民意」の表れ

木下ちがや 著、大月書店、2,400円+税
俺が思うに、安倍政権の暴走が日本の政治や経済や文化をガンガン破壊し続けているにもかかわらず、いざ選挙を行なうと自民党が大勝してしまうというのは、まさに民主政治の摩訶不思議。いったい「民意」ってなんだ?という疑問も生じる。たとえば、今回の衆議院選挙の結果を見ると、いわば「地縁の戦い」ともいうべき小選挙区では、自民党が定数289の中の218議席を獲得、これは全体の75%にあたる。安倍政権の支持は揺るぎない。ところが「政党・政策の戦い」とでもいうべき比例区をみると定数176の中の66議席を獲得、これは全体のたった38%であり、小選挙区の約1/2にすぎない。つまり、選挙制度というか統計の方法ひとつ変わっても「民意」の表れはまったく違うということである。本書は、そういう複雑で流動的で捉え難い「民意」の現在を、歴史的なポピュリズム分析や市民運動の知見や体験を通して探ろうとする一冊。

2017年10月21日土曜日

投票日前日。

Carlos_Latuff
今回の選挙戦の動向を見ていて、少しずつ《政治》が庶民の文化として根付きつつあるのかな、とは感じる。今まで、学校でまともな政治教育なんて行われてこなかったはずだし、家庭や職場や、社交の場でも政治について語るのは憚れるみたいな空気が蔓延していたし、《政治》がそうした日常生活から遊離し、虚ろな場所にあったからこそ暴走し始めたのだと思う。けだし必然というほかない。ひと昔前、小泉純一郎が「劇場型」と呼ばれる政治戦略を仕掛けて成功し、さらに過激に進化させたのが、安倍晋三や小池百合子の「独裁型」戦略。それらは権力を集中させるのに特化した技術にすぎないから、それで庶民の生活が良くなるはずがない。さすがにこれはヤバいと危機感を抱いた市民や、彼らに呼応する対抗勢力が現われたことで、ようやく《政治》がリアリティあるものになった。崖っぷちではあるけれど、希望がないわけでもない、ちょっとだけポジティブな気分の投票日前日。まぁあいにくの雨だけどね。

2017年10月7日土曜日

カーテン

日本のラジオ『カーテン』の他の観客の感想で「気持ち悪い(のが良かった)」という文言をよく見かけるんだけど、俺にはそれがさっぱりわからん。いや、わからんわけではないのだが、俺にはむしろ、たまらなく気持ち良い。屋代秀樹氏の他の作品と比べても、物語の断片化が強いからかなぁ。登場人物が心情吐露するような流れがあっても普通10で語らせるところを7とか8で断ち切るかのようにして別の話につなげてみたり。今回の三鷹市芸術文化センターは空間がそこそこデカいから、最初から多数のダイアローグシーンをモザイク状に配し、それらをどう連携するかというパズルで遊んでいるように感じた。たとえば、アイスキャンディの使い方とかね。あれもほとんど言葉遊び的で、あのアイスがメロン味だろうがマンゴー味だろうがチョコミント味だろうがその正解はおそらく措定してなくて言葉のやりとりだけが空疎に空虚にしかし真摯さを失わない程良い熱量をもって交わされる。そんな、冷たいのに熱い、熱いのに冷たい、という感覚が「気持ち悪い」の正体なんだろうとも思うが、なかでも特にユーモラスなのは、武装勢力によって占拠された空間に閉じこめられた人質たち。事件の渦中にあって、誰一人として脱走を試みたり、生き延びるための方策を練ったり、不安に慄いて取り乱したりもしない。むろん、別のことでも考えなきゃこんな状況に耐えられない、冷静を装っているだけなのだと弁明はするけど、その現実逃避によって生まれた生煮えのような劇的空間に、囚われ人たちが背負っている記憶の破片が流れこむというのが、たぶん、この作品の仕掛けの構造。そのひび割れた言葉は故郷の〈島〉の土地に埋めてきたはずの愛や憎悪や幾ばくかの悔恨の情にも彩られて鈍く輝き、次第に辺りに大地の匂いがたちこめ始める。物語が進むにつれ、おそらくはあのテロリストたちも、というか、あのテロリストたちこそが真の囚われ人であるという事実が浮かび上がるわけだ。〈島〉vs〈陸〉という政治的磁場から無縁の外国人だけが自由奔放にふるまうことが許される、出口なしの空間。その牢獄を破壊することのみが囚われ人たちに残された最後の抵抗なのだろう。そんな、熱さと冷たさが混じりあう、過去と現在の交錯する歴史の末端にわれわれは生きている、と『カーテン』は語りかけているのだと思う。

2017年9月30日土曜日

市民の自発的服従について

日本の右翼政治の目指すところは、国家権威主義とでもいうべき市民の政府への自発的服従を理想とする反民主主義社会である。国内的には、市民が相互監視の目や密告の口として働き、不穏な空気を察知するやいなや逮捕拘束を散らつかせて支配を誇示する警察国家。国外的には、隣国との対話を軽視し、不都合な歴史を突きつけられると逆切れして失笑を買い、国際的孤立を深めることにはひどく鈍感。そのため外交はアメリカ依存から抜け出せず、沖縄の基地をいまだ手放せないし、欠陥の明らかなオスプレイ購入も容認、軍事予算は青天井。それでも国家主義を推し進めるため、経済的支配力をもつ大企業に対しては懐柔策としての減税。政治的にも経済的にも被支配階級の市民には容赦のない増税。バランスを崩した国内経済が成長するはずもなく、庶民の生活は次第に苦しくなり、教育・福祉予算も削り取られ、その結果、日本は世界有数の自殺大国に…

2017年9月29日金曜日

マイナー思想としてのリベラル

Carlos_Latuff
ごく一般論として、一党独裁がそのまま継続するのと、同じような極右志向だったとしても政権交替があるのとないのとでは、政治の形骸化や腐敗の進行度はあきらかに違うはずなので、希望の党に転向しようという民進党の議員を一概には責められないと思う。彼らの真意も個々それぞれに違うだろうし。ただ、重要なのは、自民党の安倍晋三と希望の党の小池百合子の両者には政治思想的に差がないことや、二人とも掛け値なしのポピュリストで、自分の人気を維持するためなら嘘も詭弁も、目障りなモノに圧力をかけることもまったくためらわない危険人物だということ。そしてその事実が、彼らのメディア戦略によって国民に周知されないでいるということだ。一方、日本の政治の趨勢を決定づけているのがテレビのワイドショーを見て判断するようなおっさんやおばちゃんたちであるということも、その裏返しなのだろう。まぁそれにしてもリベラル勢力のあまりにあっけない崩壊ぶりに唖然としてもいる、ここ数日間。おそらく、こうした状況への対処は、もうそれぞれができることをやるしかないということに尽きる。戦後、日本国憲法によって庇護されてきたリベラルな価値観などいまやマイナー思想なのだ。この日本においては。そこから始めるしかない。

