2017年4月28日金曜日

民主主義について

「教育は政治的中立でなければならない」と言われることがあるが、教育基本法を読むと、民主的な社会教育をせよ、つまり、民主主義でやれと言ってるのであって、これは絶対に「政治的中立」ではない。軍国主義だって共産主義だってあるんだから。民主主義を一種の中立主義と勘違いしてる人もいるのかもしれない。みんな中立だなんて言いだしたら社会が動かないし、政治的中立というのはむしろ反民主主義である。だから、意見Aと意見Bに分かれた場合、俺、中立っていうのはナシで、その場合は意見Cをもたなくてはいけない、ということか。良くも悪くも、民主主義は社会参加を強制する。だとするならば、ラジカルな民主主義社会においては、芸術表現だって政治的中立だなんてものは褒められたものではないということは十分ありえる。教育にせよ芸術にせよ「政治的表現を排除せよ」みたいな法や規則は、少なくとも民主主義的ではない、と思うのだ。

2017年4月24日月曜日

権威主義について

Carlos_Latuff
昔も今も日本人って想像以上に「権威主義」が染みついているんじゃないだろうか?今のわれわれが直面しているのは、日本社会の権威の館に安倍が陣どり「権威の独占」をしゃにむに進めている状況である。安倍晋三はまさに権威主義者として行動する。Wikipediaによると「硬直化した思考により強者や権威を無批判に受け入れ、少数派を憎む社会的性格」を権威主義的パーソナリティと呼ぶ。俺が思うに「権威主義者」自身にはけっして真の権威は宿らないので、虎の威を借るほかない。そして、自民党や安倍政権の「虎」は間違いなくアメリカである。だから、彼らはアメリカに対して下僕のように従い、日本国民に対しては(政府の)下僕のように従うことを要求する。こうした隷属化の連鎖こそが権威主義社会の本性なのだ。われわれ日本人は昔からの弱点であるこの権威主義的パーソナリティを克服すべきだと思う。

2017年4月22日土曜日

午後8時の訪問者

La fille inconnue (2016)
『午後8時の訪問者』には冒頭からグイグイひっぱられた。そのサスペンスのストーリーに、という人も多いだろうが、俺はまずなにより技術力の高さに「すげぇ!」と驚きっぱなしだった。ダルデンヌ兄弟というのは手持ちカメラでドキュメンタリータッチの作品を撮る作家で、たとえば、ラース・フォン・トリアーが手持ちカメラで人間心理の暗黒面を暴きだすとするなら、ダルデンヌ兄弟は人間のいわば神的受難を語り継ぐ、なんていえるだろうか(フィルモグラフィのごく一部を見た程度の適当な要約、ご容赦!)。ただ、前作『サンドラの週末』は、メンタルに問題を抱えて休職していた女性がやっと復職しようという直前にリストラを宣告され、逆境のなか解雇の撤回を求めて奮起するという物語だった。だから、その受難の本質はあくまで社会制度に帰属するものの、そこでもまた神話的距離感とでも呼びたいクールな眼差しを内包、映画ならではの繊細さや自然さ、鋭さ、力強さを引きだしていたと思う。そして『午後8時の訪問者』ではサスペンス映画のストーリーに挑戦することになった。これがまたすごい。サスペンスらしくスピーディでテンポ良く話を進めるなかカメラもよく動き、役者の素早く複雑な動きを追って長回しを繰り返す。カメラを動かさなければ長回しもそこまで難しくないのかもしれないが、手持ちで動かしながらその間、的確なフレーミングを持続するというミッションが加わると、ほんとうに大変だと思う。なぜなら、流動的な動きのなかで、役者とカメラマンと監督、三者の意図や思考や感覚が一致しなければならないからだ。そんな現実的技術的困難が透けてみえるにもかかわらず、的確なフレームがビシビシ決まっていたので、もう感嘆するよりほかなかったのである。ただ、こうした技術論だけでいくら讃えようとも、この映画の真価を語った気にはなれない。『午後8時の訪問者』の主人公ジェニー(アデル・エネル)は、とある殺人事件の名もなき犠牲者を埋葬するためその身元を探るという、いわば「探偵」を始めることになるのだが、その一方、そこに彼女の本業である「医師」としての行動も絡んでくるからややこしい。二つの任務に共通する視点は、おそらく他者の「救済」であり、ここでもまたダルデンヌ兄弟による人間の受難に関する一考察がみてとれるだろう。そしてその「救済」行為は、時に、相手のプライベートな問題にまで足を突っ込み、激しく抵抗されたり、逆に脅されたり、遂には知りたくもない悲惨な事実まで知ってしまうことになる。こうした物語の二層のレイヤーを複雑に横断するさまが、手持ちカメラで迫るジェニーのアクションを通してシンプルに統合され、ダイナミックでスリリングな映画的身体を練り上げているのだ。それにしても、ラストのさりげないカットはあまりに感動的というほかない。技術など関係ない。俺はそこにこそ映画の魂が宿るのだと思う。

