2017年2月28日火曜日

ヌルすぎる!

Carlos Latuff
昨夜、前代未聞の政治スキャンダルで揺れているこの渦中、安倍首相が報道関係者と食事会を開いたという。〈権力者〉と〈報道〉が会食してなぁなぁの関係になることが日本の民主主義をダメにしてきたんじゃないか。これは権力者側が安倍だろうが誰だろうが関係ない。政治が国民の生計のみならずその生死の授与収奪まで支配するような力をもち、人間の自由や尊厳に関わる調停の場であることを踏まえるならば、ひとこと、ふざけんな!と言いたい。

2017年2月24日金曜日

エドワード・ヤンは未来の美に投機する

新宿武蔵館で『牯嶺街少年殺人事件』のチケットを買った。ノベルティ欲しさにわざわざ上映館まで買いに行くなんて、アレクセイ・ゲルマンの『神々のたそがれ』以来かな。この『牯嶺街少年殺人事件』が初めて公開されたとき(1991年)、俺はちょうど映画批評誌の編集者をやってて、何度この傑作映画のスチールを使ったことか!とポストカードを手に、ちょっとだけ感慨深い。ま、ほんのちょっとだけ。とはいっても、チケットを手にすると、この作品や監督のエドワード・ヤンについて、他の偉大な映画作家たちとはまた違った別格の想いを抱いてしまうのはなぜだろう?なんて、ぼんやり考えてしまう。で、思ったのは、たとえば、キューブリックなら独自の「壮麗な」世界を描こうとするし、タルコフスキーは独自の「崇高な」世界を描こうとするし、ゴダールですら美の誘惑に抵抗はしない。だが、エドワード・ヤンの映画は一見、独自の美にこだわっているように見えない。彼が描くのは台湾の市井の生活であり、その生活の中に埋もれている人々の感情のありかである。その意味では、小津安二郎なんかに近いのかもしれないが、小津ほど、あるいは同郷同世代のホウ・シャオシエンほど、映像スタイルが明確なわけでもない。そこで、エドワード・ヤンの映画にとって美はどこにあるのか?と、あらためて考えてみると、俺は、それは、スクリーンの「先に」あるんじゃないかという気がする。先人の映画作家たちがみなスクリーンの「中に」美を封じ込めようとするのに対し、彼は、その遥か先に美を見ているのではないか。つまり、映画の上映が終わり、観客が映画館を後にし、都市のどこかで、観客のわれわれ自身が美を発見することに賭けているのではないか、というふうに思う。現代資本主義は未来の金のために投資するという世界だが、エドワード・ヤンの映画は未来の美に投機するのである。現代の人間がどんなに愚かでクソッタレで意地汚くても、それでもその未来に賭けるという精神こそが彼の映画ではないだろうか。そんなことを考ながら、またあの映画を見たい。

2017年2月21日火曜日

共謀罪の新設反対

「共謀罪(テロ等準備罪)」の新設って現代の「治安維持法」なんて呼ばれたりもするけど、治安維持法は制定当時(1925年)、世界的な共産主義運動の波及を背景に、国内での社会運動の激化を防ぐことを目的にしていたという。政府は「まぁ一般人は関係ないよ」なんて言っていたにもかかわらず、結果、7万人を超える市民が検挙され、徹底した言論弾圧の武器、日本の戦争突入を許す環境を整えるための道具になってしまった。そして現在準備中である共謀罪新設の名目も、昔の「革命の暴徒」が今の「テロリスト」に衣替えしただけだ。むろん「共謀罪」も制定したとたん7万人逮捕ということにはならないだろうが、今後いつでも恐怖政治や弾圧政治を発動させられるお墨付きを与えてしまうことになる。過去になぜ3回も廃案になったのか?それほどまでに危険な法律だからだ。オリンピックの治安なんてまったく関係のない話である。