2017年9月22日金曜日

愚者の断末魔

ルノワール《ルーベンス作「神々の会議」の模写》
いざ首相の責任が問われると、みずから明言した「丁寧な説明」など一度たりとも口にすることなく答弁から逃げ続け、憲法の要件を満たした臨時国会の召集要請にも応じず、それでも永遠に国会を開かないわけにもいかないので、今度は「(国会を)解散する」と言いだした。国会から逃げている間にやったのは、無意味なミサイル警報を鳴らして北朝鮮の脅威を煽ったことくらい。そういえば最近は、北朝鮮に対しても「対話より圧力」なんて言っている。嘘や詭弁が通じなくなると対話そのものを拒否し、おのれの握った権力で諸批判を押し潰そうとする。それが愚かな最高権力者の断末魔であることは明らかだ。けっして気持ちの良い風景ではないが、その現実をわれわれは目に焼き付けるべきだと思う。

2017年9月9日土曜日

私、共謀してます

もともと旧知の金原並央さんが出るってんで見に行った『ナイゲン(全国版)』がハンパなしにおもしろく、彼女は出演しない『わが家の最終的解決』も覗きに行き、そこでもガツンとやられるという具合にどんどん引き摺りこまれたコメディ劇団、アガリスクエンターテイメント。彼らが「その企画、共謀につき」と名付けた、ちょっと変わった公演の作り方をするという。劇団の稽古を公開したり、詳細な稽古日誌や執筆中の台本をWEB公開したりして、観客(共謀者)からの反応や意見を募りながら舞台製作を進めようという趣旨。その企画を知った時点では、アガリスクの稽古がどんなのか興味はあるけどねという程度だったが、まぁ新作を、出された料理を食べるように見るだけってのもつまらんなと「共謀券」を買ってみることにした。この「私、共謀してます」チケットで公開稽古が4回と試演会、そして本公演が1回見られるらしい。その結果、試演会まで皆勤賞!(笑)

ただ「公開稽古」とはいっても、最初の「稽古」は演目も決まっていない、普通にいう「企画会議」だった。メモ書きをタイプしたようなレジュメが配られると、3本の作品アイデアの概要が書いてあり「この『パズルとか伏線とか(仮)』ってのさぁ、よく読むとなんにも中身ないよねぇ」なんて話し合っている。驚いた。俺は、1本目は『友達が死んだ(仮)』2本目は『信玄が死んだ(仮)』うーん、なんで、みんな死ぬんだ?コメディなのに湿っぽすぎだろ?なんて思いながら雲をつかむような議論を聞いていた。こちらは部外の素人だし、3本目の『パズルとか伏線とか(仮)』など、なんかすっげーおもしろいやつ!パズル的っていうか伏線とかバンバン回収されてさぁ…というノリだけしかわからなかったかも。そして、そんなモヤモヤッとした会議の中で『信玄が死んだ(仮)』といちばんモヤモヤした『パズルとか伏線とか(仮)』のどちらかで進めることが決まった。

2回目の公開稽古というか企画会議というかはストーリーについて(作品は『パズルとか伏線とか(仮)』に決定)。とある商店街がモールに吸収されるかされないかでドタバタする話、あるいは、その商店街のアーケードを撤去するかしないかの問題で紛糾する話、あたりのアイデアに冨坂友氏(脚本・演出)の喰いつきが良いようだ。3回目は配役が決まって書き始めた前半部の軽い読み合わせ。最後の4回目がいわゆる「立ち稽古」だった(ただ台本の完成にはまだ時間がかかりそう)。公開稽古4回のうち、2回はベタに会議、1回はいわば試作台本の検討会議というべきか、で、やっとたどり着いた稽古らしい稽古が「架空の商店街の組合員による会議コメディ」なので、もうずっと会議をしているような。だから、アガリスクの稽古を見た感想は「きみら、どんだけ会議好っきやねん?!」というものだ(笑)

この作品、正式タイトルは『そして怒濤の伏線回収』に決まり、試演会も見た(本公演は9/15〜24、新宿シアター・ミラクル)。まだ荒削りながらも、当初のモヤモヤッとした会議のモヤモヤッとした「おもしろいコメディを作ろうぜ」という意志は強く生き続けているのではないか。これは凄いことだと思う。アガリスクエンターテイメントの代表作『ナイゲン』のアップデートにとどまらず、コメディ批評的な『七人の語らい(ワイフ・ゴーズ・オン)』の方法論などをぶちこみ、新しいコメディを開発しようという心意気。モヤモヤッとした雲を潜り抜けたのだから、最後は澄んだ青空が見たい。そこは心地良い狂騒と笑い声とが渦巻いているかもしれないけどね。

2017年9月7日木曜日

学園恋愛バトル×3

王子小劇場で上演中の劇団だるめしあん「学園恋愛バトル×3」の初日を観てきました!3本の短編作品、どれもおもしろいんですが、なかでも『絶対恋愛王政』は、もう小劇場界のカルト的名作として語り継がれる貴重な上演だとも思うので、超おすすめです!(今回が再演なので、見逃すと次いつかわかりませんよ!)物語は、とある学園を支配する生徒会女子軍と、地下活動を余儀なくされるアニメ研究会男子軍の仁義なき闘いが繰り広げられる、というもの。その「文化的」抗争の果てに何があるのか?爆笑しながらいつのまにか胸打たれる展開で、今夜、見て思ったのは、これっていわば、欧米の圧倒的軍事力を後ろ盾にした国家の政府軍と国内の少数派でイスラム教徒を中心とした反政府軍の内戦の物語みたいだなぁと。あれもキリスト教対イスラム教の対立だったりするわけで、その反政府軍のリーダーを柳内佑介さんが演じていて、本当に素晴らしかった。ネタバレになるから言いたくないけど、彼が謝罪するシーンは屈指の名場面です。まぁそこに至る前段階から素晴らしいですし、ほんと見て損しませんから、お時間ある方はぜひ!

2017年8月22日火曜日

掃除機、再び。

makita CL107FDSHW
以前の掃除機は処分してしまいずっと使ってなかったけど、最近はハンディタイプのものでもワリと良くできているらしいというのを聞きつけ、買ってみることにした。このMakita製はDyson製に比べれば激安だし、まぁモノは試しという感じ。ほんとはね、埃の溜まりやすいフローリングだからこそ、箒や雑巾でこまめに掃除すればいいんだが、この部屋へ引っ越してすでに5年、できんことはできんのだ。

2017年8月7日月曜日

嘘で縛るな。

本文と関係ありません ^^;
自分と同世代(1965年生まれ)がどうなのかはわからんけど、俺より下の世代はものすごくたくさんの「嘘」に縛られているような気がする。俺より上の世代は、俺らを含めて下の世代をたくさんの「嘘」で縛ろうとしてきたような気がする(俺はずいぶんそういう匂いに反発を感じてきた)。彼らは他者を都合良く支配しようとしていると思った。こんな語り方は暴言紛いの世代論にすぎないけど、戦後日本の民主主義が未熟だったとすると、いや、どうみても未熟だったのだから、そういう「副作用」があったとしても不思議じゃない。家庭の上下関係、学校の上下関係、会社の上下関係、社会の上下関係を決めるのは主に年齢というか世代差だからだ。保守派の時代錯誤な価値観を聞いているとなおのことそう思う。

