2017年3月11日土曜日

戦争と一人の女

ごく大雑把に言って、舞台演劇には会話劇ベースの作品と身体表現ベースの作品があると思うのだが、その分類でいうと、坂口安吾原作・上田晃之演出の『戦争と一人の女』は身体表現ベースの作品だなと感じさせた。この手の作品は往々にして、俳優の身体的パフォーマンスに小説のテキスト音声を「乗せる」ことになるわけで、作品全体もどんどん「韻文」化していくのが普通だと思う。つまり、台詞は身体の動きのリズムに従属し、俳優の台詞はもはや物語を進める原動力にはならず、舞台上のBGMとでもいったものに変貌するのである。だが、上田演出がおもしろいのは、そういう仕立てにもかかわらず、言葉の「散文」的要素で物語空間を寸断してしまうところだと思う。言葉の散文的要素というのはつきつめるなら「単語」ということである。つまり、この作品ならば「戦争」というキーワードだ。四人の女優で一人の主役をパッチワークするような元女郎役の女たち以外に、しばしば語り部の女が舞台に闖入者のごとく登場、舞台上のスクリーンにYouTubeから引用した戦争関連の映像を投影し、観客に注意を促す。その結果、詩的物語世界はたびたび中断され、「戦争」という語が劇場内に頻繁に現われることになる。その様は「戦争」という言葉の大海を四人の女と一人の男が恍惚とした風情で泳いでいるとでもいうかのようだ(おそらくは素っ裸で)。それでも男は言う「もっと戦争をしゃぶってやればよかった」と。また、上田自身も「誰も戦争について論じることができなくなっています」(劇場パンフレットより)と発言するのだから、現代日本に戦争の足音がひたひた聞こえているというのに誰もそのことを語らない(あるいは語れない)現実への苛立ちが、この舞台の原動力となっているのだろう。実際、四人の女優さんはみなとても艶っぽく魅力的で、唯一の主演男優も実にかっこ良く、舞台にはセクシーフェロモンが充満しているのだが、それらを真に輝かせているのは死と戦争の予感であり、その濃厚な匂いを嗅ぎとれない鈍感さへの抗議が鳴り響いているのだ。坂口安吾が戦争を語って70年後、再び戦争の危機意識に駆られた若者(俺から見るとね ^^;)によって安吾文学が息を吹き返したといえるのではないだろうか。