2017年4月18日火曜日

雨月物語 4K修復版

監督:溝口健二、出演:森雅之・田中絹代ほか、1953年
買ってしまった。従来のDVDも持っていてそれも、作品の感動を削ぐほど酷い画質というわけではないのだが、『雨月物語』はやはり最高の画質で見たい珠玉の作品だし、で、最初は、修復版の出来をチェックするだけのつもりだったのに、結局全部見てしまった。いやぁ何度見てもすごい。どこが良いとかじゃなく、もう全部すごい。でも、あえて言うなら、プロットの構成力という点で、これ以上の作品は世界映画史の中にも見当たらないんじゃないか、と今日は思った。俗世の欲に溺れる男たちの愚かさを幽玄の美のなかに描くことで、より深く、観客の胸を抉ることに成功した傑作。明日見たら、また違う世界一の映画に見えるんだろうな。

2017年4月16日日曜日

憎悪の論理

ベストセラー作家として知られる百田尚樹氏のツイートが話題だ。昔、日本が第二次大戦に突入したときも、百田みたいなアジテーターが怒鳴ってたんだろうなと、正直、うんざりした。あと、それとは別に思ったことが一つ。彼は、もし日本が北朝鮮の攻撃を受けたなら「テロ組織を作って」北朝鮮に反撃するのではなく「国内の敵」である「売国議員と売国文化人」を「潰す」と言う。その歪な論理が百田だけでなく、日本の右派勢力の本質にあるような気がした。おそらく、日本の戦後社会が啓蒙してきた民主主義や平和主義が心底嫌いなのだ。そのルサンチマンこそが彼らの政治性の原理であり、そこになんらかの思想が根付いているわけではないのだと思う。民主主義に対立するから国家主義を唱え、平和主義に対立するから軍国主義を志向する。だから、ミサイルを撃ち込んだ北朝鮮よりも共産党の志位和夫のほうが「憎い」のである。彼らがそういう「憎悪の論理」で行動しているということは理解しておいたほうが良いのではないか。

2017年4月14日金曜日

権力の嘘と腐敗

今日、仕事帰りに買った本。この二冊に共通しているのは「権力の嘘と腐敗」かな。『プロテスタンティズム』を手に取ったのは、竹良実の漫画『辺獄のシュヴェスタ』に触発された部分も大きい。中世のキリスト教会がその権威によって魔女狩りを行ったり、公的な知識を独占して好き放題やっていた頃の活劇冒険譚である。その腐敗した宗教権力に対する改革運動の理念、プロテスタンティズムは現代の政治思想にまで深く影響を与えているのだという。一方『大本営発表』の意味はみんな知っているか。日本の現政権の乱発するデタラメな国会答弁や閣議決定、それを批判し切れないマスメディアといった平成の「大本営発表」が常態化しているのは周知のこと。安倍の目指す国家観が大日本帝国であるならば、安倍政権の窮地と第二次大戦の窮地とが共鳴するのは当然かもしれない。こうした権力の嘘と腐敗の構造を歴史的に重ね合わせてみたいなぁというチョイスでした。

2017年4月9日日曜日

シリア問題への視座

Carlos_Latuff
シリア問題に関する内藤正典先生のツイートをまとめました(2017年4月9日13時30分現在、句読点や改行などは整理しています)

————

シリア問題の最も重要なところは、繰り返しになりますが、膨大な犠牲者の存在。命を奪われた市民と、家や家族を奪われて隣国やヨーロッパにまで逃れた難民。この最悪の人道危機をどう解決するかに触れず、ロシアや米国の武力行使の是非を論じてもあまりに本質からそれるだけ。今回の米国の武力行使は、当然のことながら、我々の隣国、北朝鮮の問題にも深い影を落としています。突然、遠くのシリアの話が、日本の問題になってくるのです。プレイヤーになるのか、ならないのか?なるとしたら、どのようにコミットするのか?世界を知らないと判断を誤ることだけは確実です。

日本のメディア、ニュースや情報系番組が、シリア問題を取り上げるのはいいのですが、直近の化学兵器使用と米国の反撃だけを切り取って、善か悪かを議論するのは、とんでもなく実態とかけ離れた空論になります。なぜなら、アサド政権は化学兵器など使っていないと主張しロシアもそれをなぞっているのに対して、米国は「巡行ミサイル攻撃をした」と明言しています。そうなると、化学兵器については真相不明、米国の攻撃は明々白々となりますから、シリアやロシアを非難する声は消極的、米国を非難する声は加速されます。その影で、難民達の声は誰が伝えてくれるのでしょうか?

