2018年5月1日火曜日

「風の谷のナウシカ」漫画版

宮崎駿 著、徳間書店、愛蔵版各巻 5,631円+税
1982年に連載を開始し、1994年に完結した『風の谷のナウシカ』の漫画版をご存知だろうか?有名な映画版の公開は1984年の3月11日(!)なので、連載初期に一度映像化され、その後も長く描き続けられたという代物だ。
俺は出版されたアニメージュコミックス全7巻(今でもamazonで、3,072円で買えるので、超おすすめ!)をざっくり読んではいたが、改めて読み直して、その独特な芸術的ポジションに興味を引かれた。いや、読み物としてはどうなの?と聞かれたら、それはもう文句なしにおもしろい!と言いたい。映画のストーリーにあたる序盤を過ぎた頃から、ありったけの時間を注ぎ込んで読み耽った。ただ、その直中で感じたのが「音がない」という自分でもよくわからない奇妙な印象だった。もっと丁寧に考えてみるべきかな。たとえば、本を読みながらふと息をついたとき部屋の静寂ぶりに驚くということは珍しくないと思う。そしてまた読み続けるため再び物語世界へ没入するわけでこの作品も同様だったが、そのとき微細な違和を感じたのだ。なにかがいつもと違う。音がない、というか、音の層が薄い、というか、でも音自体は、あるにはある。台詞も多いし、戦争ものとしての物語はきわめて騒々しい世界だし、表現上の擬音も多用され、その手の話法は普通の漫画と変わらない。それでも、音の層が薄いと感じたのはなぜか。
漫画は絵と文字によって世界を物語る。そのため映画がもっているような音や動きの要素は、漫画家が苦心して比喩的に再現することになる。ところが、アニメーション製作者でもある宮崎駿は、日々、音や動きを駆使した仕事をやっていて、その上で漫画を描いた。だから、彼にとって音と動きは別の場所に実在していたのだ。たとえば『風の谷のナウシカ』映画版の冒頭、王蟲の抜け殻を見つけたナウシカがその硬い表皮に剣を叩き付けて放つキーンという高く美しい響き。あるいは、腐海の菌類の胞子を手持ちの試験管に採取するときのフワッと沈むように落ちる繊細な動き。そういう映像芸術の効果を知る作家が漫画固有の不自由さへ戦いを挑むなどという動機を持つはずがない。俺が「音の層が薄い」と感じたのは、音の表現が簡略化されていたということへの反応だったのだろう。「漫画として描くならアニメーションで絶対できないような作品を」と言って描き始めた宮崎ゆえに、専門の漫画家たちとはその文体を異にしているのだと思う。
そして『風の谷のナウシカ』の漫画版は、12年間にわたって複雑なストーリーを編みながら世界観を構築し、唯一無二の作品を打ち立てた。この複雑さを活かしたまま2時間のアニメ作品にするなんて到底不可能だろうし、そもそも執筆の動機は映像化に逆行することだった。読み終えて思うのは、結局、宮崎はそこで自身の思想的探求を行っていたのだ、ということである。映画版のナウシカが「自然と文明」の和解のために奔走したのに対し、漫画版のナウシカは腐海の謎を解くためならどんなリスクも受け入れるだろう。腐海の謎とは、われわれの生きる世界の謎であり、それは「自然と文明」の絶対的非和解であるかもしれず、だとすれば、映画版を否定する可能性すらある。漫画版『風の谷のナウシカ』はそんなスリリングな思想的ミステリーとして漫画史に燦然と輝いているのではないだろうか。