2017年8月4日金曜日

初期元春の作品群

まだ持っていなかった佐野元春の1980年代のCDを大人買いした。もともと持っていたレコードは、音楽メディアがCDに切り替わるとき処分してしまった。聴きたくなったらまた買い直せばいいやと思ったからだが、そのまま二十数年過ぎた。そして、チラッと『Cafe Bohemia』を聴き直し、あまりに濃密な、初期元春の集大成となっていたことに驚いた。有名どころの曲では「YOUNG BLOODS」や「CHRISTMAS TIME IN BLUE」などを収録した1986年の作品である。俺は「STRANGE DAYS」や「月と専制君主」がもう死ぬほどめちゃくちゃ好きで…とか、まぁそういうことはいいとして、ただ、このアルバム以降はそんなにのめりこんで聴いたという覚えがない。むろん、新作は全部買ったし、好きな曲もたくさんあるが、『Cafe Bohemia』までの作品は、俺に音楽の未知の風景を見せてくれたのだ。初期の元春は、彼が刺激を受けた欧米のロックンロールをダイレクトに再構築したような作品群で、たとえば「YOUNG BLOODS」なんかほとんどスタイル・カウンシルだと思うが、当時は、俺だって海外アーティストを貪るように聴き漁った時期だし、まったく気にならなかった。いま思えば、元春とともに、自他の未分化なまま同時代の音楽が共鳴する空間を生きていたような気もする。アーティストとしての佐野元春はその後、さまざまな試行錯誤を繰り返し、俺がふたたび鮮烈な音楽体験に打ち震えるまで、2007年の『COYOTE』や2013年の『ZOOEY』を待たねばならなかった。その間、二十年。創造するってのはほんと大変だと思う。

2017年7月30日日曜日

Mellow Waves

WARNER MUSIC / 2,800円+税
昔話になっちゃうけど、フリッパーズ・ギターなんてね、音楽性云々以前に、もう激しく嫉妬の対象だったので、ひたすら敬遠しまくってきたわけだが、最近、コーネリアスが新作アルバムからシングルカットした「あなたがいるなら」を聴いてぶっとんだ(ほんと歳をとるのも良いもんだねぇ)。ひさしぶりに、ラブソングに震えた。これ一曲のためにアルバムを買う価値があるんじゃないかと思った。ラブソングって純化させると、個人差とか性差とかも超えて、ただただ純粋な人間の心の動きというか、精神の得体の知れぬ昂まりみたいなものに還元されるんじゃないかと思っていたのだが、そういう音楽的イマジネーションの地平を作品にしてくれた。このアルバム『Mellow Waves』も「あなたがいるなら」の世界の分岐と変奏によって構成されたような一枚で、聴けば聴くほど素晴らしい。

2017年7月21日金曜日

ハンディレコーダー

ZOOM H5(Recorder)+XHY6(Mic)
音響機材導入のメインディッシュがこのレコーダー。脳みそがウニになるくらい悩んだけど、結局は使ってみなきゃわからない。てゆーか、買ったら、もう目の前のブツでなんとかしなきゃしょうがないしね。ハンディタイプのものでも最上位機種はこれよりもうひと回り大きくて、処理できるトラック数も多く、機能が多彩だったりする。でも、基本的な音質が大きく劣らなければ、コンパクトなほうが使う機会も増えるだろうというのが選んだポイント。あと、カムコーダーに収録した音と混ぜたりするだろうから、レコーダーの音ばかり高級でもしょうがないかな?というのも一考。とはいえ、交換式マイクやらなにやらも買ったら、5万円近くになった。良い音を録って、元も取りたい… ^^;

2017年7月16日日曜日

マイクブームセット

ショックマウント付きのハンドグリップCAVISION SPSR21をマイクブームDAIWA MB264Bに取り付けた(これ2.6mまで伸びる)。先日の5mケーブルと合わせて約3万円のマイクブームセット。たとえば、映像は別撮りにして録音のみの作業だとしても、やはり「音を撮影する」という考えでやりたい。台詞の収録でも、立って録るのと、座って録るのと、動きながら録るのとでは違うはずだが、そこをあまり「キレイな音声を収録するため」みたいな発想で一元的に処理したくない。

2017年7月8日土曜日

マイクスタンドとケーブル

Roland ST-100MB
最近、音響関係の撮影機材をいろいろ揃えていて、このマイクスタンドもそのひとつ。選んだポイントは、軽い!普通、3.2kgなんて製品が多いのだが、これは仕様書によると1.65kgで、ほぼ半分の軽さ。まぁたしかに、3kgくらいあったほうが安定感は増すだろうなぁ。でも、スタジオの備品じゃなく、持ち運び前提なので。あと、手で扱うタイプのブームも1本は欲しい。
このマイクケーブルにたどりつくまで、けっこう苦労した。業務用ガンマイクはモノラルが主流なので、ケーブルも当然モノラル。だが、俺のガンマイクはステレオなので、ステレオのXLRコネクターをモノラル変換できないかと調べているうちに、ケーブルを自作しようみたいな話まで出てくるし、こっちの頭までこんがらかってきた。あきらめて新たにマイクを買うと、定評のあるものは10万円以上する。結局、別のガンマイクではないステレオマイクの付属品を売っていたので、それを購入。

2017年7月7日金曜日

安倍辞めろ!は左翼じゃない。

俺もよく「小池百合子の極右め!」とか口走っちゃうけど、同様に、体制派の人は「安倍辞めろ!」なんて言うのは「左翼だ!」と主張する。でも、俺は「安倍辞めろ!」と言っただけではゼンゼン「左翼」じゃないと思う。まぁ右翼/左翼なんて俗語といやぁ俗語だし、語源を遡って厳密に定義してもあまり意味がない。ただ、日常の言葉としての意味を明確にするなら、現在の日本国憲法を基準に考えるのがわかりやすいのではないか。日本国民が主権者であることを示し、その諸権利を守るためにこの憲法があるのだから「憲法を守れ!」というのはゴクゴク普通の態度である。だから、そこであえて「憲法を変えろ!」というのであれば、憲法の何をどう変えるかという傾向において「右」と「左」に分かれることになる、という考え方。つまり、復古主義的な改憲を求める自民党は明らかに「右翼」だし、違憲の疑いがきわめて濃厚な立法(特定秘密保護法・安保法制・共謀罪など)を連発していることからも「極右だ!」と見るのは当然で、実際、海外の報道ではそう語られている。そして、われわれが「安倍辞めろ!」と言い続ける理由は、安倍政権のスキャンダルや現行憲法を軽視する姿勢に対してなのだから、やはり、右でも左でもない「中道」のポジションと呼ぶべきだと思う。それでも、体制派はこれからも「左翼だ!」と切り捨てるだろう。でも、われわれはわれわれの生活と権利を守りたいだけなのだから、「通販生活」が言うように、それを左翼と呼びたいなら左翼でけっこう、と答えればいいんだけどね。

