2017年2月24日金曜日

エドワード・ヤンは未来の美に投機する

新宿武蔵館で『牯嶺街少年殺人事件』のチケットを買った。ノベルティ欲しさにわざわざ上映館まで買いに行くなんて、アレクセイ・ゲルマンの『神々のたそがれ』以来かな。この『牯嶺街少年殺人事件』が初めて公開されたとき(1991年)、俺はちょうど映画批評誌の編集者をやってて、何度この傑作映画のスチールを使ったことか!とポストカードを手に、ちょっとだけ感慨深い。ま、ほんのちょっとだけ。とはいっても、チケットを手にすると、この作品や監督のエドワード・ヤンについて、他の偉大な映画作家たちとはまた違った別格の想いを抱いてしまうのはなぜだろう?なんて、ぼんやり考えてしまう。で、思ったのは、たとえば、キューブリックなら独自の「壮麗な」世界を描こうとするし、タルコフスキーは独自の「崇高な」世界を描こうとするし、ゴダールですら美の誘惑に抵抗はしない。だが、エドワード・ヤンの映画は一見、独自の美にこだわっているように見えない。彼が描くのは台湾の市井の生活であり、その生活の中に埋もれている人々の感情のありかである。その意味では、小津安二郎なんかに近いのかもしれないが、小津ほど、あるいは同郷同世代のホウ・シャオシエンほど、映像スタイルが明確なわけでもない。そこで、エドワード・ヤンの映画にとって美はどこにあるのか?と、あらためて考えてみると、俺は、それは、スクリーンの「先に」あるんじゃないかという気がする。先人の映画作家たちがみなスクリーンの「中に」美を封じ込めようとするのに対し、彼は、その遥か先に美を見ているのではないか。つまり、映画の上映が終わり、観客が映画館を後にし、都市のどこかで、観客のわれわれ自身が美を発見することに賭けているのではないか、というふうに思う。現代資本主義は未来の金のために投資するという世界だが、エドワード・ヤンの映画は未来の美に投機するのである。現代の人間がどんなに愚かでクソッタレで意地汚くても、それでもその未来に賭けるという精神こそが彼の映画ではないだろうか。そんなことを考ながら、またあの映画を見たい。