2017年2月5日日曜日

日本の民主主義を鍛える

小学生でもわかる憲法入門
まぁ「ポピュリズム」とか「オルタナティブ・ファクト」とか、いろんな呼び方があるけど、そういう権威・権力の発するインチキ情報や国会の不毛な答弁、本質に触れないことで毎日薄めた毒をまきちらすようなメディアに対抗するには、俺らがもうちょっと賢く、注意深くならんといかんと思う。「安保法制」でも「共謀罪」でも、人の不安につけこんだり、恐怖を煽ったり、わざとわかりにくい理由をつけて国民を支配しようとするわけだから、表面的な言葉や理屈に囚われず、根本の原理原則を押さえた上で自分自身で考えることが大事じゃないのかな。それを小学生の頃からやる。やり続ける。そんなふうに、日本の民主主義を鍛える。

2017年2月4日土曜日

政治的前戯としての芸能

Carlos Latuff
「ポスト・トゥルース」の政治とは何か のなかで、筆者の五野井郁夫氏は次のように語る。

——このようなポスト・トゥルースの政治の特徴たる「ファクト」と「リアリティ」をコントロールすること、すなわち現実に起きた事実の真偽に関する支配を政権側が強めていくのであれば、それはまさに独裁者である「ビッグ・ブラザー」による政府見解のみが正しく、ジョージ・オーウェルが『1984』のなかで描いてみせたディストピアへと、より一歩近づくことを意味するだろう。

前回のエントリー「リベラルの戦法」で、保守派の論客が恣意的な「現実」観を押し付けてくる、と書いたのも、まさに「ファクト」と「リアリティ」をコントロールすることの一環である。さすが政治学者は説得力のある検証をやってくれる。ありがたい!

おそらく、それは日常的に警戒すべきことだと思う。根拠のないデマを言い立てて注目を浴びたり、大衆のある種の欲望を刺激し、一部の人々の溜飲を下げたりすることによって人気取りを図る政治手法をポピュリズム(大衆迎合主義)といい、これこそがファシズム(全体主義)が権力掌握の過程で行なう政治的前戯である。

ならば、ここで日本に巣喰うポピュリスト政治家を指弾すべきかもしれないが、それはちょっと傍に置いて、このポピュリズムというのは、同時に、大衆芸能が使う手法でもあるということに注目したい。

たとえば、コメディアンが「政治家の独裁を風刺するのか?」「市民のデモを揶揄するのか?」というその選択が政治的表明であるのは理解しやすい。だが、フィクションのなかで誰かを演じることだったり、何かの心理や心情を語ることだったり、なにがしかの知的真理を探究する試み、そういう芸能や芸術の基礎的技術は政治と無縁なのだろうか?

映画や演劇や音楽や絵画や小説など、少なくとも、観客の知性や感情に訴える技術はすべからく政治利用可能であり、だからこそ、それは危険な技術である。が、また、価値ある技術でもある。芸能や芸術の政治的可能性/不可能性ついて、あらためて考える時期が来ているように思う。

2017年2月1日水曜日

リベラルの戦法

Carlos Latuff
保守派論客の仕掛ける議論をふりかえると「現実」はこうなんだからこれこれこういうことも仕方がないでしょう?と相手を言い含めるように諭すやり方が主流であるように思う。だが、その論拠となる「現実」は絶対的なものではなく、論者によって、しばしば恣意的に、自己の権益を守るために、選ばれたものである。だから、その「現実」の基準線をめぐる闘争こそが政治の実質なのだ。保守派に対抗するリベラルとしては、多種多様な「現実」の提示によって政治的強者の示す基準線を揺るがす必要がある。これはサッカーゲームに喩えるのがわかりやすいと思うが、われわれリベラルが得点するには保守派のオフサイドトラップを破る必要があるのである(その意味において、リベラルはやはり「自由派」と呼ばれるべきなのかも)。米国の新大統領ドナルド・トランプがメキシコとの国境に壁を築こうとし、イスラム諸国との人的交流を制限する法令を強制執行しようとするのは、ある意味当然の帰結だろう。自己の領土に単一の包囲線を引くことこそが保守派の本性だからである。そうなると、余計にリベラルは個々自由に流動的に動かねばならなくなるが、その一方、コレクティブな理念や感覚や感情を失ってもいけない(でないと、保守派の巧妙なトラップにひっかかるだけだ)。そのコレクティブな統制原理となるのが主権や人権や平和主義なのである。