2017年6月22日木曜日

思想なき国ニッポン

Carlos_Latuff
それにしても小池百合子なんかが、けっこうマジに人気があって愕然とする。彼女、ゴリゴリの右翼で日本会議のメンバーだし、でも、東京都民はあまり気にしないらしい。まぁ石原慎太郎に4期も知事をやらせたくらいだから不思議じゃないか。ただ、だからといって東京都民の大半が右翼思想支持かというと、たぶん、そうじゃない。それで、いろいろ考えたのだが、結局、東京都民ひいてはもしかしたら日本国民って、思想はもってないけど「右翼っぽい態度」が好きなのかも、と思った。橋下徹とかもそうだよね。中身はチャランポランなのに「断言する」人に惹かれる。でもさ、それってほんとヤバい。石原知事は東京をメチャクチャにして逃げて行ったし、小池知事も豊洲問題をごまかしかねない。で、逆に言うと、最近「左翼」というレッテルが悪口になったりするけど、あれもたぶん「左翼っぽい態度」なんだろな。悪口自体に中身はなくて、実質「(俺の好きな安倍首相を批判する)お前が嫌い」の言い換えだったりする。そこに思想なき国ニッポンの難しさがある。でも結局は、地道に思想を育てないといけないんだと思う。それは特定の思想を教育するという意味ではなく、個々人が「主体」をもつということ。主体というのは責任の所在であり、そこを土台にして物事を学んだり世界についての想像力を働かせたりすること、かな。まぁ主体というのは近代の概念だから近代思想ではあるけれど、現代社会が近代システムで動いている以上、基礎概念として扱うのはいたしかたない。その上で、近代批判を積み上げていく必要もあるとは思うけどね。

2017年6月19日月曜日

佐野元春 & COYOTE GRAND ROCKESTRA

DaisyMusic、3,056円+税
春に、ちょっと前衛的なSpokenWordsのライブに行ったので、最近のロックンロールライブはどんな音を鳴らしているんだろうと、2016年3月26日東京国際フォーラムの演奏を収録したCDを購入。
まぁ久しぶりに聴くといろんな感情が溢れちゃって簡単にコメントできませんが、あまり意識してなかった「WildHearts—冒険者たち—」って、これ名曲じゃん!と思ったので、YouTubeの動画をリンクしておきます。
なかでも「彼女は今うつむいてる/言葉が闇をすり抜ける/ひとつのキス、重ねるごと/静かな雪が降り積もる」から「すべての〈なぜ?〉にいつでも/答えを求めてたあの頃/いつか自由になれる日を/あてもなく夢見てた」にいたる、歌詞がグルーヴの効いた流れになって最後解放される感覚がたまらんです。

2017年6月17日土曜日

ミズウミ

作・演出:屋代秀樹 出演:瀬戸ゆりか、袖山駿 ほか
初めて見た日本のラジオの作品は『ゼロゼロゼロ』だった。舞台空間の使い方が抜群だった。予算をかけるのではなく、想像力を使ったそのやり方が凄い。小屋は池袋のスタジオ空洞。雑居ビルの細長い空間の上手と下手に出ハケがあるという造りで、上手の外に当たる空間、中央のアクティングエリア、下手の外に当たる空間、と三分割して考えるなら、その三空間の重要性がまるで均等であるかのように物語を紡いでいた。お話自体はいわゆるヤクザ物だから、暴力と生死の問題を扱うことになるので、この三つの空間が、生の空間、生と死の接する空間、死の空間、とそれぞれ割り振られる。そして物語の進展に応じ、生死のせめぎあうボーダーラインが三つの空間を移動するという構造。サスペンスの仕掛けとしてこんなに洗練された芝居を見たことがなかったので、本当に驚いた。まるでヒッチコック映画のようだ。

『ミズウミ』もまた日本のラジオならではの空間芸術の粋を見せてくれた。小屋は御徒町のギャラリーしあん。古民家の居住空間である。ここは庭園もあるので、その庭と室内をどう絡めて使うか、が肝要にもみえるし、実際ここを使う劇団のほとんどが知恵を絞るところだろう。『ミズウミ』でも効果的に使っていたが、ただ、それは必ずしも本質的な装置ではなかった。むしろ、古民家の古さこそが、その場所の歴史性、時間の底に沈んだ謎の保管所として大事だったと思う。ここでは『ゼロゼロゼロ』のような意味論的分割もなく、古民家というか、古屋敷の一室でほぼすべての重要事が描かれる。

だが、芝居が始まるやいなや『ミズウミ』の世界は別のかたちに分割されてしまう。一冊の日記帳によって「昭和の終わり」と「平成の終わり」に、である。『ミズウミ』に描かれる物語の大半は昭和の終わりを舞台とした幻想譚であり、その記録が書かれた日記帳の読み手である平成の人間が、舞台空間に共存するという構成をとっている。

ところで、この芝居を見ているうちに、ひとつのことに気づかされた。それは真に劇空間を分割したり、再結合したりするのは、舞台のセットや脚本上の設定ではなく、もっと深いところに言葉が存在することへの驚きであり、それこそが演劇作品のイメージの源泉なのだということ。その言葉の力を使って『ミズウミ』が語るのは、小さな湖を大きな海に結合するための魔術的方法であり、その秘法に触れるため、われわれ人間は人間自身の内奥に深く潜らねばならない、ともいう。人間個々人は小さな存在に過ぎないが、その小さな記憶の集積回路には時間と空間を超え、大海へとたどり着く可能性が眠っているのである。

劇中、小鹿スドウは言う。

「そう、昔はただの湖だったのが、ある日突然塩湖になったという話が伝わってるんですよ。だいたい明治初期くらいですかね。突然、まるで海の水が流れ込んだかのように」

2017年6月13日火曜日

大本営発表


辻田真佐憲 著、幻冬社新書、860円+税
素晴らしい本だった。とはいっても、読み終えて、ドーンと重い気持ちにさせられてしまったが、それは日本のメディアと政治の癒着がいかに悲惨な命運を辿ったかということを、史実に基づき、坂を転げ落ちるかのような必然として立証したからだと思う。現実の残酷さをまざまざと思い知らされた、というか。普通の読みものであれば、いかに「大本営発表」がデタラメだったかに焦点を当てるだけでも良かっただろう。だが本書は、なぜそんな報道になったかという本質的な原因とその後の推移を逐一検証していく。なので、読み進めるうちに、現代の日本社会だって何も変わってないじゃないか、という気がするのだ。たった一つの発表が正確性を欠いたって大きな問題にはならない。だだ、それが常態化することの恐ろしさ。もともとは、日本軍も連戦連勝していたため戦果を粉飾する必要もなかったのだが、戦況が変わると、次第に大本営自身も正しい戦況を把握できなくなった。そのため重大な戦略判断まで誤り、みずから自滅の沼に足を突っ込んでしまったのである。そんな大失態をわれわれは戦後も犯している。まだ記憶も生々しい3.11によって露呈した原発政策のことだ。日本政府が世論を誘導して築き上げた安全神話の常態化が、原発の致命的な電源喪失を招いたのだから。それにしても、戦争末期の特攻礼讃や本土空襲、原爆投下などの悲劇は、まともな報道さえ機能していれば回避できたかもしれない。太平洋戦争の日本軍は、正しい情報を失い、まるで盲目の狂犬のように敵味方かまわず襲いかかっていたのである。

2017年6月11日日曜日

フォアローゼス プラチナ

いつも家に常備しておく酒には、ビール、日本酒、芋焼酎、紹興酒、赤ワインなどがあって(基本、食中酒)、あと偶に飲むバーボンがある。バーボンはその樽の香りが好きなのだが、2,000円を切るような廉価なものは、舌が少しピリピリし、なかなか減らなかった。そこで、ちょっと高級品を試してみようと思い、これを買ってみた。一本、約7,000円する。が、さすがである。まろやかさは半端なく、とても飲みやすい。口にする頻度も以前よりずっと増えた。買ったのは去年で、最近飲み切り、そこで、またプラチナにしようとも考えたが、他にも飲み比べてみたくて、買い直したのは結局フォアローゼスのブラック。こちらは約3,000円である。たしかに、安いバーボンと高いバーボンの中間くらいのまろやかさだろうか。ちなみに、プラチナは日本向けの限定生産品らしい。なるほど、そうかもね。ただ、ピリッとした刺激もそれはそれで味わいの一つだし、不味いとは思わない。まぁ好みというほかないでしょう。値段のことを考えると、次もブラックになりそうな気もするが、ウィスキーは開封しても味が劣化しにくいし(自信ないけど、そうだよね?)その時の財布と気分と、相談して決めようと思う。

2017年6月6日火曜日

スピーカースタンド導入!

