2017年12月23日土曜日

2017年の演劇

日本のラジオ『カーテン』
俺にとって2017年の演劇最大の発見は特定の作品というより、ある種の演劇の見方だった。他の演劇ファンにはあたりまえのことかもしれないが、映画畑でン十年すごした者にとっては新鮮な発見だった。というか、映画的な見方は演劇を見るときの補助線になるけれど、先入観や固定観念にもなるってことだ。ちなみに、俺は映画というのをずっと「距離の芸術」だと考えていた。大雑把にいうと、映画はクローズアップで個人の感情を測り、編集で人物の相関を組み立て、ロングショットで事件や状況やテーマを統合する。つまり、カメラと被写体の「距離感」をもとに世界を築き上げる。だから、演劇を観に行くと一度座った席からライブの芝居を見続けなきゃならないだって?演劇って、なんて不自由なんだ!と最初は感じた。俺が第一に理解すべきなのは、演劇は舞台=空間を造形するものだから見る者の距離感が多少違っても本質的な問題ではないということだったのだ。でもまぁこれくらいの見識はわりとすぐ身に付いたような気がする。だが、次のレベルに達するまで5年かかった。それは演劇というのが「重さの芸術」だという認識である。映画を論じるときはその「距離感」を作品のクオリティの重要な指標にしてきたが、演劇ジャンルならば、それは「無/重力感」ということにでもなるだろうか。むろん、それは物理的な質量ではなく、いわば(社会的な)実存の重さや軽さであり、精神的、心理的、感覚的なものである。だから、重いものが急に軽く感じるという意味での無重力感もあるし、軽いものが急に重く感じるという意味での重力感もある。たとえば、ジエン社の『夜組』で幽霊か地霊のように夜の時間をさまよう人々。日本のラジオの『コクミンノキュウジツ』や『カーテン』で描かれる外の世界から分断され、舞台=空間に軟禁された人々。不安に押し潰されるような、でも、心地好くもあるような。重いような、軽いような。劇団きららの『はたらいたさるの話』が醸しだす成熟した空気も絶妙だった。こうした舞台作品は登場人物の存在の重みが何に由来するのかを考察することで、観客の無/重力感を刺戟しているのだろう。また、別の視点からのアプローチに驚かされたものもある。アガリスクエンターテイメントの『そして怒濤の伏線回収』はリアリズムの重みを劇中で破壊する(まるで「イキガミ」の時限爆弾のように!)というコメディならではの実験作だったし、アマヤドリの『崩れる』はコミュニケーションツールとしての言葉の重さと軽さをめぐる過酷でユーモラスな闘争の記録だった。現代演劇はこの無/重力的社会=空間の中で人間が生きる術を探っているようにも思える。