2017年6月17日土曜日

ミズウミ

作・演出:屋代秀樹 出演:瀬戸ゆりか、袖山駿 ほか
初めて見た日本のラジオの作品は『ゼロゼロゼロ』だった。舞台空間の使い方が抜群だった。予算をかけるのではなく、想像力を使ったそのやり方が凄い。小屋は池袋のスタジオ空洞。雑居ビルの細長い空間の上手と下手に出ハケがあるという造りで、上手の外に当たる空間、中央のアクティングエリア、下手の外に当たる空間、と三分割して考えるなら、その三空間の重要性がまるで均等であるかのように物語を紡いでいた。お話自体はいわゆるヤクザ物だから、暴力と生死の問題を扱うことになるので、この三つの空間が、生の空間、生と死の接する空間、死の空間、とそれぞれ割り振られる。そして物語の進展に応じ、生死のせめぎあうボーダーラインが三つの空間を移動するという構造。サスペンスの仕掛けとしてこんなに洗練された芝居を見たことがなかったので、本当に驚いた。まるでヒッチコック映画のようだ。

『ミズウミ』もまた日本のラジオならではの空間芸術の粋を見せてくれた。小屋は御徒町のギャラリーしあん。古民家の居住空間である。ここは庭園もあるので、その庭と室内をどう絡めて使うか、が肝要にもみえるし、実際ここを使う劇団のほとんどが知恵を絞るところだろう。『ミズウミ』でも効果的に使っていたが、ただ、それは必ずしも本質的な装置ではなかった。むしろ、古民家の古さこそが、その場所の歴史性、時間の底に沈んだ謎の保管所として大事だったと思う。ここでは『ゼロゼロゼロ』のような意味論的分割もなく、古民家というか、古屋敷の一室でほぼすべての重要事が描かれる。

だが、芝居が始まるやいなや『ミズウミ』の世界は別のかたちに分割されてしまう。一冊の日記帳によって「昭和の終わり」と「平成の終わり」に、である。『ミズウミ』に描かれる物語の大半は昭和の終わりを舞台とした幻想譚であり、その記録が書かれた日記帳の読み手である平成の人間が、舞台空間に共存するという構成をとっている。

ところで、この芝居を見ているうちに、ひとつのことに気づかされた。それは真に劇空間を分割したり、再結合したりするのは、舞台のセットや脚本上の設定ではなく、もっと深いところに言葉が存在することへの驚きであり、それこそが演劇作品のイメージの源泉なのだということ。その言葉の力を使って『ミズウミ』が語るのは、小さな湖を大きな海に結合するための魔術的方法であり、その秘法に触れるため、われわれ人間は人間自身の内奥に深く潜らねばならない、ともいう。人間個々人は小さな存在に過ぎないが、その小さな記憶の集積回路には時間と空間を超え、大海へとたどり着く可能性が眠っているのである。

劇中、小鹿スドウは言う。

「そう、昔はただの湖だったのが、ある日突然塩湖になったという話が伝わってるんですよ。だいたい明治初期くらいですかね。突然、まるで海の水が流れ込んだかのように」