LS-EXA3
「スタンド」とはいっても、ご覧の通り、木製の台座にインシュレーター(絶縁体)を取り付けただけのものである。インシュレーターというのは、スピーカーの下に置いてその振動を緩和するもので、今まではこんな安価なやつを使っていた。
ただ、これって、すぐホコリ塗れになってしまう。それでも掃除をすると、こんどはスピーカーの下にバランスよく配置するのが意外にめんどくさい。ちょっと触れるとズレるし、あるとき、どうせ音質なんてたいして変わらんだろうとタカをくくって外してしまった。でも、いざなくなってみると、妙に音が気になる。フローリングの床ごと音が鳴っているような気がするのだ。そこで、このスタンドを買った。
スピーカーに履かせるとこんな感じ。たしかに床が鳴ってる感覚は解消され、音全体も安定したような、気が、する。本来なら、ここで以前のインシュレーターを使った場合と聴き比べてみたいところだが、差がなかったら嫌なのでやってない… ^^;
でも、地べたに直接置くのとは明らかに違うと思う!

2017年5月24日水曜日

プロテスタンティズム

深井智朗 著、中公新書、800円+税
中世以来のキリスト教の宗教改革について、とても興味深く読んだ。宗教改革の歴史は政治改革の歴史でもあるという視点がその基底にあるのだろう。たとえば、第6章の「保守主義としてのプロテスタンティズム」など、現代ドイツ政治への見事な注釈となっている。

戦後ドイツのプロテスタンティズムは、単なる宗派の独善的な優位性の主張ではなく、多宗派共存のためのシステム構築の努力を続けた。プロテスタントとは、カトリシズムとの戦いを続け、その独自性を排他的に主張してきた宗派であるだけではなく、複数化した宗派の中で、共存の可能性を絶えず考え続けてきた宗派であり、むしろ、後者が私たちの今後の生き方だと主張するようになった。[中略]今日、プロテスタンティズムを保守と呼ぶ場合、それは[中略]異なる立場との共存というもう一つの自らの宗教的伝統のみならず、ルター以来の政治と宗教の作法を逸脱するような勢力の活動や発言に対して「否」を言うという意味でである。2016年にドイツ社会が難民問題で揺れ動き、並行して極右勢力の排他的で不寛容な政策が力を持つかに思えた時に、ルター派の牧師の娘として生まれた、キリスト教民主同盟のアンゲラ・メルケル(1954−)ドイツ連邦共和国第8代首相が、その動きを強く否定したのは、このことと深く関係している。

ここで言及されたメルケルの政治姿勢は、極東日本から見ると、ほとんどリベラルの主張ど真ん中にしか見えず、なんかすげぇと驚くしかなかったので、本書の考察になるほどなぁと唸った。16世紀以来の宗教改革の伝統があってこその、かぎりなくリベラルに近い保守主義といえるのではないだろうか。宗教改革恐るべし。

2017年5月22日月曜日

共感の物語を超えて

はたらいたさるの話(作・演出:池田美樹)
それにしても、なんでみんな「共感の物語」がそんなに好きなんだ?孤独が恐い?最近はセックスレス社会で、だから、セックスを正当化する「愛の物語」から〈性〉を差し引き「共感の物語」にシフトしてるってことなのか?でも、さすがに食傷気味。ざっくりいって、30歳代の劇作家なんてみんな共感の物語ばっかり書いているように思える。そんなことない?20代はまた微妙になんとなく違うような気がする。もう少し強引な、感じ?だから、世代の差かな?と思ったりもするが、50代の俺は、別に、他人のことなんて、わかろうがわかるまいが、そんなのどうでも良いじゃん、という感覚なのだ。そういや「しらけ世代」なんて、昔は言われたしな。でも、人が嫌いなわけじゃない。むしろ好き、俺はね。40代のことは、知らん(笑)そこで、劇団きららの『はたらいたさるの話』が感動的なのは、俺と同世代、50代の作家的感性ということではなくて…いやまぁ、なんというか、共感しても良いし、しなくても良いしっていう、その懐の深さだったように思う。わかんないけどさ、奴といっしょにいたら楽しいし、いっしょにいなくても、元気でいるよっていうだけでも嬉しい。そういう「人の存在」ってものに対する愛情や信頼感。すばらしかった。

2017年5月10日水曜日

フレームで考える

海街diary 8「恋と巡礼」より
写真や映画や漫画の話法に共通するのはフレーム表現の重要性である。何かを表現するためにフレームを巧みに使うというよりも、フレームでしか表現できないやり方によって何かを発見すること、の悦び。なんの変哲もない行為や行動を、ひいては物語そのものを、さりげなくも新鮮に見せてくれる。こういうのが、ほんとうに好き。大好き。

2017年5月8日月曜日

角矢甚治郎の眼鏡

つい先日、なにかの拍子に、眼鏡の腕をボキッと折ってしまった。もう10年以上愛用しているものだ。10年というのは、要するに、いつ買ったのか覚えてないほど昔、という意味でもある。なので、あちこち劣化するのも無理はない。その場はアロンアルファで凌いだものの、新しい眼鏡を探し始めた。基本、いつも同じものを使うので、あまり個性的なデザインにするつもりはない。今回も同じスタイルで探したが、意外にフィットしたものが見つからない。もし、今までと同じフレームがあったら、迷わずそれにしただろう。そんなこんなで、微妙に妥協しつつこの日本製に決めた。これを着けて親しい人に会っても、新調したことに気付かないかも。だが、自分的には、かなーり違うのだ。ま、地味男にはそれくらいがちょうど良いのかもしれん。

2017年5月1日月曜日

ムーンライト

監督:バリー・ジェンキンス、出演:トレヴァンテ・ローズ ほか
全体が3部に分かれていて、第1部と第2部ではさほど乗れたとは言い難かった。カメラ微妙に寄りすぎ!動きも派手すぎ!と、要は、物語に対して映像文体が先走っているという印象もあったのだが、第3部で一気に乗れた。そこはもう、まさにメロドラマの世界。映画的なリズムと映画的な時間に満ち満ちていて、Moonlightと呼ぶのも当然だろう、成瀬巳喜男の映画を彷彿させるのだ!ただし、その主役は黒人男性二人である。映画としての完成度は『キャロル』のほうが上かもしれないけれど(同性愛をテーマにしたという意味で比べるとね)、『ムーンライト』にみなぎる、なんというか本気度に胸打たれた。素晴らしい。見て良かった。あと、第1部でヤクの売人を演じたマハーシャラ・アリが抜群に魅力的だった。この映画、絶対に彼が中心で話が進むんだろうと思ったので、そこはちょっと残念だったかなぁ。

