2017年2月4日土曜日

政治的前戯としての芸能

Carlos Latuff
「ポスト・トゥルース」の政治とは何か のなかで、筆者の五野井郁夫氏は次のように語る。

——このようなポスト・トゥルースの政治の特徴たる「ファクト」と「リアリティ」をコントロールすること、すなわち現実に起きた事実の真偽に関する支配を政権側が強めていくのであれば、それはまさに独裁者である「ビッグ・ブラザー」による政府見解のみが正しく、ジョージ・オーウェルが『1984』のなかで描いてみせたディストピアへと、より一歩近づくことを意味するだろう。

前回のエントリー「リベラルの戦法」で、保守派の論客が恣意的な「現実」観を押し付けてくる、と書いたのも、まさに「ファクト」と「リアリティ」をコントロールすることの一環である。さすが政治学者は説得力のある検証をやってくれる。ありがたい!

おそらく、それは日常的に警戒すべきことだと思う。根拠のないデマを言い立てて注目を浴びたり、大衆のある種の欲望を刺激し、一部の人々の溜飲を下げたりすることによって人気取りを図る政治手法をポピュリズム(大衆迎合主義)といい、これこそがファシズム(全体主義)が権力掌握の過程で行なう政治的前戯である。

ならば、ここで日本に巣喰うポピュリスト政治家を指弾すべきかもしれないが、それはちょっと傍に置いて、このポピュリズムというのは、同時に、大衆芸能が使う手法でもあるということに注目したい。

たとえば、コメディアンが「政治家の独裁を風刺するのか?」「市民のデモを揶揄するのか?」というその選択が政治的表明であるのは理解しやすい。だが、フィクションのなかで誰かを演じることだったり、何かの心理や心情を語ることだったり、なにがしかの知的真理を探究する試み、そういう芸能や芸術の基礎的技術は政治と無縁なのだろうか?

映画や演劇や音楽や絵画や小説など、少なくとも、観客の知性や感情に訴える技術はすべからく政治利用可能であり、だからこそ、それは危険な技術である。が、また、価値ある技術でもある。芸能や芸術の政治的可能性/不可能性ついて、あらためて考える時期が来ているように思う。