2017年1月29日日曜日

キャロル

監督:トッド・ヘインズ、出演:ケイト・ブランシェット、ルーニー・マーラ
とても美しく、完成度の高い作品で、すでにいろいろ語られているだろうし、おそらく、そこに付け加えることもないだろう。ここでは、ごく記録的な覚書きを。

映画はDVDで断続的に見た(残念だが仕方ない)。ざっくり言って、最初の30分が偶然の出会いから恋に落ちるまで。次の30分は、その恋が成就するまで。残り1時間が、恋の顚末。もっとも惹かれたのは、スタートダッシュの30分。短く断片的なカットの積み重ねで、二人の出会いが決定的な意味をもつまでを丹念にサスペンスフルに追いかけていて素晴らしい。まるでブレッソン映画のようだ。

次の30分は、実はそんなにおもしろいとは思わない。二人はすでに出会ってしまったのであり、あとは、彼女らの生きる環境を説明するだけだからである。ただ、物語を追うわれわれには必要な情報でもあり、文句を言う理由もない。後半も、けっしてダレたりはしないが、二人の逃避行からあっさり日常へ帰ることを決断するのは物語の時代背景に負うているのだろう。そこでは、抜いた刀を物語の鞘にどう収めるかが関心の的になる。

最後のカットはお見事。このカットの素晴らしさは、何を見せるかということと何を見せないかということのバランスが拮抗し、そのせめぎあいがシーンの緊張感になっているところだ。「カット」という映画用語はほんとうによく名付けたもので、映っていることよりも、その映写を中断することに意味がある。演劇でいうと暗転の使い方が見事というような話になるのだろう。ただ、それは実存をもたない映像のほうがよりラジカルな表現になるはずである。

それにしても、前半はいささかとっつきにくい女性にも見えたキャロルの人物像が後半どんどん人間味あふれて魅力的になっていくさまは圧巻だ。愛や勇気や思いやりが一体のものとして理想的に語られ、それが綺麗事には感じられない。ちょっとスキがなさすぎるくらいだが、それでもケイト・ブランシェット、恐るべしである。

2017年1月22日日曜日

自由は積み重ねられていく

Carlos Latuff
芸術文化はビジネスではない。エンターテイメントとして商品化されることがあるにしても、その本質的目的は作品を作ったりすることや作品を見たり聞いたりすること、そうした行為や行動の純粋性にあるのだからビジネスとは別物である。また、その行為は純粋であるがゆえに、特定のイデオロギーには拘束されない。既成のイデオロギーが孕む言説と芸術表現の扱う言説とが偶然一致するにしても、イデオロギーそのものが芸術を生みだすわけではないからだ。すなわち、芸術の純粋性は自由の創出に与する。こうした芸術文化の特性に社会的意味があるとすれば、それは自由の観念や概念を定着させ、自由の感覚、自由の感情、行為、行動、信念を育て、自由の新たな空間を構築することだろう。一方、これまで「自由の国」であろうとしてきたアメリカ合衆国の新大統領が芸術文化への共感を示さず、制度化されていた国家的経済支援を打ち切るのだという。むろん、芸術文化への偏見や自由の抑圧ということなら、日本社会も負けてはいない。自由なき暗黒の時代は、われわれのすぐ傍にある。そのうち「第二次世界大戦という死の時代以後に奔出した自由や平和、共存や繁栄への希求はついに枯渇し、人間という種はその自死的自滅的局面に再突入した」なんて呪いの言葉を吐く者も現われるかもしれない。だが、そんな戯言に騙されてはいけない。百年も生きることないちっぽけな個人が運命論に踊らされることの愚かさを。数千年の人類の血塗られた歴史のもとに自由は積み重ねられ、この現在があるのだということを。闘わずして、自由の獲得もないのである。

2017年1月16日月曜日

ゴダール以後のソニマージュ論

今年は自分の映像作品の上映をやりたいなと思っているのだが、単なる上映会じゃなくて、ある程度コンセプトをもって断続的にやってみたい。むろん、今年以降も見据えたものとして。