2017年4月28日金曜日

民主主義について

「教育は政治的中立でなければならない」と言われることがあるが、教育基本法を読むと、民主的な社会教育をせよ、つまり、民主主義でやれと言ってるのであって、これは絶対に「政治的中立」ではない。軍国主義だって共産主義だってあるんだから。民主主義を一種の中立主義と勘違いしてる人もいるのかもしれない。みんな中立だなんて言いだしたら社会が動かないし、政治的中立というのはむしろ反民主主義である。だから、意見Aと意見Bに分かれた場合、俺、中立っていうのはナシで、その場合は意見Cをもたなくてはいけない、ということか。良くも悪くも、民主主義は社会参加を強制する。だとするならば、ラジカルな民主主義社会においては、芸術表現だって政治的中立だなんてものは褒められたものではないということは十分ありえる。教育にせよ芸術にせよ「政治的表現を排除せよ」みたいな法や規則は、少なくとも民主主義的ではない、と思うのだ。

2017年4月24日月曜日

権威主義について

Carlos_Latuff
昔も今も日本人って想像以上に「権威主義」が染みついているんじゃないだろうか?今のわれわれが直面しているのは、日本社会の権威の館に安倍が陣どり「権威の独占」をしゃにむに進めている状況である。安倍晋三はまさに権威主義者として行動する。Wikipediaによると「硬直化した思考により強者や権威を無批判に受け入れ、少数派を憎む社会的性格」を権威主義的パーソナリティと呼ぶ。俺が思うに「権威主義者」自身にはけっして真の権威は宿らないので、虎の威を借るほかない。そして、自民党や安倍政権の「虎」は間違いなくアメリカである。だから、彼らはアメリカに対して下僕のように従い、日本国民に対しては(政府の)下僕のように従うことを要求する。こうした隷属化の連鎖こそが権威主義社会の本性なのだ。われわれ日本人は昔からの弱点であるこの権威主義的パーソナリティを克服すべきだと思う。

2017年4月22日土曜日

午後8時の訪問者

La fille inconnue (2016)
『午後8時の訪問者』には冒頭からグイグイひっぱられた。そのサスペンスのストーリーに、という人も多いだろうが、俺はまずなにより技術力の高さに「すげぇ!」と驚きっぱなしだった。ダルデンヌ兄弟というのは手持ちカメラでドキュメンタリータッチの作品を撮る作家で、たとえば、ラース・フォン・トリアーが手持ちカメラで人間心理の暗黒面を暴きだすとするなら、ダルデンヌ兄弟は人間のいわば神的受難を語り継ぐ、なんていえるだろうか(フィルモグラフィのごく一部を見た程度の適当な要約、ご容赦!)。ただ、前作『サンドラの週末』は、メンタルに問題を抱えて休職していた女性がやっと復職しようという直前にリストラを宣告され、逆境のなか解雇の撤回を求めて奮起するという物語だった。だから、その受難の本質はあくまで社会制度に帰属するものの、そこでもまた神話的距離感とでも呼びたいクールな眼差しを内包、映画ならではの繊細さや自然さ、鋭さ、力強さを引きだしていたと思う。そして『午後8時の訪問者』ではサスペンス映画のストーリーに挑戦することになった。これがまたすごい。サスペンスらしくスピーディでテンポ良く話を進めるなかカメラもよく動き、役者の素早く複雑な動きを追って長回しを繰り返す。カメラを動かさなければ長回しもそこまで難しくないのかもしれないが、手持ちで動かしながらその間、的確なフレーミングを持続するというミッションが加わると、ほんとうに大変だと思う。なぜなら、流動的な動きのなかで、役者とカメラマンと監督、三者の意図や思考や感覚が一致しなければならないからだ。そんな現実的技術的困難が透けてみえるにもかかわらず、的確なフレームがビシビシ決まっていたので、もう感嘆するよりほかなかったのである。ただ、こうした技術論だけでいくら讃えようとも、この映画の真価を語った気にはなれない。『午後8時の訪問者』の主人公ジェニー(アデル・エネル)は、とある殺人事件の名もなき犠牲者を埋葬するためその身元を探るという、いわば「探偵」を始めることになるのだが、その一方、そこに彼女の本業である「医師」としての行動も絡んでくるからややこしい。二つの任務に共通する視点は、おそらく他者の「救済」であり、ここでもまたダルデンヌ兄弟による人間の受難に関する一考察がみてとれるだろう。そしてその「救済」行為は、時に、相手のプライベートな問題にまで足を突っ込み、激しく抵抗されたり、逆に脅されたり、遂には知りたくもない悲惨な事実まで知ってしまうことになる。こうした物語の二層のレイヤーを複雑に横断するさまが、手持ちカメラで迫るジェニーのアクションを通してシンプルに統合され、ダイナミックでスリリングな映画的身体を練り上げているのだ。それにしても、ラストのさりげないカットはあまりに感動的というほかない。技術など関係ない。俺はそこにこそ映画の魂が宿るのだと思う。

2017年4月18日火曜日

雨月物語 4K修復版

監督:溝口健二、出演:森雅之・田中絹代ほか、1953年
買ってしまった。従来のDVDも持っていてそれも、作品の感動を削ぐほど酷い画質というわけではないのだが、『雨月物語』はやはり最高の画質で見たい珠玉の作品だし、で、最初は、修復版の出来をチェックするだけのつもりだったのに、結局全部見てしまった。いやぁ何度見てもすごい。どこが良いとかじゃなく、もう全部すごい。でも、あえて言うなら、プロットの構成力という点で、これ以上の作品は世界映画史の中にも見当たらないんじゃないか、と今日は思った。俗世の欲に溺れる男たちの愚かさを幽玄の美のなかに描くことで、より深く、観客の胸を抉ることに成功した傑作。明日見たら、また違う世界一の映画に見えるんだろうな。

2017年4月16日日曜日

憎悪の論理

ベストセラー作家として知られる百田尚樹氏のツイートが話題だ。昔、日本が第二次大戦に突入したときも、百田みたいなアジテーターが怒鳴ってたんだろうなと、正直、うんざりした。あと、それとは別に思ったことが一つ。彼は、もし日本が北朝鮮の攻撃を受けたなら「テロ組織を作って」北朝鮮に反撃するのではなく「国内の敵」である「売国議員と売国文化人」を「潰す」と言う。その歪な論理が百田だけでなく、日本の右派勢力の本質にあるような気がした。おそらく、日本の戦後社会が啓蒙してきた民主主義や平和主義が心底嫌いなのだ。そのルサンチマンこそが彼らの政治性の原理であり、そこになんらかの思想が根付いているわけではないのだと思う。民主主義に対立するから国家主義を唱え、平和主義に対立するから軍国主義を志向する。だから、ミサイルを撃ち込んだ北朝鮮よりも共産党の志位和夫のほうが「憎い」のである。彼らがそういう「憎悪の論理」で行動しているということは理解しておいたほうが良いのではないか。