すでにヨーロッパでは、彼等は難民なんかではなく金儲け目当ての偽装難民だと公言する政党や組織が力を持っています。そういう人が難民の奔流に合流したことは事実です。しかし、隣国トルコ、レバノンなどに滞留する500万人以上の人達は、では、何者でしょうか?日本政府の援助機関であるJICAでさえ、トルコやレバノンに逃れた人々が、何から逃れたかを、真剣に見ようとしません。難民支援は政治から距離を置くからです。しかし、その政治的中立こそ、アサド政権やロシアの思惑通りとなります。シリア政府は難民を装ってヨルダンやレバノンに息のかかった人間を送り込みます。シリアの惨状が反政府側の「テロ」によると6年間主張し続け、日本の援助団体やメディアを洗脳しました。膨大な難民がいながら、彼らがアサド政権の攻撃の犠牲者でありながら、巧妙にその声を封じたのです。しかし、それをアサド政権の「嘘」と言ってみたところで、何の役にも立ちません。

シリアという国、第一次大戦時に英仏が勝手に引いた国境線の内側に、多数の民族や宗教、宗派が押し込められました。1946年に独立した後、国家統合は困難を極めました。少数派のアラウィーに属するアサドが政権を掌握し、多数を占めるスンナ派を抑え込み、クルド、アラブ、トルクメン、アルメニア、ドルーズ等の民族、スンナ派、シーア派、アラウィー、キリスト教ではシリア正教、アルメニア正教、カトリック、正教会等々の人達を統御しなければ国家の統合はできませんでした。アサド政権が恐ろしく強権的で逆らう者に容赦しないのは、これだけアイデンティティの異なる集団を統御するため必要だったからです。さらにダマスカスやアレッポは3000年以上の都市文明を育んだ都市であり、その中に生きる名望家、土地と結び付いた豪族、彼らの利害を調整する必要もありました。ダマスカスやアレッポの上を、何十という支配者が通り過ぎて行きましたが、都市社会そのものは独自の性格を維持し生き残ったのです。

第二次大戦後の冷戦時代の後半、アサド政権はソ連の庇護下に入り、ソ連を徹底して利用することでイスラエルや米国から守ろうとしました。しかし、一部のインテリを除けば、そもそもスンナ派ムスリムが多数を占めるシリアで社会主義は人を引きつけませんし、何よりシリア人は民族や宗派を問わず商人です。アサド政権は逆らわない限り経済活動の自由を認め、40年にわたり統治に成功したのです。

2017年4月8日土曜日

ベルネーズソース

先日行った佐野元春のライブはポエトリーリーディング主体のコンサートだったんですが、その2003年版の映像があるので、ご興味ある方はぜひ。まぁ「詩の発表」というより「ヒップホップの演奏」と言ったほうが良いかな。2017年版は、現在の社会の空気にビビッドに反応、パフォーマンスの切れ味も凄かった。一種のアジテーションというか、それこそがヒップホップ本来の在り方だろうと思わされた。俺も日々のニュースを読んでカッカしてるほうだし、元春もそうなんだろうなーと想像しながらの、怒りの共有。ただ、観客の大多数は、さすがに俺と同世代のおじさんおばさんになっちゃうところが残念。むしろ、若い世代に聴いてほしいアクチュアルな作品でした。このYouTube映像も、ヘッドホンでボリューム上げて聴き込むのがおすすめ!

今は音が出せないよ、というなら、詩を書き起こしたものがこちらに。読んでもかっこ良い!

2017年4月5日水曜日

佐野元春 In Motion 2017「変容」

2017年4月4日21時、第2部開演、セットリストは以下の通り。

再び路上で
ああ、どうしてラブソングは…
国籍不明のNeo Beatniksに捧ぐ
植民地の夜は更けて
ベルネーズソース
何もするな
まだ自由じゃない—Not Yet Free
SHAME—君を汚したのは誰
ブルーの見解
ハッピーエンド
僕にできることは
何が俺たちを狂わせるのか?

*とにかく終盤近くまでハードな詩で攻めまくる構成。元春自身も、銀髪に黒いスーツ、黒縁メガネ、黒いネクタイといういでたち。どうしたんだろう?と思っていると「SHAME」ではギターを演奏、奇妙なアクションを見せる。そのとき、それエルヴィス・コステロのモノマネだろ!と気づく(けっこう似ていた)のだが、コンサート中はなぜコステロなのか?まで意識しなかった。しかし、今回のセットリストが社会への警鐘や異議申立てに満ち満ちた作品の連打であることを考えると、喪服風の衣装や、コステロを引用した理由もよく理解できる。