2017年3月31日金曜日

牯嶺街少年殺人事件:断片的記憶

初めて見たのは1991年の東京国際映画祭で公開された3時間版(188分版)で、翌年公開された4時間版(236分版)は「やや冗長になったな」という印象をもっていた。その後、四半世紀見直す機会がなく、レストアされた4時間版を2017年3月29日に見た。そして昔「冗長」と感じたのは俺の愚かな独断であり、間違いだったと強く思った。この4時間版のどこを切れば3時間に短縮できるか?と考えてみると、シャオスー(小四)の両親の絡んだエピソードを切らざるをえないのは明らかで、逆にいえば、エドワード・ヤンが4時間版で語りたかったのは、少年たちと親世代との関係なのだろう。少年たちの足下には台湾の歴史の傷が淀んだ澱のように広がっているのであり、彼らの「若さ」が暴れれば暴れるほど、その澱が舞い上がって視界を濁らせてしまう。だから『牯嶺街少年殺人事件』の4時間版と3時間版では作品コンセプトが違うと考えたほうが収まりが良い。おそらく3時間版は、シャオスーとシャオミン(小明)の事件に集中するよう全体を細かく刈り込み、タイトでドライブ感のある作品になっていたはずだ。シャオスーの住む日本家屋に暗く陰鬱な影が垂れ込めていたことだけは、今でもよく覚えている。ところで、今度の公開の売り文句でもある「4Kデジタル修復版」の修復作業はホウ・シャオシエンが監修したという。気になったのは、こんなに明るくしちゃって良いの?ということだった。画面の細部が見やすいのは嬉しいといやぁ嬉しいけど、でもたとえば、シャオスーのプライベート空間である押入れの中など、最初こそ暗く、盗んだ懐中電灯で日記を書くシーンになっていたものの、その後は均一な光でほの明るい小部屋という風情だった。昼間の外景もいわばパステルチックな優しい色でまとめられ、それが3時間版や他のエドワード・ヤン作品にあるようなクールな雰囲気とは微妙に噛み合ってないような気がしないでもない。とまぁこんなことを言いだすとキリがないのだが、それでも、時折見せる切れ味鋭い映像感覚には痺れた。アジアの温暖な気候の中にフィルムノワールの冷たい風が一瞬吹き抜けるのを感じ、得体の知れない戦慄を覚えるというか。映画の事件のキーとなる短刀を見た少年、ワンマオ(王茂)はこんな言葉を吐きだす。「日本の女が自害する刀だな」