2017年4月14日金曜日

権力の嘘と腐敗

今日、仕事帰りに買った本。この二冊に共通しているのは「権力の嘘と腐敗」かな。『プロテスタンティズム』を手に取ったのは、竹良実の漫画『辺獄のシュヴェスタ』に触発された部分も大きい。中世のキリスト教会がその権威によって魔女狩りを行ったり、公的な知識を独占して好き放題やっていた頃の活劇冒険譚である。その腐敗した宗教権力に対する改革運動の理念、プロテスタンティズムは現代の政治思想にまで深く影響を与えているのだという。一方『大本営発表』の意味はみんな知っているか。日本の現政権の乱発するデタラメな国会答弁や閣議決定、それを批判し切れないマスメディアといった平成の「大本営発表」が常態化しているのは周知のこと。安倍の目指す国家観が大日本帝国であるならば、安倍政権の窮地と第二次大戦の窮地とが共鳴するのは当然かもしれない。こうした権力の嘘と腐敗の構造を歴史的に重ね合わせてみたいなぁというチョイスでした。

2017年4月9日日曜日

シリア問題への視座

Carlos_Latuff
シリア問題に関する内藤正典先生のツイートをまとめました(2017年4月9日13時30分現在、句読点や改行などは整理しています)

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シリア問題の最も重要なところは、繰り返しになりますが、膨大な犠牲者の存在。命を奪われた市民と、家や家族を奪われて隣国やヨーロッパにまで逃れた難民。この最悪の人道危機をどう解決するかに触れず、ロシアや米国の武力行使の是非を論じてもあまりに本質からそれるだけ。今回の米国の武力行使は、当然のことながら、我々の隣国、北朝鮮の問題にも深い影を落としています。突然、遠くのシリアの話が、日本の問題になってくるのです。プレイヤーになるのか、ならないのか?なるとしたら、どのようにコミットするのか?世界を知らないと判断を誤ることだけは確実です。

日本のメディア、ニュースや情報系番組が、シリア問題を取り上げるのはいいのですが、直近の化学兵器使用と米国の反撃だけを切り取って、善か悪かを議論するのは、とんでもなく実態とかけ離れた空論になります。なぜなら、アサド政権は化学兵器など使っていないと主張しロシアもそれをなぞっているのに対して、米国は「巡行ミサイル攻撃をした」と明言しています。そうなると、化学兵器については真相不明、米国の攻撃は明々白々となりますから、シリアやロシアを非難する声は消極的、米国を非難する声は加速されます。その影で、難民達の声は誰が伝えてくれるのでしょうか?

すでにヨーロッパでは、彼等は難民なんかではなく金儲け目当ての偽装難民だと公言する政党や組織が力を持っています。そういう人が難民の奔流に合流したことは事実です。しかし、隣国トルコ、レバノンなどに滞留する500万人以上の人達は、では、何者でしょうか?日本政府の援助機関であるJICAでさえ、トルコやレバノンに逃れた人々が、何から逃れたかを、真剣に見ようとしません。難民支援は政治から距離を置くからです。しかし、その政治的中立こそ、アサド政権やロシアの思惑通りとなります。シリア政府は難民を装ってヨルダンやレバノンに息のかかった人間を送り込みます。シリアの惨状が反政府側の「テロ」によると6年間主張し続け、日本の援助団体やメディアを洗脳しました。膨大な難民がいながら、彼らがアサド政権の攻撃の犠牲者でありながら、巧妙にその声を封じたのです。しかし、それをアサド政権の「嘘」と言ってみたところで、何の役にも立ちません。

シリアという国、第一次大戦時に英仏が勝手に引いた国境線の内側に、多数の民族や宗教、宗派が押し込められました。1946年に独立した後、国家統合は困難を極めました。少数派のアラウィーに属するアサドが政権を掌握し、多数を占めるスンナ派を抑え込み、クルド、アラブ、トルクメン、アルメニア、ドルーズ等の民族、スンナ派、シーア派、アラウィー、キリスト教ではシリア正教、アルメニア正教、カトリック、正教会等々の人達を統御しなければ国家の統合はできませんでした。アサド政権が恐ろしく強権的で逆らう者に容赦しないのは、これだけアイデンティティの異なる集団を統御するため必要だったからです。さらにダマスカスやアレッポは3000年以上の都市文明を育んだ都市であり、その中に生きる名望家、土地と結び付いた豪族、彼らの利害を調整する必要もありました。ダマスカスやアレッポの上を、何十という支配者が通り過ぎて行きましたが、都市社会そのものは独自の性格を維持し生き残ったのです。

第二次大戦後の冷戦時代の後半、アサド政権はソ連の庇護下に入り、ソ連を徹底して利用することでイスラエルや米国から守ろうとしました。しかし、一部のインテリを除けば、そもそもスンナ派ムスリムが多数を占めるシリアで社会主義は人を引きつけませんし、何よりシリア人は民族や宗派を問わず商人です。アサド政権は逆らわない限り経済活動の自由を認め、40年にわたり統治に成功したのです。

2017年4月8日土曜日

ベルネーズソース

先日行った佐野元春のライブはポエトリーリーディング主体のコンサートだったんですが、その2003年版の映像があるので、ご興味ある方はぜひ。まぁ「詩の発表」というより「ヒップホップの演奏」と言ったほうが良いかな。2017年版は、現在の社会の空気にビビッドに反応、パフォーマンスの切れ味も凄かった。一種のアジテーションというか、それこそがヒップホップ本来の在り方だろうと思わされた。俺も日々のニュースを読んでカッカしてるほうだし、元春もそうなんだろうなーと想像しながらの、怒りの共有。ただ、観客の大多数は、さすがに俺と同世代のおじさんおばさんになっちゃうところが残念。むしろ、若い世代に聴いてほしいアクチュアルな作品でした。このYouTube映像も、ヘッドホンでボリューム上げて聴き込むのがおすすめ!

今は音が出せないよ、というなら、詩を書き起こしたものがこちらに。読んでもかっこ良い!

2017年4月5日水曜日

佐野元春 In Motion 2017「変容」

2017年4月4日21時、第2部開演、セットリストは以下の通り。

再び路上で
ああ、どうしてラブソングは…
国籍不明のNeo Beatniksに捧ぐ
植民地の夜は更けて
ベルネーズソース
何もするな
まだ自由じゃない—Not Yet Free
SHAME—君を汚したのは誰
ブルーの見解
ハッピーエンド
僕にできることは
何が俺たちを狂わせるのか?