ざっくりいうと「ゴダール以後のソニマージュ論」という感じだ。

ゴダールというのはジャン=リュック・ゴダール、俺がもっとも影響を受けた映画作家である。彼の作品は、映画を構成する映像と音響の可能性を書き換えたといえる。たとえば、ピアノを弾く映像があれば、そこで弾いている音楽を流すのが物語映画のセオリーだが、そうではない音響を結びつけることで映像表現の新機軸を打ち出したというか、そういう映画の基本的構造を問うような実験を続けてきた作家である。

「ソニマージュ」という言葉はフランス語のson+image(音+映像)のことで、この実験がとても大事だと思うのは、それがわれわれの使う日常言語の構造と同じだからである。たとえば、「ウミ」という音声は「波打つ巨大な塩水湖」の映像と結びついて「海」という言語になる、という説明でピンと来るだろうか?われわれは日々、言語を使って生きているので言語構造の自明性を疑うことはほとんど、ない。むしろ、言語に振り回されるようなことならあまた、ある。その言語の牢獄から自由になることを彼の映画は教えてくれる。

ただ、ゴダールも歳だ。1930年生まれだから、今年で87歳。映画作家としてまだ現役とはいっても、1990年代以降の作品は次第に内省的な作風になったし、いつまでも彼個人の前衛性や独創性に頼っているわけにもいかないだろう。その一方、現在の映画の主流は、いまだ音と映像の一対一的統一的世界観を前提としたものだし、だから、ゴダールの試みも例外的な存在のまま…

ゴダールの子供として映画を見てきた者としては、このソニマージュの方法論を根絶やしにしたくないという思いもあり、映像製作上の思考も自然にソニマージュの創造性に反応してきたと思う。

その意味で、ゴダール以後の映画の未来を語るような上映をやりたい。

2017年1月14日土曜日

波よ聞いてくれ 1

沙村広明 著、講談社、590円+税
いやぁ、おもしろい!

札幌のとあるカレー屋のバイト店員25歳女が、ひょんなことから地方ラジオ局のパーソナリティとしてデビューすることに。お話自体はどってことないが、沙村の画力、細かな演出、物語のリズムがすばらしい。描こうとする世界を隅々まで把握し、ドラマを活気づける会話劇の、テンポの良い構成などもう手練手管だねという感じ。

読んで元気が出るのも良い。修羅場に次ぐ修羅場という展開の中、登場人物たちはみな曲者であると同時にどこか楽天的なキャラクター、ちょっと地に足が着いてないともいえるが、その浮遊感が心地良い。その浮遊感がドン詰まりの人生を推進させるのだ。フィクションってやっぱりこうあって欲しいよねという、低周波なコミカル基調にシリアスな破片が入り混じったようなバランス感覚…

第1巻の名台詞はやっぱりこれかな。

「さ!涙も涸れたし、戦場に戻るか」

現在、第3巻まで出ていて、まだ第1巻しか読んでないけど、読み終えるのが惜しい。のんびり読み進めます。

2017年1月8日日曜日

恩寵としての偶然性

絵画や漫画やアニメなど「描画」をベースにした創作と、写真や映画などの「撮影」をベースにした創作とでは、技術的な制御と偶然性の占める位置や関係性が違う。ただ、いずれにせよ、技術的な制御の最終目的はその偶然性を研ぎ澄ますことだと思う。偶然性に委ねるとは、言い換えれば、神におのれを委ねるということである。神の前で、人間は無力であり裸体であり、それゆえ自由である。だから人は、神への信仰と引き換えに自由と安寧とを同時に手に入れることも可能である。だからこそ人は、神の存在に向けて神経を尖らせてみる価値がある。研ぎ澄まされた偶然性はただの偶然ではなく、ある種の神の恩寵なのである。それが芸術における諸技術の本質的使用法ではないだろうか?

