2017年11月7日火曜日

人権とは何か?

『人権と国家』スラヴォイ・ジジェク著、集英社新書、720円+税
近年、ヘイトスピーチの問題が浮上してきたように、おいおい、みんなちょっと人権意識足りなくない?と感じることもあり、でも、じゃあ〈人権〉ってなんだ?と言われると簡単には説明できない。そんな折、自宅の棚に本書『人権と国家』があったので、あらためて手に取った。昔、インタビューだけつまみ読みした記憶はある。哲学者スラヴォイ・ジジェクへのインタビューと彼のコンパクトな論文2本から構成され、出版後10年以上経つ。でもまぁ中身は古びていないだろう。

本書に収録された論考「人権の概念とその変遷」によると、人権を訴えるとは「さまざまな原理主義的形態への対立軸」を立てることであり、基本的人権とは「選択の自由の権利」であると同時に「みずからの人生を快楽と幸福の追求に捧げる権利」だという。だが「しばしば原理主義の〈悪〉を捉えるその視線にこそ〈悪〉が潜んでいる」し、「選択の自由」は文化的な環境次第でむしろ選択の不自由として問題になるし、「快楽の追求」は、現在の政治そのものが〈享楽〉をめぐる闘争の場と化している。

――自由主義的で寛容な西洋と原理主義的イスラームという対立の図式も、つきつめれば、一方は女性にとってみずからを提示あるいは露出することで、男性を挑発するもしくは平静を乱す自由を含むセクシュアリティの権利、他方はこの脅威を撲滅するか、少なくともコントロールしようとする男性側の必死な試みという対立に尽きるのではないだろうか。(『人権と国家』p.140)

ゆえに政治のねじれとともに人権の扱いもひどく翻弄される。グァンタナモ米軍基地の捕虜を襲った〈人権の剥奪〉や植物状態に陥った女性の延命装置を外すか否かで国家機関が大騒ぎした〈人権の過剰〉など。ジジェクは「人権とは究極のところ権力の剰余に対する防御ではないだろうか?」と語るが、では、権力の剰余とはいったい何なのか?

——〈法〉のレベルでは、国家の〈権力〉は主体の利益その他を代表するに留まるが、超自我の次元では、責任などに触れる公の文言は〈権力〉の無条件な行使に関する不愉快なメッセージによって補足されているのだ。その内容は、法は実際に我を拘束しない、お前を好き勝手に扱うことができる、有罪だと決めつければしかるべき処遇を与えるし、独断で破壊してやる…というものである。この不愉快な剰余は主権という概念に欠かせない要素である。(『人権と国家』p.159)

つまり、こう言えないだろうか。国家権力が国を統治するにあたり国民を不当に攻撃したり支配することから守るため、その法に〈国民主権〉を書き込むならば、社会を統治する権力が市民を不当に攻撃したり支配することから守るために〈人権〉は存在するのである。