*とにかく終盤近くまでハードな詩で攻めまくる構成。元春自身も、銀髪に黒いスーツ、黒縁メガネ、黒いネクタイといういでたち。どうしたんだろう?と思っていると「SHAME」ではギターを演奏、奇妙なアクションを見せる。そのとき、それエルヴィス・コステロのモノマネだろ!と気づく(けっこう似ていた)のだが、コンサート中はなぜコステロなのか?まで意識しなかった。しかし、今回のセットリストが社会への警鐘や異議申立てに満ち満ちた作品の連打であることを考えると、喪服風の衣装や、コステロを引用した理由もよく理解できる。

2017年3月31日金曜日

ゼロとイチ

映画と演劇の違いというのは、映画がゼロから始まるのに対して、演劇はイチから始まる、ということではないだろうか。映画はあくまで虚像であるが演劇は実像である、という意味において。だから、映画の感動は信仰に近く、演劇の感動は祝祭に近い。

牯嶺街少年殺人事件:断片的記憶

初めて見たのは1991年の東京国際映画祭で公開された3時間版(188分版)で、翌年公開された4時間版(236分版)は「やや冗長になったな」という印象をもっていた。その後、四半世紀見直す機会がなく、レストアされた4時間版を2017年3月29日に見た。そして昔「冗長」と感じたのは俺の愚かな独断であり、間違いだったと強く思った。この4時間版のどこを切れば3時間に短縮できるか?と考えてみると、シャオスー(小四)の両親の絡んだエピソードを切らざるをえないのは明らかで、逆にいえば、エドワード・ヤンが4時間版で語りたかったのは、少年たちと親世代との関係なのだろう。少年たちの足下には台湾の歴史の傷が淀んだ澱のように広がっているのであり、彼らの「若さ」が暴れれば暴れるほど、その澱が舞い上がって視界を濁らせてしまう。だから『牯嶺街少年殺人事件』の4時間版と3時間版では作品コンセプトが違うと考えたほうが収まりが良い。おそらく3時間版は、シャオスーとシャオミン(小明)の事件に集中するよう全体を細かく刈り込み、タイトでドライブ感のある作品になっていたはずだ。シャオスーの住む日本家屋に暗く陰鬱な影が垂れ込めていたことだけは、今でもよく覚えている。ところで、今度の公開の売り文句でもある「4Kデジタル修復版」の修復作業はホウ・シャオシエンが監修したという。気になったのは、こんなに明るくしちゃって良いの?ということだった。画面の細部が見やすいのは嬉しいといやぁ嬉しいけど、でもたとえば、シャオスーのプライベート空間である押入れの中など、最初こそ暗く、盗んだ懐中電灯で日記を書くシーンになっていたものの、その後は均一な光でほの明るい小部屋という風情だった。昼間の外景もいわばパステルチックな優しい色でまとめられ、それが3時間版や他のエドワード・ヤン作品にあるようなクールな雰囲気とは微妙に噛み合ってないような気がしないでもない。とまぁこんなことを言いだすとキリがないのだが、それでも、時折見せる切れ味鋭い映像感覚には痺れた。アジアの温暖な気候の中にフィルムノワールの冷たい風が一瞬吹き抜けるのを感じ、得体の知れない戦慄を覚えるというか。映画の事件のキーとなる短刀を見た少年、ワンマオ(王茂)はこんな言葉を吐きだす。「日本の女が自害する刀だな」

2017年3月28日火曜日

娯楽と芸術

まず、エンタータインメント(娯楽)には大きく二種類あって、知性に訴えるものと感情に訴えるものがある。知性に訴えるものの中には、答えや結論が用意されているものとされていないものがある(たとえばミステリーvsドキュメンタリー)。感情に訴えるものの中には、喜びをもたらすものと哀しみをもたらすものと怒りをもたらすものがある。たとえば、勧善懲悪の物語は悪への「怒り」をエンターテインメントにしている。一般的に「喜怒哀楽」というからには「楽」もあるかというと、楽しいというのは固有の感情というより気分であり、喜びのトーンが支配的な雰囲気を指すことも多い。また、娯楽と芸術(アート)と呼ばれる分類について考えるなら、娯楽は一種のゲーム性が高く、鑑賞者が作品の虚構の中に参加するというかたちで「疑似的体験」を享受する。一方、芸術は鑑賞者が作品に対して内在的に関わるのではなく、作品に対峙してその美を味わう、つまり、外在的な「超越的体験」を享受する。そのため芸術鑑賞とは知的体験と感情的体験を融合したものとしての美的体験であるといえるだろう。

2017年3月26日日曜日

詩でも台詞でもなく、ただの言葉。

さっき、机の前に、この紙を貼った。今日はこれと格闘しようと思う!(が、早くも、おなかが空いてきた…)

2017年3月24日金曜日

森友問題を超えて

籠池泰典氏が国会の証人喚問に呼ばれたことで、森友学園問題も全国レベルの注目を集めるようになった。ただ、世の中の関心はあくまで籠池vs安倍のケンカであって、それが右派イデオロギーの教育や児童虐待、土地買収に関わる政治倫理の問題であることを忘れちゃイカンだろという警告はまぁその通りだと思うが、それでも俺には、昨日の証人喚問は事件だった。ベタな言い方をすると、安倍政治の腐敗なんて森友問題以前にも十分想像できたことで、それを安倍陣営が力ずくで封印していることにも驚きはない。だが、どんなかたちで崩壊するかまでは予想できないので、その序章が森友問題のようなスキャンダルであったことに驚いた。事件の一連の過程で俺が重視したいのは、右翼陣営の仲間割れである。ふりかえれば、いわゆる左翼が失墜したのは昭和の学生運動の内ゲバだったような気がするし、だから、これでようやくニュートラルな地平で政治を語ることができるのかもしれない。SEALDsなんかもバックに共産党がいるとデマを流され、昔の左翼の一部にすぎないという言説に絡め取られたわけで、その新しさが十分伝わったとは思えない。いわば、古い左翼の亡霊にジャマされたようなものだが、彼らも解散して「未来のための公共」に衣替えした(この名称、悪くないよね)。安倍陣営のヘドが出るような腐敗が森友問題だけのはずはないし、さっさと退陣してもらって、新たな政治空間をつくるのだ。次へ行こうぜ!

2017年3月17日金曜日

未来のための公共

「未来のための公共」という団体主催のデモが国会議事堂前でスピーチをやっていて、それを毎日新聞がネット配信したものを少しだけ見た。「未来のための公共」はSEALDsの後継プロジェクトでもあるらしいのだが、その映像を見て、そういや、劇団だるめしあんの『ひとごと。。』って、なんかSEALDsみたいだな、と感じたことを思い出した。『ひとごと。。』という演劇作品は「私のことを話します!」と宣言し、訥々と自分の「思い」を語りだすようなスタイルをもっていて、SEALDsのスピーチの中身はだるめしあんよりも公共的な意識がより強く、逆に、だるめしあんのスピーチはSEALDsよりも私的な意識が強い、といえる。ただ、そういう違いがあるにしても、両者はけっして対立しているのではなく、その関心のありかというか、そのテーマの重心がほんの少しズレているだけだと思った。で、そういう対比を通して、俺は「語ること」の重要性を強く感じた。つまり、怪しげな教育者に時代錯誤でカビの生えた「教育勅語」を語らされるのではなく、みずから今現在感じたこと思ったこと考えたことを人前で素直に語れるのは素晴らしいし、そんな行動がもっと普通にもっと自然にできるようになると良いな、という。なぜなら、右派的な国粋的な権威主義的な政府というのは市民の従順な隷属を求めているのであって、市民一人一人が自分自身の言葉を語りだすことは求めていないからだ。むしろ逆に、恐れているはずであって、だからこそ「計画したらそれだけで逮捕するぞ」という脅迫的な意図をもつ共謀罪なんて法律にこだわるのだ。その意味でも「未来のための公共」や「だるめしあん」には、今後とも期待したいと思う。