2017年1月7日土曜日

「この世界の片隅に」Soundtrack

コトリンゴ、フライングドッグ、2,900円+税
これ買った!
映画を見てるときは、少々劇伴強すぎ、情緒過多かなーと感じる部分もあったけれど、それは逆にいえば、音楽単独の自立性が強いということなので、じゃあサントラは家で、映像なしで聴くのにちょうど良いんじゃないかと買ってみた。
今このブログを書きながらCDをかけているが、イージーリスニングで聴き流すのにとても良い感じ。にしても、歌ものだと楽器の伴奏などほとんど要らんのではないか?と思わせるコトリンゴの声。

2017年1月4日水曜日

ザ・ガンマン

監督:ピエール・モレル、主演:ショーン・ペン、2015年
ショーン・ペン主演『ザ・ガンマン』のBlu-rayを見た。悪くないんだけどなー。中年オヤジがボロボロになりながら戦うっていうのは大好物な話だし、銃撃戦と肉弾戦をミックスする手際も良くって、ほんとに悪くないアクション映画なんだけど、追い詰められた窮地の主人公が、観客の知らない「奥の手」を出してそれが最終的な争点になるっていうのは、ストーリーテリングとして釈然としない。もちろん物語の辻褄も合うし、そして、一般的にもそういう映画は時々見かけるわけだけど、それってアカンよね?絶対にズルだよね?ほんと、もう!!

2017年1月1日日曜日

刹那の手前で踏み止まる

いや、あっけなく、2017年ですね。
おめでとうございます。
まぁ新年がホントにめでたいのかどうかよくわからないところもありますが。
ぼくよりン十歳年下の友人にしてみれば、景気が良い頃の記憶なんかないだろうし、だから、このオッサン、なに言ってんだ?と思うかもしれませんが、1970〜80年代というのは、まぁ今よりはマシな世の中だったと思います。良い時代ではなかったとしても。
ざっくり言うと、ある程度は経済に余裕があったから、人のココロにも余裕があったんだと思うんですね。もちろん、金と心は別物ですが、互いに大きな影響を与えることも…
おそらくは、グローバリズムとその副産物である経済格差(富裕層と貧困層の2極化)が世界のねじれとなっているのが現代。富める国と貧しい国があるだけでなく、富める国の中にも富める人々と貧しい人々が生まれた。日本なんて一時は「一億総中流」と言っていたはずなのに!
その結果、共通の体験や価値観に亀裂が生じることにもなった。主権や人権が軽んじられ、差別的な行為や暴言が横行、独裁権力への服従を唱える者すら登場し、政治の舞台は煽動目的のデマゴギー劇場に…というカオスを招いているんじゃないか。「最大多数個人の最大幸福」だって?そんなの夢物語じゃん!と、近代を牽引した「理想の言葉」もすっかり色褪せてしまったわけです。
ただ、真に悲劇的なのは、われわれ自身が自暴自棄になってしまうというか、そんな刹那の思想を拠り所にしてしまうことじゃないですかね?
それは貧困層に限った話ではなく、富裕層や中間層にとっても社会が安定しないので没落への不安は拭えず、一方、ISに象徴されるようなテロへの恐怖は増すばかり、防衛心理が分厚い塗り壁のように人々を分断してしまっているような気がします。
しかし、それにしても、近代の理念はすべてご破算になってしまったのか?
「可能性は尽きてしまった」と語るのは、サミュエル・ベケットだったかジル・ドゥルーズだったか忘れましたが、ただ、その言葉の射程は死の傍らに揺らめく無時間の宇宙であり、そこが再生の鐘を打ち鳴らす場所である、というふうに、ぼくは考えています。それはもう近代と呼ばれる何かではないかもしれないけれど…
はっきりしているのは、なんとしてでも、みなが刹那の手前で踏み止まることではないでしょうか?
2017年がその第一歩になりますように!